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 街灯の灯りが増えるたび、町は少しずつ地面から浮いていくように見えた。

 昼間は道も塀も店先も、全部が重力を持ってそこにあったのに、夜になると輪郭だけが先に残って、中身が少し遅れてついてくる。


 俺は住宅街の外れを、駅と反対の方へ歩いた。

 細い道だった。

 片側に古いブロック塀、片側に月極駐車場。

 駐車場には、車が三台だけ停まっていて、どれも窓が暗い。黒いのに、近くで見るとわずかに町の灯りを抱いていた。

 電柱の根元に、昼間は見えなかった細かい砂が溜まっている。

 誰かが自転車で通れば、すぐに崩れそうな小さな山だった。


 夜になると、生活の主役じゃないものたちが、急にこちらを向いてくる。

 排水溝の金属の縁。

 電柱の根元にたまった砂。

 塀の継ぎ目に残った細い苔。

 昼には、人の気配の後ろに沈んでいたものたちが、夜になると、急に前へ出てくる。


 道の先で、自販機が白く光っていた。

 昼間もずっとそこにあったのに、夜になると、そこだけ町の中に開いた窓みたいに見える。

 周りの暗さから切り離された白さ。

 近づけば、缶やペットボトルが並んでいるだけだと分かるのに、遠くから見るとただの明かり以上のものに見える。

 

 何度か、後ろを振り返った。


 音がしたわけじゃない。

 呼ばれたわけでもない。

 ただ、背中側の暗さが、一歩ずつ近づいてくるような気がした。

 気がしただけで、振り向けばいつも何もない。


 何もない道。

 少し湿った夜気。

 電柱の影。

 閉まった窓。

 洗濯物のないベランダ。

 それだけだ。

 それだけなのに、一度振り向いたあとしばらくは、背中側の暗さが前より近く感じる。


 遠くでは、車の音が続いていた。

 信号で止まり、また流れ出すたび、夜の底で低く擦れる。

 その音が、ふっと消える瞬間がある。

 すると、今度は、静けさが前へ出てくる。

 無音になるわけじゃない。

 むしろ逆で、聞こえないはずの部分だけが、音より先にそこにあった。


 古いアパートの前を、通りかかった。

 二階の角部屋だけに、灯りがついている。

 カーテンは薄いベージュで、内側を人影が一度だけ横切った。

 ただ、それだけのことなのに、なぜか妙に鮮明に見えた。

 影が消えたあとも、そこに“さっきまで誰かがいた”という気配だけが残る。


 夜は、消えたものの輪郭を長く残す。


 昼なら見逃すものが、夜だと消えずに留まる。

 通り過ぎた自転車のベル。

 閉まった玄関の音。

 カーテンの揺れ。

 そういう小さな痕跡が、空気の中に薄く貼りついて、なかなか剥がれない。


 俺はアパートの前を離れて、踏切のある方へ向かった。

 踏切はもう鳴っていない。

 線路の上にだけ、遠くの信号の色が細く滑っている。

 レールは濡れていないのに、水面みたいに光を持つ。

 夜の線路は、どこまでも続く金属じゃなく、どこかへ流れていく帯に見えることがある。伸びている。

 

 向こう側のホームの端に、誰かが立っているように見えた。

 細い影。

 黒いコート。

 動いていない。

 電車を待っているだけかもしれない。

 そう思った次の瞬間には、もういなかった。

 見間違いだったのかもしれない。

 柱の陰だったのかもしれない。

 そう考えれば済む程度のことだ。

 でも、一度「いた」と感じた場所は、そのあと、しばらくただの空白には戻らない。

 そこだけ、何もないことが逆に目立つ。

 

 俺は、その空白から目を逸らして、また歩き出した。


 歩いていると、ときどき、町全体が、息を止める瞬間がある。

 車の音が途切れ、テレビの音も聞こえず、風もなく、犬も鳴かない。

 ほんの数秒。

 でもその数秒だけ、町が自分の呼吸を忘れて、何かを待っているみたいに静かになる。

 その静けさが、たまらなく不気味だった。

 何を待っているのか、分からない。

 誰のための間なのかも、分からない。

 ただ、その数秒のあいだだけ、現実が現実のふりをやめる。

 すぐに元へ戻る。

 どこかでドアが閉まる。

 自転車が通る。

 遠くで食器の触れ合う音がする。

 すると、さっきの静けさの方が嘘みたいに見えてくる。

 けれど、嘘にするには深すぎた。


 商店街の外れまで戻ると、昼に見た店先は、もう半分以上が暗くなっていた。

 シャッターの下りた店。

 看板の電気だけがついている店。

 まだ開いているのに、客の気配がまるでない店。

 夜は、全てが、表側だけを残して、中が抜けたようだった。


 薬局ののぼりが、一度だけ揺れた。

 風はない。

 それでも、布だけがごく小さく動いて、また止まる。

 それだけのことなのに、妙に目が離せなかった。


 コンビニの前では、店員が床をモップで拭いていた。

 ガラス越しの白い光は明るすぎて、店の中だけ時間が違うみたいに見える。

 外の夜と、店内の白さのあいだに、薄い膜がある。

 外の暗さと中の白さのあいだに、薄い透明な膜が張ってあるみたいだった。

 誰かが、出てくる。

 誰かが、入っていく。

 自動ドアが開く。

 閉じる。

 そのたびに、小さな風が道まで漏れてくる。

 その動きは現実そのものなのに、少し離れて見ていると、模型の中の仕掛けみたいに感じる瞬間がある。

 

 川沿いまで来た。

 欄干の向こうで、水面が、街灯を細かく崩している。

 昼には、ただ揺れていただけの水が、夜になると、どこまでも深く見える。

 暗いから深く見えるんじゃない。

 深さの底に、もう一段、別の暗さがある気がするから。


 欄干に、手を置く。

 金属の冷たさだけが、妙にはっきりしている。

 夜全体が、少しずつ曖昧になるのに、こういう感触だけはやけに現実的で、そのことが逆に落ち着かなかった。

 橋の上を、車が二台続けて渡った。

 ヘッドライトが、川に白い筋を引いて、すぐに切れる。

 まるで、最初から何もなかったみたいに、夜がその痕跡をすぐに飲み込んでしまう。

 夜は、見せるのがうまい。

 でも、それ以上に、隠すのがうまい。


 俺は、しばらく欄干の前に、立っていた。

 何かを待っているわけじゃない。

 でも、どこへ行っても同じような気がしていた。

 町のどこを歩いても、現実のまま。少しだけずれている。

 その“少し”が、夜になるほど増えていく。


 空を見上げた。

 夜空は、低くはないのに、どこか近い。

 街の明かり、が下から押し上げて、闇そのものを薄くしている。

 その薄い闇の向こうに、もう一段、知らない暗さがある気がした。


 俺は、欄干から手を離した。

 ずっと同じ場所にいると、自分まで風景の裏側に回ってしまいそうな気がしたからだ。


 歩く。

 歩くしかない。


 夜の町は、何も言わない。

 何も起こさない。

 ただ、知っているはずの景色を、少しずつ知らない側へ滑らせていく。

 その静かな滑り方が、いちばん不気味だった。



 真夜中を、少し過ぎた頃だった。


 町は、もうほとんど音を、使い切っていた。

 遠くの車の気配も薄くなって、コンビニの前にあった人影も消えて、家々の窓明かりもまばらになっている。

 起きている部屋は、まだある。

 けれど、その起きている気配さえ、どこか深い布の向こう側にあるみたいに鈍い。


 俺は駅の裏手、高架沿いの細い道を歩いていた。

 昼間なら、ただの抜け道だ。

 自転車が通って、近道をする人がいて、壁際に雑草が伸びている。

 それだけの場所。

 夜になると、その何でもなさだけが薄くなる。


 高架の上には、もう何も走っていない。

 それでも、ときどき、何かの気配だけが、高いところから遅れて降りてくるような感じがした。

 音ではない。

 振動でもない。

 もっと曖昧な、空気の重さのようなものが、一拍遅れて肩に触れる。


 道の脇に、自販機が一台だけ光っていた。

 昼間も、ずっと同じ場所にあったはずなのに、真夜中だと、その白だけが、妙に孤立して見える。

 明るいというより、そこだけ別の薄さで切り抜かれているみたいだった。

 その前を通り過ぎかけて、俺は足を止めた。


 風はない。

 なのに、道の先の暗がりだけが、ほんの少し形を変えた気がした。

 変わった、と言えるほど、はっきりではない。

 ただ、さっきまでそこにあった暗さが、そのまま同じ場所に留まっていない感じ。

 影の濃さでもないし、光の加減でもない。

 暗がりの“在り方”だけが一瞬ずれたように見えた。


 目を凝らしても、何も見えない。

 高架の柱、フェンス、壁に残った古い雨染み。

 見えるのは、それだけだ。

 それなのに、その向こうを、何かが通っていく感じだけがある。

 音はしなかった。

 少なくとも、はっきりした音は。

 ただ、静けさの質が変わった。

 それまでの静けさは、ただ音が少ないだけの静けさだった。

 今は違う。

 何かがある、というほどでもないのに、そこへ耳を向けるのをためらうような静けさ。

 うまく言えないまま、喉の奥だけが、冷える。


 高架の下の暗がりが、少しだけ深くなる。

 自販機の白が、ほんの一瞬だけ黄ばんで見える。

 道の脇に立っているガードレールの影が、いつもより細長く揃っているように見える。

 それは、目の錯覚かもしれない。

 街灯の具合かもしれない。

 そう思うには、あまりに短かった。


 少し先の街灯の色が、わずかにくすんで見えた。

 切れかけているわけでも、弱っているわけでもない。

 ただ、いつもの白さに、古い色が一滴だけ混ざったみたいになる。

 その灯りの下の空気が、ほんの一瞬だけ濁った気がした。

 人影じゃない。

 何かの形が、見えたわけでもない。

 しかし、空気だけが、そこを避けるのに失敗したみたいに、わずかに引っかかって流れた。

 俺は、振り返りたくなった。

 けれど、振り返ったところで何もいないと分かっている気もした。

 何もいないはずなのに、見たあとで。今よりもっと嫌な感じだけが残りそうだった。

 だから、そのまま前を向いていた。


 何も起こらない。

 誰も現れない。

 足音もしない。

 声もしない。

 それなのに、夜の肌ざわりだけが、じわじわ変わっていく。


 自販機のモーター音が、少し遠のく。

 どこかの換気扇の音も、今だけ薄い。

 普段なら耳の端に引っかかるはずの生活の細かな音が、ほんの少しだけ後ろへ退いて、そのぶん、道の真ん中の空気だけが、前へ出てくる。

 町が、そこだけ息を浅くしたみたいだった。

 俺は、知らないうちに、壁際へ寄っていた。

 避けるつもりなんてなかった。

 何を避けるのかも分からない。

 ただ、道の中央に立っているのが落ち着かなかった。

 高架の柱の影が、やけに近く見える。

 その影の奥に、さらに同じような暗さが何枚も重なっているみたいだった。

 奥行きと言っていいのかも分からない。

 ただ、夜がそこで一枚じゃ済んでいない感じがする。


 耳を澄ます。

 何も聞こえない。

 聞こえないのに、聞き続けてはいけないものに耳を向けている気がした。

 不気味だった。


 しばらくして、ふっとその感じが薄れた。

 道はまた、ただの道に戻る。

 自販機の白も、いつもの白さに戻る。

 高架下の暗がりも、見慣れた深さになる。

 遠くで車が一台、角を曲がる。

 どこかの家で、水の流れる音がする。

 町は、何もなかったみたいな顔をしている。

 それでも、今さっきまで、夜の中のどこか一部分だけが、こちらの知らない理屈で息をしていた。


 俺は、しばらくその場から動けなかった。

 見たものは、何もない。

 言葉にできるものもない。

 ただ、暗さの中に、触れてはいけない温度の違いみたいなものだけが、一度あった。

 その名残だけが、喉の奥に冷たく残っている。

 それは、幻だったのかもしれない。

 そう思えば済む程度の、曖昧な出来事だった。

 でも、もし本当にただの幻なら、こんなふうに喉の奥だけが、冷えたままになるだろうか、とも思う。

 俺は壁から背を離して、ゆっくり歩き出した。


 振り返らなかった。

 振り返った先に、何かがいてほしくないし、何もなくても、それはそれで今の感覚をどこへ置けばいいのか分からなくなる気がしたからだ。

 真夜中の町は、また静かだった。

 静かで、見慣れた形をしていて、どこもかしこも現実のままだった。

 それなのに、その現実のすぐ下を、何かが、ひどく静かに擦っていった気がしてならなかった。

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