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 昼の町は、やさしい顔をしていた。

 朝の慌ただしさが少し引いて、午後へ向かう前の、いちばん平日の輪郭がはっきりする時間だった。

 空は、薄く晴れていて、雲の縁だけが白く光っている。

 風は、弱い。冷たいわけでも、暑いわけでもない。

 人が、ちゃんと上着を着て、ちゃんと歩けるくらいの温度だった。


 駅前から続く商店街には、平日の音が流れていた。

 八百屋の前に積まれた段ボール。パン屋から漏れる甘い匂い。薬局の自動ドアが開くたびに鳴る軽い電子音。自転車のベル。遠くでバックしているトラックの警告音。

 どれも、何でもない音だった。

 何でもないからこそ、胸の奥にじわじわ沁みた。

 主婦らしい女が、エコバッグを腕に掛けて、店先の野菜を見比べている。

 駅へ向かう会社員は、片手でスマホを見ながら、もう片方の手でコンビニのコーヒーを持っていた。


 全てが、穏やかだった。

 穏やかで、よく整っていて、その整い方の中に俺の入る隙間だけが無い。


 誰も急いで壊れていない。

 誰も劇的に泣いていない。

 みんな、それぞれの用事のために歩いて、立ち止まって、買って、戻っていく。

 どの顔にも、今日の続きがあった。

 昼のあとに午後が来て、そのあと夕方が来ることを疑っていない顔だった。


 道の端を、歩く。

 歩いているのに、誰とも肩が触れない。

 触れないように避けているわけじゃない。向こうが自然に通り過ぎていって、俺のいる場所だけが最初から空いていたみたいに流れていく。


 クリーニング店のガラス越しに、店員がワイシャツを並べていた。

 白い布が整然と揺れている。アイロンの湯気が、店内の蛍光灯を少しだけ曇らせる。

 その光景はきれいだった。

 きれいすぎて、自分がそこに混ざれないことが、急に現実になった。

 向かいの喫茶店では、窓際の席に年配の夫婦が座っていた。

 どちらもほとんど喋らない。ただ、片方が砂糖を入れて、もう片方が新聞をたたむ。そのタイミングが不思議なくらい自然で、何年も同じ昼を繰り返してきた人たちの静けさがあった。


 俺も、前はこういう町の一部だったはずなのに。

 特別な誰かじゃなくてよかった。

 コンビニに入れば入店音が鳴って、大学に行けば講義が始まって、家に帰れば飯の匂いがして。

 そういう普通の流れに、ただ混ざれていた。


 商店街を抜けると、小さな公園がある。

 平日の昼だから、遊具には子どもがいない。

 ブランコが二つ、止まったまま並んでいた。滑り台の赤い支柱が日に温められて、鈍く光っていた。

 砂場の縁に、赤いスコップが一本だけ刺さっている。たぶん朝のうちに遊んで、そのまま誰かが帰ったのだろう。

 誰かがいて、誰かが帰る。

 置き忘れたものには、持ち主がいる。

 午後になれば、また取りに来るのかもしれない。

 そういう当たり前が、公園のあちこちに残っていた。

 俺はベンチの前で立ち止まった。

 座ることはできるのかもしれない。できないのかもしれない。

 試す気にはならなかった。座れたところで休まるわけじゃないし、座れなかったら、それはそれで別の形で傷つくだけだと思った。


 向こうの住宅街から、洗濯物の匂いが流れてくる。柔軟剤の甘い匂い。

 どこかの家の昼飯の匂い。味噌か、醤油か、焼いた魚の気配。

 生活の匂いは、目に見えないのに、輪郭がある。

 あの匂いのある場所には、今日もちゃんと昼がある。

 布団を干す人がいて、鍋に火をかける人がいて、テレビの音を小さくつけたまま、台所に立つ人がいる。

 俺は、それを遠くから嗅ぐことしかできない。


 救いようのないことに、町は優しい。

 誰か一人がいなくなっても、電車は来るし、パンは焼けるし、昼の光は同じ角度で建物に落ちる。

 そのことを責めたいわけじゃない。

 責める資格もない。

 ただ、その変わらなさの前に立つと、自分だけが切り離されてしまった感じが、どうしても強くなる。


 踏切が鳴り始めた。

 カン、カン、カン、と乾いた音が昼の空気を叩く。

 公園の横の道で、人が少しだけ足を止める。

 自転車に乗った高校生がブレーキを握る。買い物帰りの女が袋を持ち直す。犬を散歩させていた老人がリードを短く引く。

  待てば終わるものがある。

 遮断機は上がる。

 信号は変わる。

 昼は終わるし、午後も来る。


 俺には、その“次”がない。


 いや、時間は進んでいる。

 昼は午後になるし、午後は夕方になる。

 でも俺は、その流れに乗れていない。

 進んでいるのに、どこにも着かない。

 同じ町の中を歩いているのに、誰かの今日の続きには一度も入れない。

 電車が、通り過ぎた。

 銀色の車体に、日が反射して、白く光る。

 一瞬だけ強い光が遊具やフェンスを撫でて、それから何もなかったみたいに遮断機が上がる。

 人がまた歩き出す。

 自転車が進み、犬も歩き、買い物袋が揺れる。

 町は一分をきれいに畳んで、もう次の時間へ移っている。

 俺だけが、その一分の外に取り残されていた。


 平日というものは、ひどく残酷だと思った。

 休日みたいな派手さも、夜みたいな異様さもない。

 ただ、普通が普通の顔をして続いていく。

 その中で、自分だけが普通の流れから弾かれていることが、隠しようもなく見えてしまう。


 公園の隅に、鳩が二羽いた。

 地面をつついて、少し歩いて、またつつく。

 人の気配を恐れない距離で、のんびりと餌を探している。

 俺が近づいても、散らなかった。

 人にも見えない。

 鳥にも脅威じゃない。

 風景の中の“何でもないもの”にすらなれていない。


 俺は、視線を上げた。

 公園の向こう、二階建ての家のベランダにシーツが干してある。白い布が日に透けて、薄く空の色を含んでいた。

 その下の窓には、カーテン越しの影が動いている。

 人の気配。

 生活の気配。

 そういうものは、遠くから見ているぶんには、静かで美しい。

 でも、その美しさの中に自分の場所が一つもないと分かった瞬間、景色はただの刃になる。


 俺は、また歩き出した。

 コンビニの前を通る。

 店内では、店員が雑誌の棚を整えていた。

 温めますか、と言う声がして、客が短く頷く。

 電子レンジの中で、何かが回る。

 その何でもなさが、胸に刺さる。

 あそこには、昼飯がある。

 眠い授業の前に飲む缶コーヒーも、家に持って帰るプリンも、急いで買う絆創膏も、ちゃんとある。

 ちゃんとある場所に、俺だけが入れない。


 切り離されている、と思った。

 劇的な切断じゃない。

 世界が二つに割れたとか、境界線が見えるとか、そういう派手なものじゃない。

 もっと静かで、もっと確実な隔たりだった。

 薄い紙を一枚挟んだみたいに、現実とのあいだに目に見えない隔たりがある。

 向こう側の景色は見える。音も匂いも届く。

 でも、こちらからは、何一つ触れられない。


 昼の町は、まだ明るい。

 明るいまま、誰にでも平等に今日を配っている。

 俺は歩道の端を歩きながら、その明るさの中で、自分だけが影にもなれずにいる気がした。


 夜みたいに紛れられない。

 昼の光は、平等すぎた。

 平等だからこそ、そこにいないものだけが、はっきりと分かってしまう。

 俺は、ふと空を見上げた。

 雲は薄く、青は浅い。

 遠くを横切る飛行機雲。

 どこにでもある平日の空だった。

 どこにでもある空の下で、俺だけがどこにも属していない。

 その事実は、悲しいというより、ただ静かに重かった。

 持ち上げようとしても持ち上がらない荷物みたいに、胸の奥に沈んでいた。


 俺は、また歩き出した。

 昼の町は、何も変わらない。

 誰かの洗濯物が揺れ、誰かの昼飯が湯気を上げ、誰かの午後がちゃんと始まっていく。

 その変わらなさの中で、俺だけが現実から一枚ずれた場所を歩いていた。


 

 午後の光は、ある時刻を境に急に変わるわけじゃない。

 気づかないうちに、少しずつ質を失っていく。

 昼間は、あれほど平たく道の上に広がっていた光が、いつの間にか斜めになって、建物の壁や電柱の影を長く引きのばしている。

 町は、まだ明るい。

 しかし、その明るさはもう昼のものじゃなかった。

 何かを終えながら残っている光だった。


 商店街の影が、長くなる。

 軒先の赤いのぼりが、風もないのにゆっくり揺れる。

 パン屋の前の立て看板が店内に引き上げられる。

 八百屋の店先から、売れ残った箱が減っていく。

 クリーニング店のガラス戸に映る店内の光が、外の光より少し強くなる。

 町全体が静かに呼吸を変えているようだった。

 昼の吸い方から、夜の吐き方へ。


 俺は、駅前から住宅街へ続く道をあてもなく歩いていた。

 道の脇の植え込みに、午後の光が斜めに刺さっている。

 何かが終わりかけているときの、少しだけ頼りない明るさだった。


 スーパーの自動ドアが開いて、買い物帰りの人たちが何人か出てくる。

 袋の中で、長ねぎの先が揺れる。

 透明なパックに入った肉が、夕日の角度を受けて白く光る。

 みんな、これから先の時間のために、何かを持ち帰っている。

 夕飯の支度。家族の帰宅に間に合わせる何か。


 午後の終わりには、みんな少しだけ家の方を向く。

 晩飯のことを考えたり、明日の弁当の中身をぼんやり決めたりしながら歩いている。

 声に出さなくても、その身体の向きだけで分かる。


 公園の前を通る。

 昼間は空っぽだった遊具のところに、今は小さな子どもが、二人だけいた。

 ブランコが往復して、鎖が短く鳴る。

 滑り台の上から、甲高い声が一度だけ落ちる。

 ベンチでは母親が二人、ほとんど会話らしい会話もなく並んで座っていた。

 俺は。公園の柵の前で、足を止めた。

 止めても、何かが変わるわけじゃない。

 ただ、人のいる場所を見ていると、そこに混ざれないことだけがはっきりする。

 ブランコの下の土は、暗い色をしていた。

 遊具の影が伸びて、砂場の縁を半分だけ覆っている。

 午後から夕方へ移るとき、町の中で最初に変わるのは色じゃなく、影の長さなのかもしれない。


 カーテンを閉める。

 洗濯物を取り込む。

 自転車を屋根の下へ入れる。

 そういうことの積み重ねで、町は少しずつ外側を薄くして、内側の明かりを育てていく。

 遠くで踏切が鳴り始めた。

 昼より少しだけ、柔らかい音だった。

 同じはずなのに、夕方の音はどこか角が取れて聞こえる。

 工事の音も、車の走る音も、誰かの呼ぶ声も、みんな一日の終わりに向かって少しずつ丸くなっていく。

 俺は、踏切の方へ歩いた。

 遮断機の前には、学校帰りらしい学生が、立っていた。

 部活帰りなのか、鞄の持ち方が投げやりで、シャツの裾が、少し乱れている。

 そのだらしなさに、むしろ生を強く感じた。


 電車が、通り過ぎる。

 窓に夕方の光が反射して、白とも橙ともつかない色が一瞬だけ流れていく。

 昼をまだ少しだけ引きずった光。

 夕方というのは、中途半端さを全部抱えた時間だった。

 電車の中に座っている人たちは、きっとこのあと家へ帰る。

 コンビニへ寄るかもしれない。

 駅前の惣菜屋で、コロッケを買うかもしれない。

 風呂を沸かすかもしれないし、誰かに「遅くなる」と連絡するかもしれない。

 俺のこのあとは、何だろうとふと思う。

 夕方のあとには夜が来る。

 それは、俺も同じはずなのに、決して同じではない。

 

 遮断機が上がり、人がまた歩き出す。

 みんな、止まることに慣れている。

 止まったあとに、また進めることを知っているから。

 そして、平日の夕方は、そういう小さな停止と再開の繰り返しでできていることを知った。


 西の空が、薄く色づいていた。

 橙とも桃とも言えない淡い色が、建物の屋根の向こうにだけ残っている。

 電線が細く交差して、そこに鳥が二羽とまっている。

 鳥はしばらく動かなかったが、気づくと一羽減っていた。飛び立つ瞬間を見逃したのに、確かにいなくなっている。


 住宅街に入ると、家々の窓にぽつぽつと明かりが点き始める。

 まだ全部じゃない。

 でも、一つ灯るたび、町は少しずつ外側を閉じていく。

 カーテンの向こうで、影が動く。

 台所の窓から湯気が曇る。

 自転車が、門の内側へ入れられる。

 小さな動きの一つ一つが、夕方を夜へ押し出していく。


 人は、家へ帰る支度を始める。

 店は、閉める支度を始める。

 町は、光を灯す支度を始める。

 そして、俺のいる側では、何か別のものが目を覚ます支度を始めている気がした。


 昼間はただの白だった自販機の光が、夕方になると少し硬く見える。

 川沿いの水面も、昼はただ光っていただけなのに、今は光を抱えたまま何かを待っているみたいだった。

 歩道橋の金属も、まだ黒くはないが、暗くなるための色をもう内側に持っている。


 空の色が、もう一段落ちた。

 公園の子どもたちは、いつの間にかいなくなっている。

 ベンチにいた母親もいない。

 砂場の縁だけが、夕方の残り光を受けて白く浮いていた。


 人の気配が引いた場所には、別の静けさが残る。

 夜の前にだけ一度現れる、薄くて底のある静けさだ。

 俺はその静けさを知っていた。


 まだ完全な夜じゃない。

 昼のものは、少しずつ終わっていて、夜のものはまだ名乗らなかった。

 そのあいだの、誰のものとも言い切れない薄い時間。

 家々の窓に、次々と光が灯る。

 カーテンの向こうで、人影が、一度だけ動く。

 台所の灯りは、どこの家でも少しだけ黄色い。

 その黄色さが、夕方の空の青みと混ざって、町全体を薄い膜みたいに包んでいく。


 町は、人のために夜の支度をしている。

 同時に、俺の知らない何かのためにも、静かに場所を空けている。

 そんな気がした。


 西の空の色が、とうとう消えた。

 青と橙の境目が、曖昧になって、かわりに街灯がひとつ、またひとつと地面に円を作り始める。

 俺は、その最初の街灯の下で、立ち止まった。

 そこから先へ踏み出せば、昼の名残は、もうほとんど背中側に回る。

 平日ののどかな世界が閉じて、別の静けさが開く。


 風は、まだない。

 空気も、大きく変わっていない。

 それでも、夜はもう近くに来ていた。

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