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 数日、あるいはもう少し経っていたのかもしれない。


 死んでからの時間は、ちゃんと数えようとすると、途端に輪郭を失う。

 朝が来て、夜が来る。

 人が働いて、帰って、眠る。

 そういう町の時間は、見えるのに、俺の時間だけが、どこにも引っかからない。

 それでも、夜の冷え方や、コンビニの品出しの時間や、始発前の駅前の白さで、だいたいの流れは分かるようになっていた。

 慣れたわけじゃない。

 慣れたふりをしないと、立っていられなかっただけだった。


 夜、雨は降っていなかった。

 空気は、湿っていて、昼間の熱を少しだけ残したアスファルトが、夜の冷たさと混ざって、妙に生ぬるい匂いを出していた。


 駅から少し離れた細い道。

 自販機の白い光が、何でもないコンクリートの壁まで照らして、そこだけ夜が浅くなる。

 光っているというよりも、暗がりの中に穴が開いているみたいに見えた。

 喉は渇かない。

 腹も減らない。

 それなのに、飲み物の列を見ていると、生きていた頃の癖だけがうっすら残っていて、何かを買うみたいに目線が上下する。

 手に取ることも、飲むことも叶わないと知っているはずなのに。


 そのときだった。

 不意に、背中の奥が冷えた。

 風が吹いたわけじゃない。

 誰かに見られた気配もない。

 ただ、何もないところに、何かが一枚、挟まった感じがした。

 身体の中に、本来あるはずのない隙間が急にできたみたいな、嫌な感覚。


 俺は、確かめるみたいに自分の名前を心の中で呼んだ。

 相沢――

 そこまでは、何の抵抗もなく出た。

 考える前に出る。呼吸みたいに。

 でも、その先で、何かが止まった。

 暗い部屋の中で、机の上にあった物を取ろうとして、手を伸ばした先が、空だったときみたいな感覚。

 確かにあると知っている。知っているのに、触れた瞬間だけ、それが無い。

「……あ」

 声には、ならない。

 喉の奥で何かがひっかいた感覚だけが残った。

 もう一度、呼ぶ。

 相沢――

 そこまではいい。

 問題は、そのあとだ。

 けい。

 さとし、じゃない。

 あきら、でもない。

 違う。そんな読みじゃない。俺の名前はそんな音じゃなかった。

 分かっている。

 分かっているはずなのに、そこへ届く前の道筋だけが、急にぬかるんだみたいに曖昧になる。

 頭の中で、漢字を書こうとした。

 空中に指を動かす癖で、一画ずつ確かめるみたいに。

 でも、途中で止まる。

 日。

 違う。

 心。

 いや、そうじゃない。

 何かが下にあって、何かが上に乗っていて――

 そこまで来て、急に分からなくなる。

 分からなくなった瞬間、身体の中心にあったはずの細い芯が、少しだけ削れたような感覚に襲われる。

 

 怖い、と思った。

 でも、今まで知っている怖さと違った。

 捕まる怖さじゃない。

 痛みの怖さでもない。

 死ぬときに来た、あの一直線の恐怖とも違う。

 もっと曖昧で、もっと深い。

 自分の内側にいるはずの何かが、知らないうちに別のものへ置き換わっていくみたいな怖さだった。


 俺は反射的に、近くのガラスに顔を寄せた。

 自販機の側面。夜の光を鈍く返す透明な板。

 当然、俺は映らない。

 映らないことなんて、もう何度も確かめている。

 それなのに、今は、映らないことよりも、そこに名前まで映らない気がした。


 自分の名前を忘れるなんて、そんなことあるわけがないと思っていた。

 顔より先に覚えるものだ。

 字を書くたび、呼ばれるたび、書類に書くたび、当たり前みたいに使ってきた。

 それが今、たった一文字だけ、暗闇の中に落ちたみたいに見つからない。

「違う……」

 喉が動く。

 音は落ちない。

 落ちないまま、焦りだけが大きくなる。


 俺は繰り返した。

 相沢。

 相沢。

 相沢――その先。

 そこまでは、まだ俺だ。

 じゃあ、その先は何だ。

 俺は急に、自分の中に空洞が開いたような気がした。

 胸の真ん中じゃない。

 喉の奥でもない。

 もっと、名前を名前として繋ぎ止めている、見えない場所。

 そこに、何か冷たいものが入っている。

 触れられないのに、確実にそこにあった。

 その感じが、あまりにも気味悪くて、足元が一瞬揺れた。


 自販機の光が強すぎる気がした。

 白が痛い。

 ラベルの色がやけに鮮やかで、現実だけが濃くて、自分だけが薄い。


 遠くで、車が一台通った。

 タイヤが濡れた路面を切る音。

 どこかの家で風呂の栓を抜く音。

 電線の上で、小さく鳴いた鳥みたいな音。

 町は何も知らない。

 光っている。

 動いている。

 普通に続いている。

 俺の中だけが、何かひとつ、静かに欠けた。

 その欠けたものの名前が分からない。

 それが、一番怖かった。

 分からないものに奪われるとき、人は抵抗できない。

 どこを押さえればいいのか分からないから。


 何が起きているのか、説明できない。

 誰にも見えない。

 自分ですら、輪郭が掴めない。

 ただ、確実に、自分の中の自分に関する部分が、どこかへ滑っていく。

 あの歩道橋で、手すりを掴み損ねた瞬間と似ていた。

 掴めると思った。

 間に合うと思った。

 でも、指先が届かなかった。

 今も同じだ。

 俺は今、自分の名前の一部を、目の前で掴み損ねている。

 拾わなきゃ、と思った。

 今ならまだ間に合う気がした。

 忘れたんじゃない。少し迷っただけだ。そう言い聞かせた。


 俺は、目を閉じた。

 母さんの声を思い出す。

 父さんの字を思い出す。

 大学で出席を取られたときの感じ。

 学生証。

 葬式の遺影の横に置かれた札。


 相沢慧。


 今度は、思い出せた。

 ちゃんと。はっきり。

 しかし、その瞬間、安堵するより先に、別の恐怖が来た。

 今、たしかに一度、失いかけた。

 それが事実になった以上、もう“前と同じ”には戻れない。

 俺は、自分の名前をもう一度心の中で呼んだ。

 今度は、言える。

 言えるのに、前みたいな安心はない。

 砂の上に書いた字みたいだった。

 今は読める。

 でも、次の風で崩れるかもしれない。


 俺は、自販機の白い光の前で、立ち尽くした。

 町は変わらない。

 夜はそのまま続いている。

 でも俺の中では、何かがもう始まってしまっていた。


 死んだことは、一度で済む。

 けれど、自分の名前が曖昧になるのは、もっと静かで、もっと執拗だということを知った。

 それは、悲鳴の出せない溺れ方に似ていた。

 誰にも見えない場所で、少しずつ、自分が自分の外へ沈んでいく。


 俺はその場を離れた。

 歩く。

 歩くしかない。

 止まったら、次にどの音が、どの字が、どの記憶が欠けるのか、はっきり聞こえてしまいそうだったから。



 次に、それが起きたのは、雨のない夜だった。


 雨が降っていない夜は、町はかえって残酷だった。

 濡れた路面も、煙る光もないぶん、輪郭がはっきりしている。

 家々の窓。電柱の影。白線。駐輪場の自転車の並び。そういうものが、全部きちんと、ここにある顔をしていた。


 夜気は乾ききらず、昼の置き土産のような湿り気が、道路の表面に薄くへばりついている。

 駅前から少し外れた住宅街のはずれ。

 小さな公園の隣。

 ブランコも滑り台も、街灯の届くところだけ鈍く光って、そこから先は闇に溶けていた。

 子どもがいない公園は、昼の名残だけが、置き去りにされている。

 小さな足跡。砂場に刺さったプラスチックのスコップ。

 誰かが飲みかけで忘れた紙パック。


 何をしに来たわけでもない。

 ただ歩いて、歩いて、気づいたらここにいた。

 足を止める理由も、歩き続ける理由も、もうずいぶん曖昧になっている。

 ただ、立ち止まると自分の中の音が大きくなるから、できるだけ歩いていた。


 そのとき、嫌な感じがした。

 気配じゃない。

 視線でもない。

 もっと曖昧で、もっと内側から来るものだった。

 胸の奥に、見えない爪が一本だけ立つみたいな感じ。

 何かが起こる前の直観。

 もう何度か味わって、そのたびにろくでもないことしか起きなかった感覚。


 理由は分からない。

 何かの気配を感じたわけでもない。

 胸の奥が先に冷えて、そのあとで何かが起きる。


 俺は反射で、自分の名前を確かめた。

 相沢。

 そこまでは、すぐに出た。

 名字はまだ大丈夫だった。

 問題は、その先だ。


 けい。


 読みはある。

 音としては、分かる。

 母さんが呼ぶときの響き。父さんが書類を書くときに確かめる声。大学で出席を取られるときの、少しだけ事務的な音。

 それは残っている。

 だが、漢字が出てこない。

 最初は、出にくいだけだと思った。

 ちょっと焦っているだけだから、だと。

 少し落ち着けば、すぐに思い浮かぶはず、だと。

 頭の中で字を書く。

 何度も書いた。

 ノートの表紙にも、試験用紙にも、バイトの書類にも。

 生きていた頃は、考えなくても手が覚えていたはずの字だ。

 なのに、その字が、どこにもない。

 輪郭だけが、ある。

 画数の雰囲気だけ、がある。

 こんな形だった、という“手触り”だけが残っている。

 でも、肝心の字の顔が見えない。

 名前なのに、顔のない字だった。


 俺は、目を閉じてもう一度やった。

 相沢。

 けい。

 読みはある。

 だが、漢字がない。

 その瞬間、背中の内側が冷たくなった。

 骨と骨のあいだに、細い氷片を差し込まれたみたいな冷え方だった。

「……何で」

 そう言ったつもりだった。

 声は出ない。

 出ないが、自分が今、確かに何かを失ったことだけは、はっきり分かる。


 俺は、公園の案内板のガラスに顔を近づけた。

 映るわけがない。

 そんなことは、何度も知っている。

 それでも見てしまう。

 もしかしたら、自分の顔は映らなくても、自分の焦りくらいはそこに出るんじゃないかと思ってしまう。

 当然、何もなかった。

 街灯の色。濡れていない遊具。遠くのマンションのベランダの光。

 俺だけがいない。

 その“いない”の中に、今度は名前まで混じった気がした。


 自分の家の玄関だけ残して、表札だけ剥がされたみたいだった。

 中に誰が住んでいたのか、外から見ても分からない。

 自分で見ても、そこが本当に自分の家だったのか、一瞬だけ不安になる。

 たまらなく気味が悪かった。

 俺はもう一度、必死に思い出そうとした。

 学生証。

 葬式の札。

 大学のレポート。

 役所の書類。

 家に届く郵便物。

 どれにも、自分の名前は書いてあったはずだ。

 その全部が、名字のところで止まる。

 その先だけ、まるで水をこぼしたみたいに滲んで読めなくなる。

 その瞬間、恐怖が一段深くなった。

 そこにあるはずのものが、最初から無かったことにされていく。

 自分の中の、自分に関する部分だけが、静かに書き換わっていく。


 もし誰かが見えていたなら。

 もし誰かが、「それはこういうことだ」と言ってくれたなら。

 残酷でもよかった。

 救いがなくてもよかった。

 ただ意味さえあれば、まだ耐えられた気がする。


 でも、ここには何もない。


 町は、いつも通りだった。

 公園の向こうのマンションで、風呂上がりらしい男がベランダに出て煙草を吸っていた。

 自転車が一台、遠くの道を横切る。

 犬の鳴き声がする。

 信号が変わる。


 世界は、いつも通りの音を立てている。


 俺の中で、名前が削れているのに、世界は、その意味を一つも教えてくれない。


 俺は、急にたまらなく助けを呼びたくなった。

 誰でもよかった。

 人でも、妖でも、神様でも、罰を与える何かでも。

 とにかく、これは何なんだと、教えてほしかった。

 俺の下の名前の漢字が消えたのは、どういう意味なんだ。

 次は何が無くなる。

 この先に何が待っている。


 でも、返事はない。

 俺の声は、最初から空気に触れない。

 問いもまた、誰にも届かない。


 自分の中から何かが、剥がれ落ちた。

 その事実だけがある。

 何のために。誰が。どこへ。

 何一つ分からない。

 それは、傷より怖かった。

 痛みなら、どこが痛いか分かる。

 出血なら、どこから失っているか分かる。

 でも、これは違う。


 漢字のない名前は、ひどく不気味だった。

 口にすると中身が空洞になっている感じがする。

 音だけがあって、札がない。

 呼ばれても、どこへ帰ればいいのか分からない名前。


 その気味悪さが、じわじわと胸を満たしていく。


 怖い、と思った。

 でも、その怖さは、刃物みたいに鋭くはなかった。

 もっと鈍くて、逃げ場がない。

 暗い水の底で、少しずつ身体の輪郭が溶けていくのを見ているような怖さだった。


 俺は最後にもう一度だけ、必死に字を思い出そうとした。

 駄目だった。


 その瞬間、たまらなく嫌な考えが頭をよぎった。

 もし、このまま、俺の名前が、俺の中から消えたら。

 そのとき、俺は、誰の罪を背負うんだ。

 名字だけで足りるのか。

 読みだけで足りるのか。

 いや、そうじゃない。

 名前は、俺が俺であるためだけじゃなかった。

 俺が、誰の息子で、誰に呼ばれて、どんな声で生きていたかの結び目だった。

 その結び目が、ほどけ始めている。

 怖い。

 どうしようもなく怖い。

 捕まるとか、消えるとか、そういう単純な怖さじゃない。

 もっと深いところで、自分が何者だったかを、自分だけが先に失っていく怖さだった。

 それを、誰も見ていない。

 誰も止めない。

 誰も名前を呼び直してくれない。


「……誰か」


 呼んだつもりだった。

 出ないまま、夜の空気の中で、ただ願いだけが、宙吊りになる。

 公園のブランコが、風もないのに一度だけ小さく鳴った。

 金属の擦れる、短い音。

 それだけが、返事のように、夜に響いて、すぐに消えた。


 世界は。俺を見ない。

 俺の異変にも、名はつかない。

 何も説明しないまま、ただ静かに奪っていく。

 俺はしばらく、その場から動けなかった。

 公園の街灯は変わらずオレンジ色で、夜は何事もなかったみたいに続いている。

 変わっていないのは、町だけだった。

 俺の中ではもう、確実に、何かが前より深いところまで入ってきていた。

 そして俺は、その“何か”の名前すら知らないまま、また歩き出すしかなかった。

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