表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/27

 俺自身の葬式が終わってから、俺は家に近づけなくなった。


 近づきたいわけじゃない。

 でも、離れたいわけでもなかった。


 俺の家は、まだあそこにある。

 母さんも、父さんも、まだあの家の中で生きている。

 朝になれば台所に湯気が立って、夜になれば風呂の音がして、寝る前には電気が一つずつ消える。

 そういう当たり前が、きっと今日も続いている。

 しかし、家の前まで行けば、きっとまだ、母さんの泣いた声が、壁に染みている。

 父さんが、何も言えずに立ち尽くした気配が、玄関のたたきに残っている。

 俺の名前を呼ぶ音も、線香の匂いも、白い花の冷たさも、全部そこにある気がした。


 帰りたい、と思う。

 でも、それはは、もう行き先のある願いじゃない。

 叶わないと分かっているものにだけ、いつまでも形が残る。


 だから、町を歩いた。

 駅前のロータリー。

 コンビニの白い光。

 駅へと続く路。

 雨の夜に滑った歩道橋の下。

 自販機の並ぶ細い道。

 川沿いの遊歩道。

 どこも、生きていた頃の延長線上にある場所だった。


 町は、俺がいなくても普通に動いていた。


 信号が変わる。

 自動ドアが開く。

 電車が来る。

 スーパーのレジが鳴る。

 子どもが泣いて、母親があやして、サラリーマンが疲れた顔で缶コーヒーを買っていく。

 それら全部が、少しも俺を必要としない速度で流れていく。

 その事実が、どうしようもなく痛かった。


 生きているときだって、別に世界の中心にいたわけじゃない。

 でも、少なくとも、改札を通れば音が鳴ったし、コンビニに入れば店員が「いらっしゃいませ」と言った。

 何かに触れれば、そこに俺がいた証拠くらいは残った。


 今は何も残らない。


 ガラスに、映らない。

 水たまりにも、映らない。

 自動ドアも、開かない。

 人の肩にも、ぶつからない。

 足音も、鳴らない。

 

 夜になると、コンビニの明かりが余計に痛かった。

 明るいのに、救いがない。

 白い蛍光灯は誰にでも平等で、だからこそ残酷だ。

 奥で店員が、棚を整えている。温めますか、と訊く声がする。入店音が鳴る。雑誌の表紙が光る。全部、普通だ。


 俺だけが、普通の外にいる。


 ガラスに近づいて、自分の姿を探した。

 映らない。

 店の中の客、棚、冷蔵ケースの飲み物、店員の肩越しのテレビ画面。それは全部映るのに、俺だけが抜け落ちる。


 映らないたびに、少し安心して、もっと深く怖くなる。

 安心するのは、現実が俺を見逃してくれている気がするから。

 怖くなるのは、見逃される側に落ちた人間が、もう戻れないと分かるから。


 自動ドアの前で、若い女が、財布を開いていた。

 小銭を一度数えて、レシートを見て、また数え直す。

 その横で、小さな子どもが眠そうに母親のコートを掴んでいる。

 ただ、それだけの光景だ。

 でも俺は、その場から動けなかった。


 俺が奪ったのは、こういうものだ。


 金そのものじゃない。

 金が足りないかもしれない、と一度呼吸を止める瞬間。

 今月をどうやって越えるか考える時間。

 スマホが鳴るたび、指先が少しだけ冷える感じ。


 そういう細かいものが、町のあちこちに落ちていた。

 しかも、それは俺が死んだからといって消えてはくれない。

 加害者だけが勝手にいなくなって、傷だけが生活の中に残る。


 その事実が、俺を潰した。


 死んだら終わると思っていたわけじゃない。

 だが、こんなふうに自分だけが手の届かない場所から、壊したものを見続ける罰があるなんて、思っていなかった。


 謝れない。

 触れられない。

 返せない。

 説明もできない。


 謝罪って、言葉にすれば、少しは軽くなるものだと思っていた。

 だが、違った。

 今の俺には、その言葉を、空気に触れさせることすらできない。


 夜が更けていく頃の駅は、人の数が減るぶん、足音がよく響く。

 俺には、足音がない。

 だから、他人の足音だけがやけに近い。


 階段を降りる靴音。

 ホームで止まるヒールの音。

 自販機の前で小銭を落とした音。

 そういう音が、全部生きている側のものに聞こえた。

 俺は、改札の前で立ち止まった。

 ここで学生証をタッチして、当たり前みたいにホームへ入っていた。

 今は、通れる。

 通れてしまう。

 バーに引っかからない。警告音も鳴らない。誰にも見られないまま、するりと抜ける。


 ホームの端から線路を見ると、黒いレールが雨を細く抱いて光っていた。

 向こう側のホームで、制服の女子高生がスマホを見ていた。通知が鳴ったのか、肩が小さく跳ねる。

 それだけのことに、俺は胸を掴まれた。


 通知。

 あの赤い帯。

 確認のためご連絡します。


 死んだのに、その文面だけはまだ生きている。

 頭の中に残って、夜になるたび開く。

 閉じても閉じても、また出てくる。

 家族のところへ戻れない理由は、それだけじゃなかった。

 近づくと、どうしても期待してしまうからだ。

 母さんなら気づくんじゃないか。

 父さんなら、何か分かるんじゃないか。

 カーテンの向こうで、こっちを見てくれるんじゃないか。

 そういう期待が、自分でも嫌だった。

 生きている間は何も言えなかったくせに、死んでからだけ見つけてもらおうとするのは、都合が良すぎる。


 俺は一度だけ、家の近くまで行った。


 通りの角から、自分の家の二階を見る。

 カーテンは閉まっている。

 でも、光はついていた。

 きっと母さんか父さんが起きている。

 眠れないんだろう。

 俺のせいで。

 

 足の先からじわじわ冷たくなった。

 もう心臓は鳴っていないはずなのに、心臓の辺りだけが痛む。

 生きていない身体に、生きているときの痛みだけが残っている。


「……ただいま」

 言ってみた。

 何度も飲み込んだ言葉を、やっと口にした。

 でも音にはならなかった。

 届かない。

 玄関にも、窓にも、カーテンにも、誰の耳にも届かない。

 言葉って、届いて初めて言葉になるんだと、そのとき知った。

 俺の「ただいま」は、痛みの形をしたまま、夜の中に沈んだ。


 見つかりたかった。

 でも、見つかったところで何になる。

 抱きしめてもらえるわけでも、許してもらえるわけでも、元に戻れるわけでもない。

 それでも、一度でいいから、母さんに気づいてほしいと思ってしまう。

 父さんに、そこにいるのかと目を向けてほしいと思ってしまう。

 その期待が、あまりにも惨めだった。

 生きている間は、何も言えなかった。

 何も返せなかった。

 そのくせ、死んでから、気づいてほしいなんて、どこまで卑怯なんだと思う。

 でも、卑怯だと思っても、期待は消えなかった。


 川沿いまで逃げるように歩いて、欄干のところで立ち止まる。

 川面に街灯が揺れている。オレンジの光が波のたびに折れて、繋がって、また切れる。

 そこに、俺は映らない。

 映らないことは、もう何度も確かめた。

 それでも、つい見てしまう。

 もしかしたら今日は映るかもしれない。そんな馬鹿げた期待が、まだ心のどこかに残っているから。

 残っていて、結局、何もない。


 死んだことよりも、

 悪いことをしたことよりも、

 これから罰を受けるかもしれないことよりも、

 何一つ届かないまま、何一つ終われないことが、一番怖かった。

 終わりがない。

 眠りもない。

 朝も救いじゃない。

 夜は長いのに、時間だけが進む。

 俺を置き去りにしたまま、町だけが、ちゃんと明日へ行く。

 俺は、そこに混ざれない。

 生きている側にも行けない。

 死んで終わる側にも行けない。

 ただ、その間に引っかかったまま、町の光の外側を歩き続けるしかない。


 それは、孤独という言葉では、足りなかった。


 これからどうなるのか、分からない。

 どこへ行けばいいのかも、分からない。

 このままずっと、誰にも見つけられずに、町の端を歩き続けるのかもしれない。


 空を見上げる。

 雲が低い。雨は止んでいるのに、空気はまだ湿っている。

 夜の色が、雨を飲み残したみたいに鈍い。


 自分の名前を、心の中で呼んでみる。

 相沢慧。

 まだ言える。

 まだ、はっきり分かる。

 だからこそ、怖かった。


 これが、いつまで言えるんだろう、と思った。

 いつかこの名前まで、自分のものではなくなったら。

 母さんに呼ばれていた音も、父さんが書いていた字も、自分の中から抜け落ちたら。


 そのとき俺は、何になるんだろう。


 人じゃない。

 死者でもない。

 家族でもない。

 被害者でもない。

 加害者であることだけが残って、名前まで無くなったら、俺は何を背負って歩けばいい。


 答えはない。

 ないまま、夜だけが続く。


 俺は歩き出した。

 歩くしかなかった。

 止まれば、今の問いが、今の絶望が、自分の身体のない身体の中に沈殿して、もう二度と動けなくなりそうだったから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ