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俺自身の葬式が終わってから、俺は家に近づけなくなった。
近づきたいわけじゃない。
でも、離れたいわけでもなかった。
俺の家は、まだあそこにある。
母さんも、父さんも、まだあの家の中で生きている。
朝になれば台所に湯気が立って、夜になれば風呂の音がして、寝る前には電気が一つずつ消える。
そういう当たり前が、きっと今日も続いている。
しかし、家の前まで行けば、きっとまだ、母さんの泣いた声が、壁に染みている。
父さんが、何も言えずに立ち尽くした気配が、玄関のたたきに残っている。
俺の名前を呼ぶ音も、線香の匂いも、白い花の冷たさも、全部そこにある気がした。
帰りたい、と思う。
でも、それはは、もう行き先のある願いじゃない。
叶わないと分かっているものにだけ、いつまでも形が残る。
だから、町を歩いた。
駅前のロータリー。
コンビニの白い光。
駅へと続く路。
雨の夜に滑った歩道橋の下。
自販機の並ぶ細い道。
川沿いの遊歩道。
どこも、生きていた頃の延長線上にある場所だった。
町は、俺がいなくても普通に動いていた。
信号が変わる。
自動ドアが開く。
電車が来る。
スーパーのレジが鳴る。
子どもが泣いて、母親があやして、サラリーマンが疲れた顔で缶コーヒーを買っていく。
それら全部が、少しも俺を必要としない速度で流れていく。
その事実が、どうしようもなく痛かった。
生きているときだって、別に世界の中心にいたわけじゃない。
でも、少なくとも、改札を通れば音が鳴ったし、コンビニに入れば店員が「いらっしゃいませ」と言った。
何かに触れれば、そこに俺がいた証拠くらいは残った。
今は何も残らない。
ガラスに、映らない。
水たまりにも、映らない。
自動ドアも、開かない。
人の肩にも、ぶつからない。
足音も、鳴らない。
夜になると、コンビニの明かりが余計に痛かった。
明るいのに、救いがない。
白い蛍光灯は誰にでも平等で、だからこそ残酷だ。
奥で店員が、棚を整えている。温めますか、と訊く声がする。入店音が鳴る。雑誌の表紙が光る。全部、普通だ。
俺だけが、普通の外にいる。
ガラスに近づいて、自分の姿を探した。
映らない。
店の中の客、棚、冷蔵ケースの飲み物、店員の肩越しのテレビ画面。それは全部映るのに、俺だけが抜け落ちる。
映らないたびに、少し安心して、もっと深く怖くなる。
安心するのは、現実が俺を見逃してくれている気がするから。
怖くなるのは、見逃される側に落ちた人間が、もう戻れないと分かるから。
自動ドアの前で、若い女が、財布を開いていた。
小銭を一度数えて、レシートを見て、また数え直す。
その横で、小さな子どもが眠そうに母親のコートを掴んでいる。
ただ、それだけの光景だ。
でも俺は、その場から動けなかった。
俺が奪ったのは、こういうものだ。
金そのものじゃない。
金が足りないかもしれない、と一度呼吸を止める瞬間。
今月をどうやって越えるか考える時間。
スマホが鳴るたび、指先が少しだけ冷える感じ。
そういう細かいものが、町のあちこちに落ちていた。
しかも、それは俺が死んだからといって消えてはくれない。
加害者だけが勝手にいなくなって、傷だけが生活の中に残る。
その事実が、俺を潰した。
死んだら終わると思っていたわけじゃない。
だが、こんなふうに自分だけが手の届かない場所から、壊したものを見続ける罰があるなんて、思っていなかった。
謝れない。
触れられない。
返せない。
説明もできない。
謝罪って、言葉にすれば、少しは軽くなるものだと思っていた。
だが、違った。
今の俺には、その言葉を、空気に触れさせることすらできない。
夜が更けていく頃の駅は、人の数が減るぶん、足音がよく響く。
俺には、足音がない。
だから、他人の足音だけがやけに近い。
階段を降りる靴音。
ホームで止まるヒールの音。
自販機の前で小銭を落とした音。
そういう音が、全部生きている側のものに聞こえた。
俺は、改札の前で立ち止まった。
ここで学生証をタッチして、当たり前みたいにホームへ入っていた。
今は、通れる。
通れてしまう。
バーに引っかからない。警告音も鳴らない。誰にも見られないまま、するりと抜ける。
ホームの端から線路を見ると、黒いレールが雨を細く抱いて光っていた。
向こう側のホームで、制服の女子高生がスマホを見ていた。通知が鳴ったのか、肩が小さく跳ねる。
それだけのことに、俺は胸を掴まれた。
通知。
あの赤い帯。
確認のためご連絡します。
死んだのに、その文面だけはまだ生きている。
頭の中に残って、夜になるたび開く。
閉じても閉じても、また出てくる。
家族のところへ戻れない理由は、それだけじゃなかった。
近づくと、どうしても期待してしまうからだ。
母さんなら気づくんじゃないか。
父さんなら、何か分かるんじゃないか。
カーテンの向こうで、こっちを見てくれるんじゃないか。
そういう期待が、自分でも嫌だった。
生きている間は何も言えなかったくせに、死んでからだけ見つけてもらおうとするのは、都合が良すぎる。
俺は一度だけ、家の近くまで行った。
通りの角から、自分の家の二階を見る。
カーテンは閉まっている。
でも、光はついていた。
きっと母さんか父さんが起きている。
眠れないんだろう。
俺のせいで。
足の先からじわじわ冷たくなった。
もう心臓は鳴っていないはずなのに、心臓の辺りだけが痛む。
生きていない身体に、生きているときの痛みだけが残っている。
「……ただいま」
言ってみた。
何度も飲み込んだ言葉を、やっと口にした。
でも音にはならなかった。
届かない。
玄関にも、窓にも、カーテンにも、誰の耳にも届かない。
言葉って、届いて初めて言葉になるんだと、そのとき知った。
俺の「ただいま」は、痛みの形をしたまま、夜の中に沈んだ。
見つかりたかった。
でも、見つかったところで何になる。
抱きしめてもらえるわけでも、許してもらえるわけでも、元に戻れるわけでもない。
それでも、一度でいいから、母さんに気づいてほしいと思ってしまう。
父さんに、そこにいるのかと目を向けてほしいと思ってしまう。
その期待が、あまりにも惨めだった。
生きている間は、何も言えなかった。
何も返せなかった。
そのくせ、死んでから、気づいてほしいなんて、どこまで卑怯なんだと思う。
でも、卑怯だと思っても、期待は消えなかった。
川沿いまで逃げるように歩いて、欄干のところで立ち止まる。
川面に街灯が揺れている。オレンジの光が波のたびに折れて、繋がって、また切れる。
そこに、俺は映らない。
映らないことは、もう何度も確かめた。
それでも、つい見てしまう。
もしかしたら今日は映るかもしれない。そんな馬鹿げた期待が、まだ心のどこかに残っているから。
残っていて、結局、何もない。
死んだことよりも、
悪いことをしたことよりも、
これから罰を受けるかもしれないことよりも、
何一つ届かないまま、何一つ終われないことが、一番怖かった。
終わりがない。
眠りもない。
朝も救いじゃない。
夜は長いのに、時間だけが進む。
俺を置き去りにしたまま、町だけが、ちゃんと明日へ行く。
俺は、そこに混ざれない。
生きている側にも行けない。
死んで終わる側にも行けない。
ただ、その間に引っかかったまま、町の光の外側を歩き続けるしかない。
それは、孤独という言葉では、足りなかった。
これからどうなるのか、分からない。
どこへ行けばいいのかも、分からない。
このままずっと、誰にも見つけられずに、町の端を歩き続けるのかもしれない。
空を見上げる。
雲が低い。雨は止んでいるのに、空気はまだ湿っている。
夜の色が、雨を飲み残したみたいに鈍い。
自分の名前を、心の中で呼んでみる。
相沢慧。
まだ言える。
まだ、はっきり分かる。
だからこそ、怖かった。
これが、いつまで言えるんだろう、と思った。
いつかこの名前まで、自分のものではなくなったら。
母さんに呼ばれていた音も、父さんが書いていた字も、自分の中から抜け落ちたら。
そのとき俺は、何になるんだろう。
人じゃない。
死者でもない。
家族でもない。
被害者でもない。
加害者であることだけが残って、名前まで無くなったら、俺は何を背負って歩けばいい。
答えはない。
ないまま、夜だけが続く。
俺は歩き出した。
歩くしかなかった。
止まれば、今の問いが、今の絶望が、自分の身体のない身体の中に沈殿して、もう二度と動けなくなりそうだったから。




