27
濡烏は、しばらく何も言わなかった。
百鬼夜行の流れは変わらず、夜の理に沿って静かに続いている。
提灯小僧の火は低く揺れ、のっぺらぼうの空白は薄く夜へ溶け、影法師は足元の闇へ戻り、片車輪は遠くで乾いた軋みを鳴らし、野狐の湿りは灯りの向こうへ退き、逆さ首の向きは高いところで見えないまま揺れていた。
どれも俺を引き留めない。
どれも背中を押さない。
ただ、夜に留まるものとして、静かにそこに在った。
その沈黙が、かえって痛かった。
もしここで、誰か一人でも俺に「来い」と言ったら。
あるいは「行くな」と言ったら。
俺はたぶん、その一言に縋ってしまった。
だが、誰も言わない。
夜の列にいるものたちは、もうとっくに知っているのだ。
最後のところは、誰にも代われないことを。
怖さも、選びも、引き受けも、全部、自分でしか持てないことを。
濡烏が、ゆっくりと一歩だけ前へ出た。
百鬼夜行の流れから、さらに外側へ。
夜の路の、そのまた脇へ。
灯りも影も届くのに、もう列の拍には混ざらない場所だった。
「来い」
短い声だった。
俺は、すぐには動けなかった。
足が重いわけじゃない。
むしろ、軽すぎる。
軽すぎて、このまま列に残ってしまいそうだった。
歩いてしまえば、夜の拍に馴染んだまま進める。
提灯の火の近くにいて、影と影のあいだに身を置き、“ここなら”の薄さの中で続いていくことができる。
それが、もう分かってしまっていた。
だからこそ、一歩が重かった。
俺は、列の中にいる異形たちをもう一度見た。
提灯小僧は、こちらを見ない。
けれど、その火はさっきより少しだけ細く見えた。
のっぺらぼうの空白は何も映さない。
それなのに、そこへ自分の迷いだけが薄く吸われていく気がした。
影法師は、足元の闇に沈んだまま、なお“ここに立つ重み”を問い続けている。
片車輪は、止まれなかった瞬間を何度でも軋ませながら、それでも夜を回っている。
野狐は、もうどこにいるのか分からない。
分からないくせに、湿った眼だけが自分の言い訳の気配をまだ嗅いでいる気がした。
逆さ首の向きは見えない。
だが、見えないまま、何を上へ置くのかを俺に問い続けていた。
名のないものたちも、なお歩いている。
包んで隠そうとしたもの。
動けば埋まると思ったもの。
二つの影のあいだで決められなかったもの。
黙ることで壊さずに済むと信じたもの。
笑っているうちに終わりを先延ばしにしたもの。
みんな、怖いからここにいる。
その怖さを知った上で、ここに留まっている。
俺は、その列を見た。
見て、ようやくはっきり思った。
哀れだ、と。
見下したわけじゃない。
軽蔑でもない。
たぶん、その哀れさの中に自分の未来が半分見えてしまったからだ。
怖くて。
痛くて。
切り離せなくて。
それでも真正面から引き受ける勇気は持てなくて。
だから夜の理に少しずつ馴染み、自分の痛みを異形のかたちへ薄め、終わらないまま続いていく。
それは、あまりにも静かで、あまりにも自然で、あまりにも恐ろしい。
俺は、小さく首を振った。
「……行く」
さっき言った言葉を、今度は自分に向けてもう一度言う。
そうしないと、身体がまた列の拍へ寄っていきそうだった。
濡烏は、振り返らない。
ただ、少し先で待っている。
俺は、灯りと影のあいだから足を抜こうとした。
その瞬間、百鬼夜行の拍が、ほんの少しだけこちらを離した。
提灯の火が一つ揺れる。
片車輪が低く鳴る。
足元の影法師が、最後に一度だけ俺の影へ重なる。
どこかで、野狐の尾が灯りをかすめた気がする。
逆さ首の髪が、高い夜のどこかで微かにほどける。
誰かが小さく息を吐いたような気配が、列の中ほどから流れてきた。
それだけだった。
見送るでもなく、咎めるでもなく、祝うでもなく。
ただ、夜に留まるものたちの沈黙が、俺の背に触れた。
俺は、一歩、列の外へ出た。
たった一歩なのに、胸の内側が大きく引き裂かれるみたいだった。
夜の拍が、遠のく。
灯りが少しだけ冷たくなる。
今まで列の中にいたことでかろうじて保たれていた輪郭が、急に自分だけのものへ戻ってくる。
もう誰にも紛れられないかたちで、自分のものとして差し出される。
怖かった。
とてつもなく。
それでも、足はもう一歩前へ出た。
濡烏の後ろを追う。
百鬼夜行の気配が、少しずつ背中へ遠ざかる。
完全には消えない。
あの列は、この夜そのものに混ざっている。
けれど、もうさっきまでみたいな“ここなら”の薄い温度は届かない。
灯りはただ遠い。
影はただ流れている。
異形たちは、もう俺を迎え入れるでも拒むでもなく、夜の中にそのままある。
前方の闇が、少しずつ変わり始める。
深くなるのではない。
濃くなるのでもない。
何かが薄く、削げていく。
夜の黒さの中にあった湿りも、灯りも、異形の匂いも、少しずつ抜け落ちていく。
そこには、地獄へ続く道らしい禍々しさはなかった。
火もない。
血もない。
叫びもない。
あるのは、何も慰めにならないという感じだけだった。
百鬼夜行よりずっと恐ろしかった。
俺は、濡烏の背を見ながら歩いた。
背しか見られなかった。
周りを見る勇気がない。
見たところで、たぶん何も助けにはならないと分かっていた。
そのまま、何歩か進んだとき、不意に、現世の匂いが胸の奥から立ち上がった。
味噌汁の湯気。
出汁の甘い匂い。
朝の光に少し曇った眼鏡。
母さんの手の甲の小さな火傷の跡。
父さんの新聞のインク。
玄関の靴紐。
マフラーの洗剤の匂い。
雨の朝のコンビニの白い看板。
実家の二階の六畳。
子どもの頃から変わらない机。
卓上ライト。
壁際の教科書の山。
階下で食器が当たる音。
全部、もう触れられないものとして、急に鮮やかになった。
「……母さん」
声に出たのかどうか、自分でも分からなかった。
謝りたい、と思った。
その気持ちは本物だった。
今さらだ。
遅い。
どうしようもなく遅い。
それでも、謝りたかった。
でも、その謝りたいという気持ちが、許されたい気持ちと混ざるのが怖かった。
ここで「ごめん」と言えば、それがどこかで“だから許してほしい”へ変わってしまいそうだった。
俺にはもう、その甘え方ができなかった。
被害に遭った人たちの顔は、はっきりとは浮かばない。
浮かばないのに、断片だけが痛い。
スマホの文面。
ためらいのある語尾。
「大丈夫ですか?」
「本当に増えるんですよね」
「お願いします、今月だけ……」
あの言葉たちの向こうには、それぞれの生活があった。
眠れない夜があった。
帰れなくなった気持ちがあった。
疑わなくてよかったはずの時間があった。
俺はそれを、奪った。
金だけじゃない。
時間も。
信頼も。
安心して息を吸える夜も。
家の中の普通の温度も。
誰かの“ちゃんと”も。
濡烏は、何も言わない。
言わないまま歩く。
俺は、その背に向かって、誰に聞かせるでもない声で呟いた。
「……ごめん」
すぐに、その言葉の薄さが嫌になった。
ごめんで済むわけがない。
謝ったところで戻らない。
謝罪は、償いではない。
濡烏に言われなくても、今はそれがよく分かる。
それでも、言わずにはいられなかった。
「ごめん」
もう一度。
今度は、母さんにでも、父さんにでも、被害者にでも、自分にでもなく。
もっと曖昧で、もっと広い場所へ向けて。
自分が壊したもの全部へ向けて。
その言葉は、夜にすぐ沈んだ。
返事はない。
当然だった。
濡烏が、ふいに立ち止まる。
そこがどこなのか、俺にはうまく分からなかった。
道のようで、道ではない。
坂のようで、坂でもない。
ただ、ここから先は、もう“戻る”という考え方そのものが意味を失うのだと、身体が先に知る場所だった。
濡烏は振り返らない。
「ここから先は、お前ひとりだ」
低い声だった。
俺は、すぐには返事ができなかった。
百鬼夜行の気配は、もう遠い。
提灯の火も、影も、軋みも、湿りも、向きも、擦れた告白も、全部がもう現世の残響みたいに背中の向こうへ退いている。
前には、何も慰めにならない静けさだけがある。
「……お前は来ないのか」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど細かった。
「私は渡し守だ」
濡烏が言う。
「渡すだけだ」
それだけだった。
それ以上でも、それ以下でもない。
優しさもない。
慈悲もない。
だが、嘘もなかった。
俺は、濡烏の背を見た。
ここまで散々引き回された。
冷たく突き放され、見たくないものを見せられ、聞きたくないことを聞かされてきた。
それでも今、目の前にあるあの黒い背だけが、現世と地獄のあいだに最後に残った“何か”に見えた。
「……ありがとう、とは言わない」
自分でも、変な言葉だと思った。
でも、そうとしか言えなかった。
濡烏は、少しも動かない。
「言うな」
低く返した。
それでよかった。
俺は、小さく息を吸った。
浅い。
それでも吸う。
そして、最後に一度だけ、後ろを見た。
夜がある。
百鬼夜行の薄い灯りが、ずっと向こうで静かに流れている。
町の気配も、もうほとんど見えない。
けれど、どこかにまだ家々があり、朝になれば味噌汁の匂いが立ち、新聞が配られ、洗剤の匂いのするマフラーが干され、誰かが布団を畳み、誰かが普通に駅へ向かうのだろう。
俺がいなくても、現世は続いていく。
その続きの中へ、俺はもう戻れない。
それが、ひどく悲しかった。
悲しいのに、泣く資格があるのか分からなかった。
俺は奪った側だ。
壊した側だ。
失うことを、今さら綺麗に悲しんでいい立場じゃない。
それでも、悲しかった。
後悔は、もう十分すぎるほどある。
あの夜。
その前の夜。
最初の文面を送った瞬間。
口座の赤い帯を見た夜。
母さんの卵焼きを飲み込んだ朝。
歩道橋の手すりから指を離した瞬間。
どこを切り取っても、止まれた場所はあった。
戻れた可能性はあった。
俺はそのたび、自分の都合を上に置いて見ないふりをした。
その積み重ねが、ここだ。
今さら悔やんでも遅い。
遅いと知っている。
知っているからこそ、後悔はただ痛い。
何も戻さない。
何も軽くしない。
でも、その痛みごと切り離したら、たぶん俺は本当に夜の側へ馴染んでしまう。
だから、持っていくしかないのだと思った。
後悔も。
懺悔も。
情けなさも。
怖さも。
全部。
俺は、現世へ向かって、声にならない声で別れを告げた。
母さん。
父さん。
家。
朝。
雨の住宅街。
駅へ続く道。
コンビニの灯り。
あの六畳。
子どもの頃。
名前のあった頃の自分。
そして、俺が壊してしまった誰かの普通。
もう戻れない。
もう触れられない。
だからこそ、せめて見失わないまま行こうと思った。
許されるためじゃない。
褒められるためでもない。
ただ、自分が何をしたのかを、最後まで自分のものとして持っていくために。
俺は、前を向いた。
濡烏の黒い背は、もう動かない。
ここから先は、本当にひとりなのだ。
俺は、その横を通り過ぎる。
すれ違う瞬間、濡烏の気配がほんのわずかに揺れた気がした。
風ではない。
声でもない。
それが何だったのか、最後まで分からなかった。
分からないままでよかった。
俺は、歩き出した。
前には、何も慰めにならない静けさがある。
意味を期待できない場所。
終わりを約束しない場所。
罪が消えることもなく、許されることもない場所。
それでも、もう目は逸らさなかった。
一歩。
もう百鬼夜行の拍は届かない。
一歩。
現世の匂いが、さらに遠のく。
味噌汁の湯気も、卵焼きの甘さも、新聞のインクも、雨の足音も、夜の提灯も、少しずつ薄くなる。
一歩。
胸の奥の恐怖は、消えない。
たぶん、これからも消えない。
それでいいのだと思った。
消えたら、きっとそれは逃避だ。
一歩。
足元の感覚が、もう夜でも現世でもないものへ変わっていく。
それでも、俺は立ち止まらなかった。
後悔は後悔のまま。
懺悔は懺悔のまま。
怖さも、情けなさも、どれも薄めず、綺麗に言い換えず、そのままで。
それだけを抱えて進む。
地獄を選んだ男の頬には、一筋の光の水が落ちていった。
それは、許しを乞うものでも、救済を求めるものでもなかった。見返りのないただ長い贖罪の旅路だった。




