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 濡烏は、しばらく何も言わなかった。

 百鬼夜行の流れは変わらず、夜の理に沿って静かに続いている。

 提灯小僧の火は低く揺れ、のっぺらぼうの空白は薄く夜へ溶け、影法師は足元の闇へ戻り、片車輪は遠くで乾いた軋みを鳴らし、野狐の湿りは灯りの向こうへ退き、逆さ首の向きは高いところで見えないまま揺れていた。

 どれも俺を引き留めない。

 どれも背中を押さない。

 ただ、夜に留まるものとして、静かにそこに在った。

 その沈黙が、かえって痛かった。


 もしここで、誰か一人でも俺に「来い」と言ったら。

 あるいは「行くな」と言ったら。

 俺はたぶん、その一言に縋ってしまった。

 だが、誰も言わない。

 夜の列にいるものたちは、もうとっくに知っているのだ。

 最後のところは、誰にも代われないことを。

 怖さも、選びも、引き受けも、全部、自分でしか持てないことを。


 濡烏が、ゆっくりと一歩だけ前へ出た。

 百鬼夜行の流れから、さらに外側へ。

 夜の路の、そのまた脇へ。

 灯りも影も届くのに、もう列の拍には混ざらない場所だった。

「来い」

 短い声だった。

 俺は、すぐには動けなかった。

 足が重いわけじゃない。

 むしろ、軽すぎる。

 軽すぎて、このまま列に残ってしまいそうだった。

 歩いてしまえば、夜の拍に馴染んだまま進める。

 提灯の火の近くにいて、影と影のあいだに身を置き、“ここなら”の薄さの中で続いていくことができる。

 それが、もう分かってしまっていた。

 だからこそ、一歩が重かった。


 俺は、列の中にいる異形たちをもう一度見た。

 提灯小僧は、こちらを見ない。

 けれど、その火はさっきより少しだけ細く見えた。

 のっぺらぼうの空白は何も映さない。

 それなのに、そこへ自分の迷いだけが薄く吸われていく気がした。

 影法師は、足元の闇に沈んだまま、なお“ここに立つ重み”を問い続けている。

 片車輪は、止まれなかった瞬間を何度でも軋ませながら、それでも夜を回っている。

 野狐は、もうどこにいるのか分からない。

 分からないくせに、湿った眼だけが自分の言い訳の気配をまだ嗅いでいる気がした。

 逆さ首の向きは見えない。

 だが、見えないまま、何を上へ置くのかを俺に問い続けていた。

 名のないものたちも、なお歩いている。

 包んで隠そうとしたもの。

 動けば埋まると思ったもの。

 二つの影のあいだで決められなかったもの。

 黙ることで壊さずに済むと信じたもの。

 笑っているうちに終わりを先延ばしにしたもの。

 みんな、怖いからここにいる。

 その怖さを知った上で、ここに留まっている。


 俺は、その列を見た。

 見て、ようやくはっきり思った。

 哀れだ、と。

 見下したわけじゃない。

 軽蔑でもない。

 たぶん、その哀れさの中に自分の未来が半分見えてしまったからだ。

 怖くて。

 痛くて。

 切り離せなくて。

 それでも真正面から引き受ける勇気は持てなくて。

 だから夜の理に少しずつ馴染み、自分の痛みを異形のかたちへ薄め、終わらないまま続いていく。

 それは、あまりにも静かで、あまりにも自然で、あまりにも恐ろしい。


 俺は、小さく首を振った。

「……行く」

 さっき言った言葉を、今度は自分に向けてもう一度言う。

 そうしないと、身体がまた列の拍へ寄っていきそうだった。

 濡烏は、振り返らない。

 ただ、少し先で待っている。

 俺は、灯りと影のあいだから足を抜こうとした。


 その瞬間、百鬼夜行の拍が、ほんの少しだけこちらを離した。

 提灯の火が一つ揺れる。

 片車輪が低く鳴る。

 足元の影法師が、最後に一度だけ俺の影へ重なる。

 どこかで、野狐の尾が灯りをかすめた気がする。

 逆さ首の髪が、高い夜のどこかで微かにほどける。

 誰かが小さく息を吐いたような気配が、列の中ほどから流れてきた。

 それだけだった。

 見送るでもなく、咎めるでもなく、祝うでもなく。

 ただ、夜に留まるものたちの沈黙が、俺の背に触れた。


 俺は、一歩、列の外へ出た。

 たった一歩なのに、胸の内側が大きく引き裂かれるみたいだった。

 夜の拍が、遠のく。

 灯りが少しだけ冷たくなる。

 今まで列の中にいたことでかろうじて保たれていた輪郭が、急に自分だけのものへ戻ってくる。

 もう誰にも紛れられないかたちで、自分のものとして差し出される。

 怖かった。

 とてつもなく。

 それでも、足はもう一歩前へ出た。

 濡烏の後ろを追う。

 百鬼夜行の気配が、少しずつ背中へ遠ざかる。

 完全には消えない。

 あの列は、この夜そのものに混ざっている。

 けれど、もうさっきまでみたいな“ここなら”の薄い温度は届かない。

 灯りはただ遠い。

 影はただ流れている。

 異形たちは、もう俺を迎え入れるでも拒むでもなく、夜の中にそのままある。


 前方の闇が、少しずつ変わり始める。

 深くなるのではない。

 濃くなるのでもない。

 何かが薄く、削げていく。

 夜の黒さの中にあった湿りも、灯りも、異形の匂いも、少しずつ抜け落ちていく。

 そこには、地獄へ続く道らしい禍々しさはなかった。

 火もない。

 血もない。

 叫びもない。

 あるのは、何も慰めにならないという感じだけだった。

 百鬼夜行よりずっと恐ろしかった。


 俺は、濡烏の背を見ながら歩いた。

 背しか見られなかった。

 周りを見る勇気がない。

 見たところで、たぶん何も助けにはならないと分かっていた。

 そのまま、何歩か進んだとき、不意に、現世の匂いが胸の奥から立ち上がった。

 味噌汁の湯気。

 出汁の甘い匂い。

 朝の光に少し曇った眼鏡。

 母さんの手の甲の小さな火傷の跡。

 父さんの新聞のインク。

 玄関の靴紐。

 マフラーの洗剤の匂い。

 雨の朝のコンビニの白い看板。

 実家の二階の六畳。

 子どもの頃から変わらない机。

 卓上ライト。

 壁際の教科書の山。

 階下で食器が当たる音。

 全部、もう触れられないものとして、急に鮮やかになった。

「……母さん」

 声に出たのかどうか、自分でも分からなかった。

 謝りたい、と思った。

 その気持ちは本物だった。

 今さらだ。

 遅い。

 どうしようもなく遅い。

 それでも、謝りたかった。

 でも、その謝りたいという気持ちが、許されたい気持ちと混ざるのが怖かった。

 ここで「ごめん」と言えば、それがどこかで“だから許してほしい”へ変わってしまいそうだった。

 俺にはもう、その甘え方ができなかった。

 被害に遭った人たちの顔は、はっきりとは浮かばない。

 浮かばないのに、断片だけが痛い。

 スマホの文面。

 ためらいのある語尾。

 「大丈夫ですか?」

 「本当に増えるんですよね」

 「お願いします、今月だけ……」

 あの言葉たちの向こうには、それぞれの生活があった。

 眠れない夜があった。

 帰れなくなった気持ちがあった。

 疑わなくてよかったはずの時間があった。

 俺はそれを、奪った。

 金だけじゃない。

 時間も。

 信頼も。

 安心して息を吸える夜も。

 家の中の普通の温度も。

 誰かの“ちゃんと”も。


 濡烏は、何も言わない。

 言わないまま歩く。

 俺は、その背に向かって、誰に聞かせるでもない声で呟いた。

「……ごめん」

 すぐに、その言葉の薄さが嫌になった。

 ごめんで済むわけがない。

 謝ったところで戻らない。

 謝罪は、償いではない。

 濡烏に言われなくても、今はそれがよく分かる。

 それでも、言わずにはいられなかった。

「ごめん」

 もう一度。

 今度は、母さんにでも、父さんにでも、被害者にでも、自分にでもなく。

 もっと曖昧で、もっと広い場所へ向けて。

 自分が壊したもの全部へ向けて。

 その言葉は、夜にすぐ沈んだ。

 返事はない。

 当然だった。


 濡烏が、ふいに立ち止まる。

 そこがどこなのか、俺にはうまく分からなかった。

 道のようで、道ではない。

 坂のようで、坂でもない。

 ただ、ここから先は、もう“戻る”という考え方そのものが意味を失うのだと、身体が先に知る場所だった。

 濡烏は振り返らない。

「ここから先は、お前ひとりだ」

 低い声だった。

 俺は、すぐには返事ができなかった。

 百鬼夜行の気配は、もう遠い。

 提灯の火も、影も、軋みも、湿りも、向きも、擦れた告白も、全部がもう現世の残響みたいに背中の向こうへ退いている。

 前には、何も慰めにならない静けさだけがある。

「……お前は来ないのか」

 ようやく出た声は、自分でも驚くほど細かった。

「私は渡し守だ」

 濡烏が言う。

「渡すだけだ」

 それだけだった。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 優しさもない。

 慈悲もない。

 だが、嘘もなかった。


 俺は、濡烏の背を見た。

 ここまで散々引き回された。

 冷たく突き放され、見たくないものを見せられ、聞きたくないことを聞かされてきた。

 それでも今、目の前にあるあの黒い背だけが、現世と地獄のあいだに最後に残った“何か”に見えた。

「……ありがとう、とは言わない」

 自分でも、変な言葉だと思った。

 でも、そうとしか言えなかった。

 濡烏は、少しも動かない。

「言うな」

 低く返した。

 それでよかった。

 俺は、小さく息を吸った。

 浅い。

 それでも吸う。

 そして、最後に一度だけ、後ろを見た。

 夜がある。

 百鬼夜行の薄い灯りが、ずっと向こうで静かに流れている。

 町の気配も、もうほとんど見えない。

 けれど、どこかにまだ家々があり、朝になれば味噌汁の匂いが立ち、新聞が配られ、洗剤の匂いのするマフラーが干され、誰かが布団を畳み、誰かが普通に駅へ向かうのだろう。

 俺がいなくても、現世は続いていく。

 その続きの中へ、俺はもう戻れない。

 それが、ひどく悲しかった。

 悲しいのに、泣く資格があるのか分からなかった。

 俺は奪った側だ。

 壊した側だ。

 失うことを、今さら綺麗に悲しんでいい立場じゃない。

 それでも、悲しかった。

 後悔は、もう十分すぎるほどある。

 あの夜。

 その前の夜。

 最初の文面を送った瞬間。

 口座の赤い帯を見た夜。

 母さんの卵焼きを飲み込んだ朝。

 歩道橋の手すりから指を離した瞬間。

 どこを切り取っても、止まれた場所はあった。

 戻れた可能性はあった。

 俺はそのたび、自分の都合を上に置いて見ないふりをした。

 その積み重ねが、ここだ。

 今さら悔やんでも遅い。

 遅いと知っている。

 知っているからこそ、後悔はただ痛い。

 何も戻さない。

 何も軽くしない。

 でも、その痛みごと切り離したら、たぶん俺は本当に夜の側へ馴染んでしまう。

 だから、持っていくしかないのだと思った。


 後悔も。

 懺悔も。

 情けなさも。

 怖さも。

 全部。


 俺は、現世へ向かって、声にならない声で別れを告げた。

 母さん。

 父さん。

 家。

 朝。

 雨の住宅街。

 駅へ続く道。

 コンビニの灯り。

 あの六畳。

 子どもの頃。

 名前のあった頃の自分。

 そして、俺が壊してしまった誰かの普通。

 もう戻れない。

 もう触れられない。

 だからこそ、せめて見失わないまま行こうと思った。

 許されるためじゃない。

 褒められるためでもない。

 ただ、自分が何をしたのかを、最後まで自分のものとして持っていくために。


 俺は、前を向いた。

 濡烏の黒い背は、もう動かない。

 ここから先は、本当にひとりなのだ。

 俺は、その横を通り過ぎる。


 すれ違う瞬間、濡烏の気配がほんのわずかに揺れた気がした。

 風ではない。

 声でもない。

 それが何だったのか、最後まで分からなかった。

 分からないままでよかった。

 俺は、歩き出した。

 前には、何も慰めにならない静けさがある。

 意味を期待できない場所。

 終わりを約束しない場所。

 罪が消えることもなく、許されることもない場所。

 それでも、もう目は逸らさなかった。


 一歩。

 もう百鬼夜行の拍は届かない。


 一歩。

 現世の匂いが、さらに遠のく。

 味噌汁の湯気も、卵焼きの甘さも、新聞のインクも、雨の足音も、夜の提灯も、少しずつ薄くなる。


 一歩。

 胸の奥の恐怖は、消えない。

 たぶん、これからも消えない。

 それでいいのだと思った。

 消えたら、きっとそれは逃避だ。


 一歩。

 足元の感覚が、もう夜でも現世でもないものへ変わっていく。


 それでも、俺は立ち止まらなかった。

 後悔は後悔のまま。

 懺悔は懺悔のまま。

 怖さも、情けなさも、どれも薄めず、綺麗に言い換えず、そのままで。

 それだけを抱えて進む。


 地獄を選んだ男の頬には、一筋の光の水が落ちていった。

 それは、許しを乞うものでも、救済を求めるものでもなかった。見返りのないただ長い贖罪の旅路だった。

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