26
百鬼夜行の拍は、相変わらず静かだった。
提灯の火は小さく揺れ、影は音もなく流れ、片車輪の軋みは折れた骨みたいに夜の奥で鳴っている。
どれも変わらない。
変わったのは、自分の内側だけだった。
地獄が怖い。
その一言は、もうごまかしようがなかった。
怖い。
それも、恥ずかしいくらい、むき出しに。
理屈も覚悟も追いつかないところで、身体ごと、魂ごと、拒んでいる。
それなのに、百鬼夜行の列に馴れたくもない。
その二つが、胸の中で噛み合わないままぶつかりつづけていた。
濡烏は、列の外を並ぶように歩いている。
黒い背は少しも乱れない。
こちらがどれだけ息を荒くしても、どれだけ歩幅を乱しても、あれだけはいつも同じ夜の理に沿っている。
「……濡烏」
呼ぶと、すぐに返事は来なかった。
俺は数歩ぶん、列の拍に押されるように進んでから、もう一度、ほとんど掠れた声で言った。
「俺は、どうすればいい」
問いかけた瞬間、自分でも分かった。
そんなもの、本当はもう分かっている。
濡烏に答えをもらいたいんじゃない。
誰かに、別の道があると言ってほしいだけだ。
濡烏が言った。
「お前が決めろ」
予想通りの答えだった。
「……決められるわけないだろ」
声が、少し荒くなる。
提灯の火が一つ揺れた。
隣ののっぺらぼうの空白が、わずかにこちらへ傾いたような気がした。
「地獄なんて、無理だ。
あんな場所、行けるわけがない。
でも、ここにいたくもない。どっちも嫌だ」
言ってから、自分で情けなくなる。
でも、今の自分から出てくる本音は、もうその程度の言葉しかなかった。
濡烏は少しも慰めない。
「だから選ぶのだ」
その声は、真っ平だった。
「嫌ではない方を選ぶのではない。引き受ける方を選ぶのだ」
引き受ける。
その言葉は、今まで聞いたどの断片的な告白より重かった。
提灯小僧も、のっぺらぼうも、影法師も、片車輪も、野狐も、逆さ首も、みんなそれぞれのかたちで夜に留まっている。
怖いから。
切り離せないものを、切り離したままにしておきたいから。
あるいは、切り離せないと知りながら、それでも地獄へ行くのが嫌だから。
そこへ、自分も混ざるのか。
俺は、前を見る。
百鬼夜行は続いている。
灯り。
影。
毛並み。
濡れた眼。
軋み。
布。
名のないものたちの擦れた気配。
さっきまで、それらは恐ろしくもあり、どこかで“ここなら”の薄い温度を持っていた。
今は違う。
いや、違うと分かっただけかもしれない。
ここは、確かに地獄ではない。
だが、だからといって救いでもない。
“ここならまだ”と言いながら、終わらない夜を歩きつづける場所だ。
止まりきれなかったものたちが、止まれないまま形を持って続いていく場所だ。
それは、恐怖から逃げるには都合がいい。
でも、逃げたまま続いてしまう。
俺はそのことを、ようやく本当に怖いと思った。
地獄が怖い。
けれど、逃げたまま続くことも、同じくらい怖い。
怖さの質が違うだけだ。
地獄の恐怖は、原初の拒絶だった。
魂がそのまま身をよじるような、底のない寒気。
百鬼夜行に留まる怖さは、もっと静かだ。
もっと薄い。
だが、薄いまま終わらず、少しずつ自分を侵していく。
気づいたときには、“ここなら”と言う声が自分のものになってしまう。
俺は、それが嫌だった。
胸が痛い。
呼吸もまだ浅い。
足の裏は頼りない。
列の中ほどで、提灯小僧の火がまた揺れる。
「……帰れない」
誰の声かは分からない。
提灯小僧かもしれない。
別の名のないものかもしれない。
だが、その言葉が夜の中で擦れて、俺の胸の奥へ入ってくる。
帰れない。
その一言の意味が、少しずつ変わっていく。
家に帰れない。
生きていた時間に帰れない。
名前のあった頃に帰れない。
何もかもが壊れる前に帰れない。
そして、もうひとつ。
“罪をなかったことにできる場所”へも、帰れない。
そのことだけが、冷たく確かだった。
俺は、歩きながら、ふいに家の朝を思い出した。
味噌汁の匂い。
母さんの卵焼き。
父さんの新聞。
マフラーを巻かれた首元の温かさ。
弁当袋の角。
あのとき、自分はまだ生きていた。
まだ戻れた。
戻れたはずだった。
止まれたはずだった。
謝れたかは分からない。
許されたかも分からない。
でも、少なくとも自分のしたことから完全に目を逸らさずにいる時間は、まだあった。
それを、自分で手放した。
死ぬ勇気は最後までなかったが、死ぬ方だけが勝手に来た。
そして、死んでからもまだ、俺は逃げようとしている。
地獄が怖いから。
終わらない苦しみが怖いから。
許されないことが怖いから。
意味の無さが怖いから。
だからといって、この列に並んだまま、痛みを異形のかたちにして夜を歩きつづけるのか。
帰れなかった灯りとして。
顔のない空白として。
足元の闇として。
止まれなかった軋みとして。
欲に寄る湿りとして。
向きを違えた首として。
名のないものとして。
そこまで想像した瞬間、喉の奥が強く狭まった。
嫌だ、と思った。
地獄が嫌だ、ではない。
それも嫌だ。
それは変わらない。
でも、それとは別に。
このまま夜の理へ馴染んで、自分の罪を“夜の側のかたち”に変えてしまうのが、どうしても嫌だった。
罪は消えない。
許されない。
濡烏はそう言った。
なら、夜の列に留まることは何だ。
消えない罪を、ただ怪異のかたちへ薄めて持ちつづけることじゃないのか。
自分の輪郭を崩しながら、怖いからここにいると言い続けることじゃないのか。
地獄の方が怖い。
だが、それでも。
俺は、唐突に足を止めた。
列の拍が一瞬だけずれる。
提灯の火が揺れる。
片車輪の軋みが、少しだけ低く鳴った。
隣ののっぺらぼうの空白が、こちらを見たような気がする。
影法師の闇が、俺の足元で薄く波打つ。
濡烏も立ち止まった。
振り返らない。
ただ、待っている。
「……怖い」
俺は、もう一度言った。
「地獄は、怖い」
夜の中へ、その言葉が落ちる。
今さら誰も驚かない。
百鬼夜行のどれもが、そんなことはとっくに知っている。
「怖い」
もう一度。
「無理だと思う。逃げたい。
ここにいたいとさえ思う」
声は震えていた。
でも、そこでようやく、自分の中の本音が全部並んだ気がした。
「それでも」
喉の奥がひどく乾く。
息を吸う。
浅い。
でも吸う。
「それでも、ここに残りたくない」
その一言を言った瞬間、胸の奥で何かが静かに鳴った。
強い決意、なんてものじゃない。
むしろ逆だ。
自分がどれほど怖がっているかを知った上で、それでも言ってしまった言葉だった。
英雄みたいな覚悟じゃない。
立派さもない。
ただ、嫌だった。
怖くて仕方がないくせに、ここに馴れていく自分だけは、どうしても受け入れられなかった。
濡烏が、ようやくこちらへ少しだけ顔を向けた。
黒い目は何も映さない。
でも、その何も映さなさの中に、ほんのわずかだけ“聞いた”という気配があった。
「なら、あとは一つだ」
低い声だった。
俺は目を閉じたくなる。
でも閉じなかった。
閉じたら、また“ここなら”へ寄ってしまいそうだったからだ。
百鬼夜行は、静かに流れている。
灯りも、影も、異形も、誰ひとり急がず、誰ひとり立ち止まらず、ただ夜の理へ従っている。
その流れの端で、俺だけが息を乱している。
その乱れこそが、まだ自分が端にいる証だった。
俺は、前を見た。
提灯小僧の火。
のっぺらぼうの空白。
影法師の足元の闇。
片車輪の軋み。
野狐の湿り。
逆さ首の高い気配。
名のない布。
節の多い手足。
ずれた二つの影。
笑いの癖だけ残したもの。
全部が夜の中で続いている。
ここなら。
ここなら。
ここなら。
その擦れた声が、まだ列のどこかで反復している。
俺は、その中で、ゆっくり首を横に振った。
「……行く」
自分でも、驚くほど小さな声だった。
夜に吸われて消えてしまいそうな声。
けれど、濡烏ははっきり聞いたらしい。
「どこへだ」
あえて問う。
逃げ道を残さないために。
胸の奥がまたひっくり返りそうになる。
喉が細くなる。
心臓が嫌な打ち方をする。
それでも、言わなければならない。
言葉にしなければ、また、俺は都合のいいところへ逃げる。
俺は、息をひとつ吸った。
「……地獄へ」
言った瞬間、全身が震えた。
恐怖が消えたわけじゃない。
言葉にしたことで、余計に現実になった。
地獄。
そこへ行く。
自分でそう選んだ。
その事実が、一気に身体の隅々まで重く広がる。
でも、同時に、百鬼夜行の拍が少しだけ遠くなる。
消えはしない。
まだそこにある。
灯りも、影も、異形も、みな夜の理へ従って流れている。
けれど、その流れが、さっきまでよりほんの少しだけ“自分とは別のもの”に戻る。
提灯小僧の火が、かすかに揺れた。
のっぺらぼうの空白は、何も言わない。
影法師の足元の闇は薄く波打ち、片車輪は低く一度だけ軋み、野狐の湿りは遠くなり、逆さ首の向きは高いところで夜に紛れていく。
名のないものたちの擦れた告白も、どこか少しだけ離れた位置へ戻っていく。
ここなら。
その言葉の反復も、今はもう少しだけ遠い。
濡烏が言った。
「そうか」
それだけだった。
褒めもしない。
責めもしない。
当然のこととして受け取るでもない。
ただ、ひとつの選びが夜の中へ置かれたことだけを認める声だった。
俺は、まだ震えていた。
足の裏も頼りない。
息も浅い。
胸の奥の恐怖は、消えていない。
たぶん消えない。
今この瞬間だって、本当は逃げたい。
地獄なんて嫌だ。
怖い。
怖くて仕方がない。
それでも、選んだ。
選んでしまった以上、もう“ここなら”へ戻る言葉を、自分で自分に与えたくなかった。
百鬼夜行の列は、静かに流れつづけている。
怖いから夜に留まり、怖いまま理に馴染んだものたちの列。
その端に一時並んでいた自分は、今ようやくそこから半歩だけ離れた気がした。
半歩だけ。
たったそれだけだ。
勇者のような決別じゃない。
眩しい覚悟でもない。
ただ、逃げたまま続く方を選ばなかった。
それだけだった。
地獄へ向かうと口にした瞬間から、現世のものが少しずつ遠ざかり始める気がした。
家。
朝の匂い。
味噌汁の湯気。
母さんの手。
父さんの新聞。
マフラーの柔らかさ。
そういうものが、まだ見えているのに、もう二度と触れられない場所へ静かに移っていく。
俺はしばらく、何も言えなかった。
夜は深い。
百鬼夜行は流れている。
濡烏の黒い背だけが、その外側で少しも揺れずにある。
選んだのだ。
怖いままで。
震えたままで。
救いなんて一つも見えないままで。
それでも、自分で。




