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 百鬼夜行の拍は、相変わらず静かだった。

 提灯の火は小さく揺れ、影は音もなく流れ、片車輪の軋みは折れた骨みたいに夜の奥で鳴っている。

 どれも変わらない。

 変わったのは、自分の内側だけだった。


 地獄が怖い。

 その一言は、もうごまかしようがなかった。

 怖い。

 それも、恥ずかしいくらい、むき出しに。

 理屈も覚悟も追いつかないところで、身体ごと、魂ごと、拒んでいる。

 それなのに、百鬼夜行の列に馴れたくもない。

 その二つが、胸の中で噛み合わないままぶつかりつづけていた。


 濡烏は、列の外を並ぶように歩いている。

 黒い背は少しも乱れない。

 こちらがどれだけ息を荒くしても、どれだけ歩幅を乱しても、あれだけはいつも同じ夜の理に沿っている。

「……濡烏」

 呼ぶと、すぐに返事は来なかった。

 俺は数歩ぶん、列の拍に押されるように進んでから、もう一度、ほとんど掠れた声で言った。

「俺は、どうすればいい」

 問いかけた瞬間、自分でも分かった。

 そんなもの、本当はもう分かっている。

 濡烏に答えをもらいたいんじゃない。

 誰かに、別の道があると言ってほしいだけだ。

 濡烏が言った。

「お前が決めろ」

 予想通りの答えだった。

「……決められるわけないだろ」

 声が、少し荒くなる。

 提灯の火が一つ揺れた。

 隣ののっぺらぼうの空白が、わずかにこちらへ傾いたような気がした。

「地獄なんて、無理だ。

 あんな場所、行けるわけがない。

 でも、ここにいたくもない。どっちも嫌だ」

 言ってから、自分で情けなくなる。

 でも、今の自分から出てくる本音は、もうその程度の言葉しかなかった。

 濡烏は少しも慰めない。

「だから選ぶのだ」

 その声は、真っ平だった。

「嫌ではない方を選ぶのではない。引き受ける方を選ぶのだ」

 引き受ける。

 その言葉は、今まで聞いたどの断片的な告白より重かった。

 提灯小僧も、のっぺらぼうも、影法師も、片車輪も、野狐も、逆さ首も、みんなそれぞれのかたちで夜に留まっている。

 怖いから。

 切り離せないものを、切り離したままにしておきたいから。

 あるいは、切り離せないと知りながら、それでも地獄へ行くのが嫌だから。

 そこへ、自分も混ざるのか。


 俺は、前を見る。

 百鬼夜行は続いている。

 灯り。

 影。

 毛並み。

 濡れた眼。

 軋み。

 布。

 名のないものたちの擦れた気配。

 さっきまで、それらは恐ろしくもあり、どこかで“ここなら”の薄い温度を持っていた。

 今は違う。

 いや、違うと分かっただけかもしれない。


 ここは、確かに地獄ではない。

 だが、だからといって救いでもない。

 “ここならまだ”と言いながら、終わらない夜を歩きつづける場所だ。

 止まりきれなかったものたちが、止まれないまま形を持って続いていく場所だ。

 それは、恐怖から逃げるには都合がいい。

 でも、逃げたまま続いてしまう。

 俺はそのことを、ようやく本当に怖いと思った。

 地獄が怖い。

 けれど、逃げたまま続くことも、同じくらい怖い。

 怖さの質が違うだけだ。


 地獄の恐怖は、原初の拒絶だった。

 魂がそのまま身をよじるような、底のない寒気。

 百鬼夜行に留まる怖さは、もっと静かだ。

 もっと薄い。

 だが、薄いまま終わらず、少しずつ自分を侵していく。

 気づいたときには、“ここなら”と言う声が自分のものになってしまう。

 俺は、それが嫌だった。

 胸が痛い。

 呼吸もまだ浅い。

 足の裏は頼りない。


 列の中ほどで、提灯小僧の火がまた揺れる。

「……帰れない」

 誰の声かは分からない。

 提灯小僧かもしれない。

 別の名のないものかもしれない。

 だが、その言葉が夜の中で擦れて、俺の胸の奥へ入ってくる。

 帰れない。

 その一言の意味が、少しずつ変わっていく。

 家に帰れない。

 生きていた時間に帰れない。

 名前のあった頃に帰れない。

 何もかもが壊れる前に帰れない。


 そして、もうひとつ。

 “罪をなかったことにできる場所”へも、帰れない。

 そのことだけが、冷たく確かだった。


 俺は、歩きながら、ふいに家の朝を思い出した。

 味噌汁の匂い。

 母さんの卵焼き。

 父さんの新聞。

 マフラーを巻かれた首元の温かさ。

 弁当袋の角。

 あのとき、自分はまだ生きていた。

 まだ戻れた。

 戻れたはずだった。

 止まれたはずだった。

 謝れたかは分からない。

 許されたかも分からない。

 でも、少なくとも自分のしたことから完全に目を逸らさずにいる時間は、まだあった。

 それを、自分で手放した。

 死ぬ勇気は最後までなかったが、死ぬ方だけが勝手に来た。

 そして、死んでからもまだ、俺は逃げようとしている。


 地獄が怖いから。

 終わらない苦しみが怖いから。

 許されないことが怖いから。

 意味の無さが怖いから。


 だからといって、この列に並んだまま、痛みを異形のかたちにして夜を歩きつづけるのか。

 帰れなかった灯りとして。

 顔のない空白として。

 足元の闇として。

 止まれなかった軋みとして。

 欲に寄る湿りとして。

 向きを違えた首として。

 名のないものとして。


 そこまで想像した瞬間、喉の奥が強く狭まった。

 嫌だ、と思った。

 地獄が嫌だ、ではない。

 それも嫌だ。

 それは変わらない。

 でも、それとは別に。

 このまま夜の理へ馴染んで、自分の罪を“夜の側のかたち”に変えてしまうのが、どうしても嫌だった。


 罪は消えない。

 許されない。

 濡烏はそう言った。

 なら、夜の列に留まることは何だ。

 消えない罪を、ただ怪異のかたちへ薄めて持ちつづけることじゃないのか。

 自分の輪郭を崩しながら、怖いからここにいると言い続けることじゃないのか。

 地獄の方が怖い。

 だが、それでも。


 俺は、唐突に足を止めた。

 列の拍が一瞬だけずれる。

 提灯の火が揺れる。

 片車輪の軋みが、少しだけ低く鳴った。

 隣ののっぺらぼうの空白が、こちらを見たような気がする。

 影法師の闇が、俺の足元で薄く波打つ。

 濡烏も立ち止まった。

 振り返らない。

 ただ、待っている。

「……怖い」

 俺は、もう一度言った。

「地獄は、怖い」

 夜の中へ、その言葉が落ちる。

 今さら誰も驚かない。

 百鬼夜行のどれもが、そんなことはとっくに知っている。

「怖い」

 もう一度。

「無理だと思う。逃げたい。

 ここにいたいとさえ思う」

 声は震えていた。

 でも、そこでようやく、自分の中の本音が全部並んだ気がした。

「それでも」

 喉の奥がひどく乾く。

 息を吸う。

 浅い。

 でも吸う。

「それでも、ここに残りたくない」

 その一言を言った瞬間、胸の奥で何かが静かに鳴った。

 強い決意、なんてものじゃない。

 むしろ逆だ。

 自分がどれほど怖がっているかを知った上で、それでも言ってしまった言葉だった。

 英雄みたいな覚悟じゃない。

 立派さもない。

 ただ、嫌だった。

 怖くて仕方がないくせに、ここに馴れていく自分だけは、どうしても受け入れられなかった。


 濡烏が、ようやくこちらへ少しだけ顔を向けた。

 黒い目は何も映さない。

 でも、その何も映さなさの中に、ほんのわずかだけ“聞いた”という気配があった。

「なら、あとは一つだ」

 低い声だった。

 俺は目を閉じたくなる。

 でも閉じなかった。

 閉じたら、また“ここなら”へ寄ってしまいそうだったからだ。


 百鬼夜行は、静かに流れている。

 灯りも、影も、異形も、誰ひとり急がず、誰ひとり立ち止まらず、ただ夜の理へ従っている。

 その流れの端で、俺だけが息を乱している。

 その乱れこそが、まだ自分が端にいる証だった。


 俺は、前を見た。

 提灯小僧の火。

 のっぺらぼうの空白。

 影法師の足元の闇。

 片車輪の軋み。

 野狐の湿り。

 逆さ首の高い気配。

 名のない布。

 節の多い手足。

 ずれた二つの影。

 笑いの癖だけ残したもの。

 全部が夜の中で続いている。


 ここなら。

 ここなら。

 ここなら。


 その擦れた声が、まだ列のどこかで反復している。


 俺は、その中で、ゆっくり首を横に振った。

「……行く」

 自分でも、驚くほど小さな声だった。

 夜に吸われて消えてしまいそうな声。

 けれど、濡烏ははっきり聞いたらしい。

「どこへだ」

 あえて問う。

 逃げ道を残さないために。

 胸の奥がまたひっくり返りそうになる。

 喉が細くなる。

 心臓が嫌な打ち方をする。

 それでも、言わなければならない。

 言葉にしなければ、また、俺は都合のいいところへ逃げる。

 俺は、息をひとつ吸った。

「……地獄へ」

 言った瞬間、全身が震えた。

 恐怖が消えたわけじゃない。

 言葉にしたことで、余計に現実になった。

 地獄。

 そこへ行く。

 自分でそう選んだ。

 その事実が、一気に身体の隅々まで重く広がる。

 でも、同時に、百鬼夜行の拍が少しだけ遠くなる。

 消えはしない。

 まだそこにある。

 灯りも、影も、異形も、みな夜の理へ従って流れている。

 けれど、その流れが、さっきまでよりほんの少しだけ“自分とは別のもの”に戻る。


 提灯小僧の火が、かすかに揺れた。

 のっぺらぼうの空白は、何も言わない。

 影法師の足元の闇は薄く波打ち、片車輪は低く一度だけ軋み、野狐の湿りは遠くなり、逆さ首の向きは高いところで夜に紛れていく。

 名のないものたちの擦れた告白も、どこか少しだけ離れた位置へ戻っていく。

 ここなら。

 その言葉の反復も、今はもう少しだけ遠い。

 濡烏が言った。

「そうか」

 それだけだった。

 褒めもしない。

 責めもしない。

 当然のこととして受け取るでもない。

 ただ、ひとつの選びが夜の中へ置かれたことだけを認める声だった。

 俺は、まだ震えていた。

 足の裏も頼りない。

 息も浅い。

 胸の奥の恐怖は、消えていない。

 たぶん消えない。

 今この瞬間だって、本当は逃げたい。

 地獄なんて嫌だ。

 怖い。

 怖くて仕方がない。

 それでも、選んだ。

 選んでしまった以上、もう“ここなら”へ戻る言葉を、自分で自分に与えたくなかった。


 百鬼夜行の列は、静かに流れつづけている。

 怖いから夜に留まり、怖いまま理に馴染んだものたちの列。

 その端に一時並んでいた自分は、今ようやくそこから半歩だけ離れた気がした。

 半歩だけ。

 たったそれだけだ。

 勇者のような決別じゃない。

 眩しい覚悟でもない。

 ただ、逃げたまま続く方を選ばなかった。

 それだけだった。


 地獄へ向かうと口にした瞬間から、現世のものが少しずつ遠ざかり始める気がした。

 家。

 朝の匂い。

 味噌汁の湯気。

 母さんの手。

 父さんの新聞。

 マフラーの柔らかさ。

 そういうものが、まだ見えているのに、もう二度と触れられない場所へ静かに移っていく。


 俺はしばらく、何も言えなかった。

 夜は深い。

 百鬼夜行は流れている。

 濡烏の黒い背だけが、その外側で少しも揺れずにある。

 選んだのだ。

 怖いままで。

 震えたままで。

 救いなんて一つも見えないままで。

 それでも、自分で。

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