25
怖いから、ここにいる。
その一文が、列のどこかで誰かに囁かれたわけでもないのに、俺の中で何度も反復した。
提灯小僧の火も、のっぺらぼうの空白も、影法師の足元の闇も、片車輪の軋みも、野狐の湿りも、逆さ首の向きも、名のないものたちの擦れた告白も、結局はみんなその一点へ戻っていく。
怖いから、ここにいる。
それは卑怯だ。
でも、卑怯であることより先に、ひどく切実だった。
地獄が怖い。
その恐怖が、どの異形の声の底にも沈んでいる。
そして今、その底の冷たさが、少しずつこちらへ移ってきている。
俺は歩いていた。
灯りと影のあいだを。
夜の列の端を。
かろうじて自分だと分かる呼吸だけを抱えて。
そのときだった。
列の拍が、ほんの一瞬だけ薄くなった。
止まったわけじゃない。
提灯の火は揺れている。
片車輪の軋みも遠くで鳴っている。
影法師も足元を流れている。
なのに、全部の音の裏から、もっと深い静けさがふいに顔を出した。
静けさ、というのも違う。
音がないのではない。
むしろ、音はある。
列は歩いている。
火も揺れている。
毛並みも擦れ、布も鳴り、誰かのすすり泣きみたいなものもまだ夜のどこかで続いている。
それなのに、その全部が急に“薄く”なる。
遠くなる、でもない。
小さくなる、でもない。
生きた気配から、半歩だけ退く。
この世の側に引っかかっていたものが、まとめてすこしだけほどける。
その向こう側に、何かがあった。
見えない。
見えないのに、分かる。
夜のずっと先。
列の流れのどこにも混ざらない。
提灯の灯りも届かず、影法師の闇とも違い、野狐の湿りも逆さ首の向きも意味を持てない場所。
暗いわけじゃない。
明るいわけでもない。
ただ、何も慰めにならないという感じだけが、ひどく鮮明にそこにある。
ぞわ、と背骨の奥で何かが粟立った。
その瞬間、足が止まりかけた。
止まりかけた、というより、身体の内側が一斉に後ろへ引いた。
列は進んでいるのに、俺の魂だけが足を踏ん張って拒んでいるみたいだった。
「……っ」
喉がひくつく。
息が浅くなる。
胸が急に狭くなる。
見たわけじゃない。
なのに、身体が先に理解した。
あれだ。
あそこだ。
地獄。
言葉が浮かぶより先に、身体の底がそれを知ってしまった。
違う。
知る、なんて綺麗なものじゃない。
触れた。
ほんのわずか、気配の端に。
それだけだ。
それだけなのに、心臓が嫌な打ち方をしはじめる。
どく、どく、と速くなるんじゃない。
もっと悪い。
拍が乱れる。
抜ける。
急に強く打ったかと思えば、その次の一拍が怖くなる。
胸の内側で、自分の心臓まで“行きたくない”と暴れているみたいだった。
足の裏が冷える。
冷たいのに汗が出る。
指先の感覚が遠くなる。
膝の裏がじわりと緩む。
視界の端がうすく暗くなって、提灯の火が遠ざかったり近づいたりする。
俺は、百鬼夜行の中にいる。
灯りがある。
影がある。
隣に気配がある。
ほんの少し前までは、そのことが薄い安堵にさえなっていた。
それが今、急にまるごと頼りなくなる。
ここですら、駄目だ。
ここですら、ただの入口だ。
その感覚が、理屈じゃなく、一気に身体へ入り込んでくる。
怖い。
地獄が怖い。
当たり前の言葉なのに、そのときの“怖い”は、今まで知っていた怖さとまるで別物だった。
捕まるのが怖いんじゃない。
罰が怖いんでもない。
苦しむのが怖い、と言うのも少し違う。
もっと深い。
もっと古い。
生き物が、生き物であるところより先に持っている拒絶だ。
熱いものへ触れたら手が引っ込む。
崖の縁に立てば足がすくむ。
腐った匂いに胃がひっくり返る。
そんな意味を考えるより先に、身体が勝手に拒む反応がある。
それと同じだった。
いや、それよりひどかった。
熱さなら手を引けば済む。
崖なら後ろへ下がれば済む。
腐ったものなら顔を背ければ済む。
でも、地獄への恐怖は違う。
後ろがない。
避け方が分からない。
顔を背けても、恐怖だけが内側から追いついてくる。
身体の表面じゃない。
中身そのものが拒んでいる。
骨。
血。
神経。
もっと深いところ。
魂という言葉を使うしかない場所が、全力で拒絶している。
行くな。
近づくな。
そこへ落ちるな。
誰が言っているのか分からない。
俺自身だ。
俺じゃない。
身体の全部だ。
身体じゃなく、もっと前のものだ。
息がうまく入らない。
吸っているつもりなのに、肺の奥まで空気が落ちていかない。
胸の途中で止まる。
喉が細くなる。
吐こうとすると、今度は息が出きらない。
胸の中に半端な空気だけが残って、それが余計に苦しい。
俺は、たぶん少しよろめいた。
列の拍から一瞬遅れた。
足元の影法師がざわりと揺れた気がした。
のっぺらぼうの空白も、提灯小僧の火も、片車輪の軋みも、野狐の湿りも、逆さ首の高い気配も、みんな一瞬だけ遠くなって、そしてまた戻る。
戻ってきた、と思ったときにはもう、恐怖は胸の上までせり上がっていた。
「……は、っ」
情けない息が漏れる。
言葉にならない。
濡烏の黒い背が、列の外で変わらない歩幅を保っている。
その変わらなさが、今は逆に恐ろしい。
あいつは知っている。
知った上で、こうして俺を歩かせている。
「……ぬれ、がらす」
呼ぶだけで喉が軋む。
でも、呼ばずにはいられなかった。
濡烏は、振り返らない。
振り返らないまま、低く言った。
「気づいたか」
気づいたか。
何に。
地獄に。
恐怖に。
自分の魂がそれをどれだけ拒むかに。
俺は、返事ができない。
できないまま、また息を吸おうとして、うまくいかない。
胸が浅く上下する。
鼓動が怖い。
自分の身体が、自分のものでなくなるみたいだった。
「……無理だ」
ようやく出たのは、それだけだった。
「無理だ」
もう一度言う。
今度は少しだけ声になった。
「無理だ。
行けるわけがない。
あんなところ、行けるわけがない」
言いながら、分かっている。
まだ見てもいない。
まだ入口にさえ触れていない。
ただ、気配の端に身体が反応しただけだ。
それだけでこの有様だ。
これが、地獄を知った者の恐怖なのかと思うと、余計に怖くなる。
「……嫌だ」
声が震える。
「嫌だ」
子どもみたいに同じ言葉を繰り返す。
だが、それしか出てこなかった。
「嫌だ。嫌だ。嫌だ」
吐き出すたび、少しだけ楽になるかと思った。
しかし、ならない。
言葉にしても、恐怖は減らない。
むしろ、口から出したぶんだけ本当になっていく。
百鬼夜行の拍が、また薄くなる。
いや、俺の感覚の方が薄れているのかもしれない。
提灯の火がぼやける。
灯りと影の境目が揺れる。
片車輪の軋みが、遠くの鉄骨みたいに歪む。
逆さ首の見えない向きが、頭の上でまだ揺れている気がする。
野狐の湿りが鼻の奥に残る。
のっぺらぼうの空白が、視界の端でこちらを見ている気がする。
全部が怖い。
でも今は、それらの怖さすら薄い。
もっと深いものがあるから。
それらは、まだ夜のものだ。
まだ形がある。
まだ声がある。
まだ告白がある。
まだ“ここなら”と言えてしまう。
地獄は違う。
そこには“ここなら”がない。
それが、どうしようもなく恐ろしい。
何をしても軽くならない。
何を言っても届かない。
どれだけ痛んでも意味にならない。
どれだけ悔いても秤が動かない。
どれだけ時間が流れても、時間そのものが赦しにならない。
その場所。
その場所へ、自分が向くかもしれない。
その可能性だけで、魂の芯がひっくり返る。
俺は歩きながら、急に自分の死に際を思い出した。
濡れた金属。
滑る靴底。
手すりを掴み損ねた指。
空を切った腕。
身体が傾いた瞬間。
床が消えた感覚。
あのときの恐怖は、確かに今まででいちばん強かったはずだ。
痛いのが怖かった。
死ぬのが怖かった。
助けを呼べないことが怖かった。
母さんの名前すら声にならなかったことが怖かった。
でも、違う。
今のこれは、それとも違う。
落ちる瞬間の恐怖は、終わりへ向かう恐怖だった。
死ねば終わる、という感覚が、どこかにまだあった。
だからあれは、強くても、一本の方向を持っていた。
地獄への恐怖は違う。
終わらない。
落ちても、底がない。
叫んでも、終点がない。
死ぬことで終わるものじゃない。
そのことを、身体の方が先に理解してしまっている。
だから、怖さの質が違う。
どこへ逃げればいいのか分からない怖さだ。
後ろへ下がる足場も、目を閉じれば消えるものでもない。
逃げ場のない恐怖。
それが、胸の奥のもっと奥、言葉より古いところで暴れている。
「……は、っ……」
呼吸が、乱れる。
足が止まりそうになる。
けれど列は流れている。
止まれない。
止まりたくない。
止まった瞬間、自分だけが外へ弾かれて、あの“何も慰めにならない場所”と真正面から向き合わされる気がした。
俺は、ほとんど縋るように列の拍へ身体を合わせた。
提灯の火。
影の薄さ。
片車輪の軋み。
濡れた眼。
名のないものたちの擦れた告白。
今だけは。
今だけは、それらが必要だった。
怖いから、ここにいる。
さっきまで聞いていたあの言葉が、今は自分の中で本物になっていた。
地獄が怖いから。
切り離せないものを切り離せないまま抱えさせられる場所が怖いから。
見返りのない継続が怖いから。
許されず、消えず、終わらないことが怖いから。
だから、今この薄い夜の列の方へ、自分は必死で寄っている。
その事実が、胸へ深く刺さる。
俺は今、贖罪を選ぼうとしているんじゃない。
まだただ、地獄から逃げたいだけだ。
そのことが、ひどく情けなかった。
「……俺は」
声が掠れる。
「俺は、ただ怖がってるだけだ」
濡烏が答える。
「そうだ」
短い。
短すぎる。
それが、言い訳を許さなかった。
「そして、その恐れは正しい」
低い声が続く。
「地獄は、魂が拒む。
頭で理解するより先に、もっと古いところが拒絶する。
お前だけではない。
それを知ったものは、皆そうなる」
皆そうなる。
提灯小僧も。
のっぺらぼうも。
影法師も。
片車輪も。
野狐も。
逆さ首も。
名のない布も、骨の節を鳴らすものも、影がふたつあるものも、笑いの癖だけ残したものも。
みんな、この恐怖を知っている。
その上で、夜へ留まっている。
そう思った瞬間、百鬼夜行の列が急に違って見えた。
怪異の列じゃない。
異形の見本市でもない。
地獄の恐怖を知ったものたちが、そこへ落ちきれず、夜の理へ馴染んで、怖いまま歩き続けている列。
その事実が、今さらながら骨へ沁みる。
俺も、その端にいる。
今は一時。
ひととき。
それだけのはずだ。
それなのに、この恐怖に押され続ければ、いつか自分も“ここなら”と言う側へ回るのかもしれない。
胸がまたぎゅっと縮む。
行きたくない。
地獄へは行きたくない。
でも、ここに馴れたくもない。
その二つのあいだに、身体ごと引き裂かれるみたいな感覚があった。
進むにも痛い。
止まるにも痛い。
戻れない。
逃げられない。
そのどうしようもなさが、恐怖をさらに深くする。
俺は、何度も息を吸った。
浅い。
うまく入らない。
それでも吸う。
吸わなければ立っていられない。
百鬼夜行は静かに流れている。
提灯の火が遠くで揺れる。
片車輪が軋む。
名のないものたちの告白が、まだ夜のどこかで擦れている。
その全部の下に、地獄への恐怖だけが、黒い水みたいに広がっている。
それはもう、ただの“恐ろしさ”ではなかった。
魂の底に沈んで、そこから全身を冷やし続ける恐怖だった。
俺はその中で、歩いていた。
歩いているしか、なかった。




