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 最初に気づいたのは、音だった。


 提灯の火の揺れ。

 片車輪の軋み。

 影法師が足元を擦るような、音にならない薄い移ろい。

 逆さ首の髪が、どこか高いところで夜を撫でる気配。

 そういうもののあいだに、もうひとつ別のものが混ざっている。

 声、ではない。

 けれど、無音でもない。

 独り言が、言葉になる寸前のかたちで夜気へ溶けている。

 誰かが口を開いているのか。

 口を持たぬものが、それでも何かを零しているのか。

 そこは分からない。

 だが、列の中にいると、それらは確かに“語っている”のだと分かった。


 外から見ていたとき、百鬼夜行はひとつの流れに見えた。

 けれど、内側に入ってしまえば違う。

 それぞれが別の痛みを持ち、別の終わり方をし、別の仕方で夜へ残ったものたちが、ただたまたま同じ理に従って歩いているだけなのだと、嫌というほど分かってくる。


 俺の少し前を、提灯の火が揺れた。

 提灯小僧だ。

 あの小さな灯りは、列の中に入ると外から見たときよりもずっと頼りなく見える。

 火はある。

 だが、それは道を照らすための灯りではない。

 消えなかった帰り道の名残だけが、まだ丸い紙の中に閉じ込められているみたいな光だった。

 その火のそばで、擦れた声がした。

「……あの橋を、渡ればよかったんだ」

 小さい。

 子どもの声にも聞こえる。

 でも、年寄りの寝言みたいにも聞こえる。

 灯りの中で紙がわずかに脈打った。

「ひとつ先の橋だと、思ってた。

 まだ帰れるって、思ってた」

 俺は、思わずその小さな背を見た。

 背、と呼べるものがあるのかも分からない。

 ただ、火の下に幼い輪郭がある。

「家の灯りは、見えてたんだ。

 見えてたのに、辿り着かなかった」

 提灯の火がふっと細くなる。

 消えるかと思うほど頼りなくなって、けれど消えずにまた戻る。

「地獄なんて、行かない。

 帰る途中で、地獄みたいなものは、もう見たから」

 最後の一言は、ほとんど聞き取れなかった。

 ただ、聞こえた気がしただけだ。

 提灯小僧は、もうこちらを見ない。

 小さな灯りのまま、夜の拍に合わせて歩いている。

 濡烏が列の外から低く言った。

「聞こえるだろう」

 俺は、返事をしなかった。



 次に、顔のない輪郭が俺の右隣で薄く揺れた。

 のっぺらぼうだと思う。

 でも、列の中にいると確信が持てない。

 顔がないからではない。

 ほかの何もかももまた、夜の中で少しずつ形をほどいているからだ。

 その空白の横から、平らな声が落ちてくる。

「これで、よろしいですか」

 ぴたりとした言い方だった。

 人に合わせた声音だ。

 怒らせないように。

 安心させるように。

 その一言の中に、何十年ぶんもの頷きと会釈が押し込められているみたいだった。

「申し訳ありません。こちらで何とか。

 ええ、私の不手際で。いえ、お気になさらず」

 どれも謝っている。

 どれも場を丸くしようとしている。

 どれも“その場で相手が欲しがる顔”だ。

 顔はもうないのに、声だけがまだそれをやめていない。

「地獄は、嫌だ」

 のっぺらぼうの輪郭が、かすかに震えたように見えた。

「もう、これ以上なくすものがあるか、見たくない」

 それは悲鳴ではなかった。

 ただの報告みたいに平らだった。


 左足元を、影法師に似た闇がすう、と流れる。

 流れて、そのまま消えるのではなく、俺の歩幅に少しだけ寄り添ってくる。

 そこから声とも呼べないものが上がってきた。

「後ろでいい。後ろでよかった。

 前なんて、出たくなかった。

 怒られるのは嫌だった。

 目立つのも嫌だった」

 言い訳でもなく、本音でもなく、ただ長く繰り返した自分への説明がそのまま溶け残っているような声だった。

「地獄は、前に出されるところだろう」

 その一言に、俺の喉がひやりと冷えた。

「見られるのも嫌だ。責められるのも嫌だ。全部、自分のものだと知るのも嫌だ。

 だから、ここでいい。

 ここなら、まだ誰かの影でいられる」

 足元の闇は、そう言っている気がした。

 言い切るでもなく、懇願するでもなく、ただそのまま流れていく。

 影法師は、誰かの影であることに慣れすぎて、自分の輪郭を持てなかった。

 そのことを、今さら声にしたところで何も変わらない。

 変わらないまま、それでも夜の列の中でだけは告白のようなものになる。


 片車輪の軋みが、少し近く鳴る。

 きい。

 きい。


 赤黒い輪が、提灯の薄明かりをかすめて回っていく。

 そのたびに、俺の肩がほんのわずかにどちらかへ引かれる。

 片車輪から零れる声は、ほかのものより言葉になりにくかった。

 軋みそのものが、もう十分に告白だからだ。

「まだ、行ける。

 まだ、間に合う。

 まだ、間に合う。

 まだ――」

 同じ言葉が何度も繰り返される。

 同じところを回る輪みたいに。

 止まれなかった者の言葉は、前へ進まない。

 ただ、あの瞬間だけを何度も擦って鳴る。

「地獄は、怖い」

 片車輪の声は初めてそこで意味を持った。

「だって、あそこへ行けば、終わっていたことを終わっていたと認めるしかない」

 その言葉に、俺は一瞬呼吸を忘れた。

 片車輪の女は、途中で子どもの声が消えたことを知っていた。

 知っていたのに、押しつづけた。

 地獄とは、その“知っていたこと”から逃げられない場所なのだろう。

 だから怖い。

 それは、俺にも分かる怖さだった。


 少し前で、野狐の尾がしなる。

 灯りをかすめる、その細い影は、列の中にいるほかの異形よりも少しだけ、人に近い温度を残している。 

 近くに寄れば寄るほど、自分が映ってしまいそうだった。

 野狐のそばから、湿った声が零れる。

「信じたがる目は、あたたかい」

 その言い方には、うっとりするような色が少しだけ混ざっていた。

「腹が減っていた。

 寒かった。

 ただ、それだけだった。

 でも、一度あの眼を向けられると、もう戻れなかった」

 野狐の眼が、灯りの中で細く濡れる。

「神様でいてほしいと言われれば、そのように立った。

 帰ってきた娘でいてほしいと言われれば、そのように首を傾げた。

 良い兆しであってほしいと願われれば、尾を見せた。

 何も奪わなくても、人は勝手に自分から差し出す」

 その声は責めていない。

 自慢もしていない。

 ただ、知ってしまったことを語っているだけだ。

「地獄は、嫌だ」

 野狐の声が、そこで少しだけ低くなる。

「向こうでは、欲しがる顔をしても、誰も欲しがってくれないだろう」

 その一言は、ほとんど冗談みたいに軽く聞こえた。

 だが、その軽さの下にあるのは、どうしようもなく深い寒さだった。

 欲しがられることでしか形を持てなくなったものには、地獄は本当に空虚なのだろう。


 高いところで、逆さ首の髪がまた揺れる。

 見上げるな、と身体の奥が拒む。

 けれど列の中にいると、頭上の気配だけで十分に何かが伝わってくる。

「上か、下か。

 前か、後ろか。

 どっちでもよかった、最初は」

 逆さ首の声は、上下の定まらない響きで夜のあいだから落ちてきた。

「少しずつだった。

 少しずつずれた。

 少しずつ、踏んでいいものといけないものが入れ替わった。

 気づいたときには、戻す方が怖かった」

 髪が、ゆっくりと揺れる。

「地獄はもっと、正しく逆さまなのだろう」

 それがどういう意味なのか、俺には分からない。

 正しく逆さま。

 そこにはもう、自分に都合のいい“言い換え”が通らないのだろう。


 名のあるものだけじゃない。

 列には、まだいくらでも名のない異形がいる。

 前の灯りの横を、布ばかりが歩いているみたいなものが通る。

 身体があるのかないのか分からない。

 袖のような、襤褸のような、濡れた旗のようなものだけが何枚も重なって揺れている。

 その奥から、小さな声がする。

「包めば、隠せると思った」

 布が擦れる。

「掛ければ、見えなくなると思った。

 匂いも、傷も、死んだ顔も、泣き声も」

 誰かを隠したのか。

 自分のしたことを覆おうとしたのか。

 そこまでは分からない。

 だが、隠すという行為だけがその異形の中心に残っている。

「地獄は、布がない」

 その言葉は、妙に具体的で恐ろしかった。

 何も隠せないのだ。

 そういう意味だと、すぐ分かった。


 少し後ろで、骨とも木ともつかない手足を鳴らすものが歩いていた。

 節が多い。

 関節が、ひとつ余計にあるみたいに曲がる。

 そのたび、から、から、と乾いた音がする。

「動けば許されると思った。

 働けば埋まると思った。

 休まなければ追いつかれると思った」

 その声は、ひどく疲れていた。

 疲れきっているのに、まだ止まり方を知らない。

「地獄は、いくら動いても埋まらない。

 だから行かない」

 その短い言葉に、片車輪とは別の意味で止まれなかった者の絶望があった。


 俺のすぐ横を、影が二つあるものが過ぎていく。

 身体はひとつに見える。

 なのに、足元には二つの影がずれて落ちている。

 ひとつは今の歩幅に合っている。

 もうひとつは、半歩ぶん遅れている。

「片方は残りたがった」

「片方は逃げたがった」

 同じ口から出ているのか、それとも別々のものが同じ身体にいるのか分からない。

 声がふたつ、ほんの少しだけずれて聞こえる。

「地獄へ行けば、どちらかを選ばされる」

「それが嫌だ」

「だから、まだここを歩いている」

 歩きながら、決められないまま。

 そのことが、その異形の形そのものになっている。


 もっと遠くで、顔の代わりに何か別のものを持っている気配がする。

 手かもしれない。

 花かもしれない。

 土の塊かもしれない。

 灯りが届かなくて、よく分からない。

 けれど、その曖昧な顔のないものから、ひどく乾いた声がした。

「喋るのをやめた。

 喋れば壊すから」

 短い沈黙。


「黙っていたら、今度は何も届かなかった」


 列は進む。

 その異形も進む。

 進みながら、もう誰にも届かない告白だけが夜へ零れていく。

「地獄は、黙っても許してくれない」


 また別のところで、笑い声がした気がした。

 高くも低くもない。

 誰かが笑っているというより、かつて笑っていた癖だけが残っているみたいな響きだった。

 そちらを見ると、灯りの向こうに、首から下だけがやけに正しい姿勢で歩いているものがいた。

 顔は、見えない。

 見えないのに、口元だけが笑っていたような気がする。

「冗談にしてた」

「笑ってれば、まだ終わってない気がした」

「大丈夫だって言えば、大丈夫になる気がした」

 笑うような場面じゃない。

 そういう場面ほど笑っていたのだろう。

 その軽さだけが、今も夜へ残っている。

「地獄は、冗談が届かない」

 その言葉のあと、もう笑いは聞こえなかった。


 俺は、息を吸う。

 吸って、吐く。

 けれど、呼吸のリズムが自分のものに戻らない。

 列の拍に半歩合わせながら、次から次へ零れてくる断片を聞いているうちに、百鬼夜行の中が思っていた以上に“生きていた頃の続き”で満ちているのが分かってくる。

 怪異の列なんじゃない。

 言い終われなかったもの、認めきれなかったもの、やめ損ねたもの、隠しきれなかったもの、決めきれなかったもの。

 そういう端切れが、夜の形を借りて歩いている。

 そのどれもが、地獄を恐れている。

 恐れ方は違う。

 でも、どこか一点でつながっている。

 地獄に行けば、自分が切り離してきたものを、切り離せないまま引き受けるしかなくなる。

 そのことを、こいつらはそれぞれ別の角度から知っているのだ。

「……みんな、怖いんだな」

 思わず漏れる。

 濡烏が、列の外から言った。

「当然だ」


「列に留まるものは、多かれ少なかれそれを知っている。

 ここにいるのは、勇ましい怪異どもではない。

 怖いから夜へ留まり、怖いまま理に馴染んだものどもだ」

 その言い方に、胸のどこかがずきりとした。

 俺は今、一時的にそこへ並んでいる。

 怖いから。

 地獄が怖いから。

 だから夜の列の端へ寄っている。

 そのことが、あまりにもはっきりした。


 前の方で、提灯小僧の火がまた小さく揺れる。

「……ねえ」

 子どものような、でも子どもではない声がした。

「ほんとうに、あっちは、もっと怖いの」

 誰に向けた言葉なのか分からない。

 濡烏へか。

 列そのものへか。

 自分へか。

 答えは返らない。

 けれど、返らないということ自体が答えみたいだった。

 のっぺらぼうの空白から、平らな声が零れる。

「ここなら、まだ顔がいらない」

 影法師の夜が、足元で薄く擦れる。

「ここなら、まだ立つ場所を決めなくていい」

 片車輪の軋みが、遠くで低く鳴る。

「ここなら、まだ止まれなかったところで回っていられる」

 野狐の湿った眼は見えないくせに、声だけがどこか近い。

「ここなら、まだ欲しがるものの匂いが残っている」

 逆さ首の髪が高いところで揺れる。

「ここなら、まだ上下を言い換えられる」

 名のない布のものは、擦れた声で言う。

「ここなら、まだ隠せる」

 乾いた節の多いものが言う。

「ここなら、まだ動いていられる」

 影がふたつあるものが言う。

「ここなら、まだ決めなくていい」

 その“ここなら”が、列の中で幾度も繰り返される。


 ここなら。

 ここなら。

 ここなら。


 その言葉を聞いているうちに、俺は急に怖くなった。

 さっきまでとは別の意味で、急に、心臓が嫌な音を立てはじめる。

 百鬼夜行は、地獄ではない。

 救いでもない。

 それなのに、“ここなら”と言えてしまう場所なのだ。

 その怖さが、一気に押し寄せてくる。


 列の中にいると、痛みは形になる。

 悔いは声になる。

 恐れは異形になる。

 そして、その形になったものを抱えたまま、歩きつづけることができる。

 それは終わりではない。

 償いでもない。

 でも、“続いてしまう”。

 地獄を恐れたものが、ここならまだ、と言いながら留まりつづける。

 それが、百鬼夜行の正体のひとつなのかもしれないと思った。

 ぞっとした。

 俺も、今その入口に立っている。

 提灯と影のあいだ。

 名のないものたちの声のあいだ。

 “ここなら”という言葉のあいだ。


 今はまだ、ひとときだ。

 濡烏はそう言った。

 でも、このまま地獄の恐怖に押されつづければ、いつか俺も“ここなら”と自然に言うようになるのかもしれない。

 そう思った瞬間、喉の奥に冷たいものが込み上げた。

「……嫌だ」

 気づけば、声に出ていた。

 隣ののっぺらぼうが反応したのかどうかは分からない。

 足元の影が一瞬だけ揺れた気はした。

 片車輪の軋みも、ひどく遠くなったような、逆に近くなったような、そんな曖昧な響きになる。

「何がだ」

 濡烏の声が、列の外から届く。

「ここに馴れるのが」

 答えた瞬間、自分でその言葉の重さに少し驚く。

 地獄は怖い。

 怖くてたまらない。

 でもそれとは別に、この列へ少しずつ馴染んでいく自分もまた怖いのだと、ようやくはっきり分かった。

 濡烏は、少しだけ沈黙した。


 百鬼夜行は流れている。

 灯りも、影も、異形も、誰も俺を慰めない。

 ただ、それぞれの告白だけが夜の中で擦れている。

 やがて濡烏が低く言った。

「なら、まだお前は端にいる」

 その言葉で、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 救いではない。

 確認だ。

 まだ端にいる。

 まだ列そのものではない。

 そのことだけが、今の自分をかろうじて留めていた。

 列はなおも続く。

 誰かの小さなすすり泣きのような音。

 誰かの乾いた笑いの残り香。

 布の擦れ。

 骨の節の鳴る音。

 濡れた眼。

 回りつづける輪。

 顔のない空白。

 どれもが、自分の過去を少しずつ違う言葉で引き裂いて見せてくる。

 そして、そのどれもが最後には同じところへ戻る。

 怖いから、ここにいる。

 地獄が怖いから。

 切り離せぬものを切り離せぬまま引き受ける場所が怖いから。

 だから、まだ夜を歩いている。

 その事実が、百鬼夜行の薄い拍の中で、俺の身体へじわじわと染みていった。

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