22
夜は、もうすっかり深くなっていた。
深いのに、底がある感じはしなかった。
百鬼夜行の灯りはなおも流れている。
提灯小僧の小さな火が遠くで揺れ、のっぺらぼうの輪郭は他の影へ沈み、影法師は路面の闇と見分けがつかず、片車輪の乾いた軋みは折れた骨みたいにときどき夜のどこかで鳴った。
野狐の湿った眼も、逆さ首の向きも、もうはっきりとは見えない。
見えないのに、それぞれの気配だけが、俺の中の別々の場所へ残っている。
濡烏が、ふいに歩き出した。
列のすぐ脇。
灯りが届くとも届かないともつかない、境のような場所を、あの黒い背が音もなく進む。
俺は、何も言わず、そのあとを追った。
百鬼夜行の流れから離れすぎない。
けれど、完全には混ざらない。
その半端な位置が、今の自分そのものみたいだった。
やがて、濡烏が止まる。
そこは、道と呼ぶには少し曖昧な場所だった。
夜の路の脇が、ふいに広くなっている。
草も石もない。
ただ、黒の濃さだけが少し違う。
提灯の火はそこまで届かず、列の気配だけが、遠い川音みたいに流れていた。
濡烏は、振り返らない。
振り返らないまま、低く言った。
「ここまで見たなら、もう聞け」
声は平らだった。
だが、その平たさが、かえって嫌な重みを持って胸へ落ちた。
これから言われることは、慰めではない。
励ましでもない。
聞いたところで軽くならないことだけが、先に分かる声音だった。
「お前はもう知っている」
濡烏が言う。
「列の端に立った。あれらの気配に触れた。
帰れぬもの、顔を失うもの、足場を失うもの、止まれぬもの、欲に寄るもの、向きを違えるもの。
そのどれもが、お前に無縁ではない」
俺は、答えなかった。
答えようとすると、提灯小僧の火ものっぺらぼうの空白も、影法師の薄さも、片車輪の痛みも、野狐の湿った眼も、逆さ首の上下の狂いも、全部がいっぺんに喉へ詰まりそうだった。
濡烏は続ける。
「だが、あれらはまだ“夜に留まるものたち”だ」
“まだ”という響きがあった。
夜に留まる。
それだけで済んでいる、という言い方だった。
「お前が次に知るべきは、その先だ」
その瞬間、百鬼夜行の灯りが、少しだけ遠くなった気がした。
実際に離れたわけじゃない。
でも、さっきまでよりも冷たく見えた。
ここから先の話に比べれば、あの列ですらまだ人の世に近いのだと、空気の方が先に告げてくる。
「……地獄か」
ようやくそれだけ言うと、濡烏は短く答えた。
「そうだ」
間を置かない。
躊躇いもない。
その一音だけで、喉の奥が乾いた。
「地獄を、苦しみの場所だと思うな」
濡烏の声が、夜の低いところへ沈んでいく。
「焼かれるから怖いのではない。裂かれるから辛いのでもない。
その程度なら、人はまだ終わりを想像できる。
痛みには限りがあると、どこかで思える」
提灯の灯りが、遠くでひとつ揺れた。
その小さな明かりだけが、今や妙に人の世のものへ見える。
「地獄にあるのは、終わりの無さだ」
濡烏が言う。
「耐え抜けば明ける朝もない。
悔いれば軽くなる秤もない。
泣けば赦される眼差しもない。
祈っても届かぬ。
折れても終わらぬ。
慣れても救いにはならぬ」
ひとつひとつの言葉が、静かなまま深く入ってくる。
叫び声みたいな強さはない。
だからこそ逃げ場がなかった。
「地獄とは、苦しみの中でなお“それでも消えない罪”を抱かされつづける場所だ」
背中のあたりが冷たくなる。
背中のもっと奥。
骨の中の空洞へ、ゆっくり冷たい水が差していく感じだった。
「苦しめば消えると思うな。
痛めば償えると思うな。
罪は、痛みと交換できぬ」
俺は、思わず濡烏の背を見た。
黒い。
夜の中で、あの背だけがやけにくっきりしている。
「じゃあ、何のために……」
声がうまく続かない。
「苦しむんだ」
濡烏は少しも振り返らない。
「消すためではない。
許されるためでもない。
ただ、自らのしたことと切り離されぬためだ」
その言葉は、ひどく残酷だった。
地獄へ行けば楽になるわけじゃない。
苦しみ抜けば軽くなるわけでもない。
苦しみは苦しみとしてあり、罪は罪として消えずに残る。
その両方から逃げずにいるためだけに、地獄はある。
そう聞こえた。
「……そんなの」
喉が詰まる。
「救いがない」
濡烏はそこで、初めて少しだけこちらへ顔を向けた。
黒い目は、提灯の火も映さない。
「無い」
はっきりと言った。
「地獄に救いは無い。慰めも無い。
“もうよい”と言う声も無い。
お前の罪を消してくれる手も無い。
許してくれる誰かを夢見るな。
そこでは、罪は消えず、許されもせぬ」
胸の奥が、ぎり、と鳴る。
片車輪の軋みとも違う。
もっと生々しい、自分の中の何かがきしむ音だった。
「許されない……」
言葉にしてみると、妙に薄い。
でも、その薄さの下にあるものは重かった。
今までも、どこかで思っていたのかもしれない。
見つかれば罰を受ける、とか。
死ねば終わる、とか。
苦しめば何かが釣り合う、とか。
そういう、子どもじみた秤をどこかで信じていたのかもしれない。
濡烏は、その全部を切り落とすように言った。
「許しを前提にするな」
声は低い。
それなのに容赦がなかった。
「誰にだ。
騙した相手か。泣かせた者か。失った者か。
お前自身か。
どれも違う。
地獄にあるのは、許しではなく継続だ。
お前がしたことを、お前が切り捨てられぬまま続いていく継続だけだ」
百鬼夜行の列が、遠くで静かに流れている。
なのに、今はあの灯りの方がやけに優しく見えてしまう。
優しいはずがない。
帰れぬものの列だ。
それでも、濡烏の言葉を聞いたあとでは、あの列ですらまだ“留まることができる場所”に思えてしまう。
その考えを見抜いたみたいに、濡烏が言った。
「だからこそ、地獄を恐れる」
俺は息を止める。
「百鬼夜行に連なるものどももな」
低い声だった。
「あれらは怪異として夜を歩く。
痛みも、飢えも、悔いも、形を変えながら持ちつづける。
だが地獄は違う。
形すら慰めにならぬ。
怪異であることも救いにならぬ。
そこでは、ただ“罪あるもの”として在る」
背中に寒気が走った。
理屈より先に、身体が拒む。
近づきたくない。
知りたくない。
聞きたくない。
それなのに、耳だけは濡烏の声から離れない。
「地獄では、痛みが罰になるのではない」
濡烏が言う。
「お前が“痛んでいる”ことすら、何の証にもならぬ。
どれだけ苦しんでも、だから何だで終わる。
悔いても、だから何だで終わる。
涙も、懺悔も、悲鳴も、擦り減りも、終わりも赦しも連れてこない」
胃が、ゆっくり持ち上がる。
逆さ首に見上げられたときとは違う。
もっと深いところ。
身体の芯が、地獄という言葉そのものを拒否していた。
「では、なぜ人は地獄を恐れるか」
濡烏の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「痛いからではない。
苦しいからでもない。
そこに、意味を期待できぬからだ」
意味。
その二文字が、ひどく恐ろしかった。
痛みには意味があると、どこかで思っている。
苦しめば償えると、どこかで思いたがる。
そういう人の甘えを、地獄は全部持ち込ませない。
あまりにも恐ろしい。
「地獄にあるのは、見返りのなさだ」
濡烏が言う。
「お前が何を選び、何を引き受けても、そこに褒美はない。
清くもならぬ。
軽くもならぬ。
ただ、逃げなかったという事実だけが残る」
その一言で、息がうまく吸えなくなった。
逃げなかったという事実。
それだけ。
それだけのために、終わらず、許されず、救われず、痛みとともに在りつづける。
そんな場所を、どうして選べるのか。
まだ選ぶ前なのに、魂のどこかがもう叫んでいた。
「……そんなところに」
声が細くなる。
「行けるわけがない」
濡烏は、何も否定しなかった。
「そう思うのが普通だ」
やがて言う。
「お前だけではない。
人も、怪異も、列に留まるものどもも、みなそう思う。
だから夜に留まり、列に紛れ、痛みを形へ変えて歩きつづける。
地獄は怖い。
怖くて当然だ」
その言い方には、少しも慰めがない。
ただ、怖いものを怖いと言っているだけだ。
でも、それだけで逆に逃げ道がなくなる。
「……罪は、消えないんだな」
ようやく絞り出すように言うと、濡烏は即座に答えた。
「消えぬ」
「どれだけ苦しんでも」
「消えぬ」
「許されることも」
「ない」
その短さが、どこまでも残酷だった。
俺は、その場でしばらく何も言えなかった。
百鬼夜行の流れが遠くで続いている。
提灯の火も、のっぺらぼうの影も、片車輪の軋みも、野狐の湿りも、逆さ首の向きも、すべて今は少し遠い。
遠いのに、その全部が、地獄よりはまだ“この世の外側に留まっている”ように思えてしまう。
それがたまらなく嫌だった。
濡烏は、最後に静かな声で言った。
「覚えておけ」
俺は、顔を上げる。
「お前がこれからどちらへ向くにせよ、
罪は、お前の都合で軽くはならぬ。
消えることもなく、許されることもない」
夜は深い。
百鬼夜行は流れている。
しかし、その一言だけが、ほかの何よりも重く残った。
罪は消えない。
許されない。
その事実だけが、俺の中に冷たい杭みたいに打ち込まれて、抜けなかった。




