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 提灯の灯りより高いところで、何かが逆さに揺れていた。

 最初は、長い髪だと思った。

 風もないのに、闇の中でだけゆっくりと揺れる黒い筋。

 けれど、見上げた瞬間、それが髪ではなく“首から下がったもの”だと分かった。

 頭だった。

 逆さだった。


 天地の感覚だけが、そこだけ狂っている。

 提灯の火は、下からその輪郭を掠めているはずなのに、光の当たり方が合わない。

 影も合わない。

 髪は、下へ垂れている。

 それなのに、その顔のあるべき向きだけが、見れば見るほど曖昧になる。

 笑っているようにも見える。

 泣いているようにも見える。

 次の瞬間には、そのどちらでもなく、ただ顔というものの、向きが正しくないとだけ分かる。


 俺は、無意識に肩を強張らせた。

 野狐の湿り気とは違う。

 もっと理解の外にある。

 気味が悪いとか、怖いとか、そういう言葉が追いつく前に、身体の奥の方が、拒み始める感じだった。

 胃が、ゆっくり持ち上がる。

 足の裏の感覚が頼りなくなる。

 見上げているはずなのに、自分の方がどこかへ吊られていくような眩暈がした。

「……あれが」

 声が掠れる。

 濡烏が、答えた。

「逆さ首だ」

 低い声だった。

 だが、その声すら、いつもより少しだけ遠く聞こえた。

 上から落ちてくるのか、足元から這い上がるのか、方角が分からない。

「長く見続けるな」

 濡烏が続ける。

「こいつは、向きを移す」

「向き……?」

「見上げすぎれば、己の内にある向きまで揺れる」


 俺は、反射的に視線を落としかけた。

 けれど、落とす寸前で止まる。

 今、目を逸らしたら、あの逆さの輪郭が、自分の視界の裏へ回り込む気がした。

 見たくない。

 でも、完全には、視界から外すことは出来なかった。

 逆さ首は、下りてくるわけではなかった。

 ただ、距離だけが薄くなる。

 さっきまで提灯の灯りより高いところにいたはずなのに、いつの間にかその存在感だけが近い。

 首の根元から上だけが、夜に吊られている。

 身体はないのか、闇に溶けているのか、それすら分からない。

 髪は静かに垂れて、提灯の火を掠めるたび、濡れた藻みたいな艶を返す。


 そして、顔。

 顔、と呼んでいいのか分からない。

 目がある気もする。

 口元が歪んでいる気もする。

 だが、それら全部が“逆さにある”という事実に押し流されて、意味を結ばない。

 人は、顔から感情を読む。

 けれど、逆さ首の顔は、読むたびに意味を裏返す。

 微笑みに見えたものが、次の瞬間には苦悶に見える。

 怒りに見えたものが、泣き顔へ崩れる。

 何も定まらない。

 ただ、“正しい向きで受け取れない”という気味悪さだけが残る。

「……これも、人だったのか」


 濡烏は、しばらく黙っていた。

 百鬼夜行の列は静かに流れている。

 提灯小僧の火は遠くで揺れ、のっぺらぼうの輪郭は薄く溶け、影法師は足元の夜に紛れ、片車輪の乾いた軋みがまだどこかに残っている。

 その上を、逆さ首の黒い髪だけが、別の流れみたいに揺れていた。

「男だとも、女だとも言う」

 やがて、濡烏が言う。

「やはり伝わり方はいくつもある。だが、どれでもよい。

 大事なのは、こいつが長く“上に置くもの”を取り違えていたということだ」

 俺は、黙って聞いた。

 逆さ首は、なおもこちらを見ているのか、見ていないのか分からない。

 なのに、その“向きの狂い”だけが、じわじわと俺の身体へ入り込んでくる。

「頭を下げるべきところで、顎を上げた。

 見上げるべきものを足元へ置き、踏んではならぬものを踏み台にした。

 大事なものと要るものを、長く逆にした」

 濡烏の声は平らだった。

「損得を先に上へ置き、恥を下へ沈めた。

 保つべきものを削り、捨てるべきものを抱えた。

 そうしているうちに、世界の上下が内側で本当に入れ替わった」

 その言葉が、妙に重く響く。

「……そんなことで、こうなるのか」

「そんなこと、ではない」

 濡烏の声は冷たい。

「人は、何を上に置くかで向きが決まる。

 それを長く誤れば、最後には景色そのものが逆になる」


 頭の奥に、映像が差し込まれた。

 暗い座敷。

 帳場かもしれない。

 店かもしれない。

 人の出入りがある場所だ。

 そこにひとりの影がいる。

 顔は、はっきりしない。

 男にも女にも見える。

 ただ、その人物が、何かを見下ろしていることだけは分かる。

 帳面。

 金。

 印。

 差し出された紙。

 頭を下げる相手。

 泣きそうな声。

 困りきった表情。

 それら全部に囲まれながら、その人物はずっと、何か別のものを上に置いていた。

 助けより得。

 痛みより都合。

 恥より保身。

 祈りより勘定。

 最初からそうだったわけじゃない。

 けれど、少しずつ、少しずつ、上と下を入れ替えていった。

 今日はこれくらい。

 今だけは。

 仕方がない。

 そうやって、毎日ほんの少しずつ。

「最後には、自分だけが正しい向きだと思っていた」

 濡烏が言う。

「周りが間違って見えた。

 頭を垂れる者が愚かに見え、恥じる者が弱く見えた。

 そうして、逆にしたまま死んだ」

 逆さ首の髪が、ふいに大きく揺れた。


 風はない。

 なのに、その揺れだけで、俺の視界の上下が一瞬だけ曖昧になる。

 提灯の火が上に流れた気がした。

 路面のひびが天井の裂け目みたいに見えた。

 胃が浮く。

 足の裏が冷える。

 どこが地面で、どこが空なのか、ほんの一瞬だけ信じられなくなった。

「……っ」

 膝が揺れる。

 濡烏が言う。

「踏ん張れ。こいつは、向きを問う」

 次の瞬間、声がした。

 のっぺらぼうみたいに顔の裏へ落ちるわけでもない。

 野狐みたいに自分の考えに紛れるわけでもない。

 もっと不快だった。

 耳で聞いているはずなのに、上下が合わない。

 頭の上から響く声が、足元からも同時に滲んでくる。

『おまえは』

 ぞっとするほど静かな声だった。

 高くも低くもない。

 人の声なのに、人の口から出ている感じがしない。

『何を、上にした』

 その一言で、胸の奥が強く縮んだ。

 何を、上にした。

 提灯小僧は、帰れなさを照らした。

 のっぺらぼうは、どの顔で、と問うた。

 影法師は、どこに立っていた、と問うた。

 片車輪は、どこで止まれた、と問うた。

 野狐は、何に化けて何を餌にした、と問うた。

 逆さ首は違う。

 もっと単純で、もっと根元だ。

 何を、上にした。

 答えようとして、息が詰まる。

 金。

 保身。

 今をやり過ごすこと。

 捕まらないこと。

 都合のいい言い訳。

 そういうものが、次々と浮かぶ。

 でも、どれもそれだけじゃない。

 俺はいつも、それらを“仕方のないこと”とか“今だけ”とか“まだ大丈夫”とか呼び直して、上に置いてきた。

「……俺は」

 声が震える。

 逆さ首の顔は、やはり何も定まらない。

 それなのに、その逆さの輪郭だけが、俺の答えをじっと待っている。

「俺は、自分の都合を上に置いた」

 言葉が出た瞬間、吐き気に似たものが込み上げる。

「人より。痛みより。止まるべきところより。たぶん、ずっと」

 逆さ首の髪が、また揺れた。

 違う、とでも言うのかと思った。

 けれど声は、すぐには来ない。

 その沈黙のあいだに、俺の内側で別の気づきがゆっくり形になる。

 都合を上に置いた。

 でも、それだけじゃない。

 俺は、その上下を自分の中で何度も言い換えていた。

 都合を現実と呼び、保身を仕方なさと呼び、欲を機会と呼んだ。

 そうやって、下に置くべきものを上へ置き直し、上にあるべきものを見えないところへ沈めた。

「……違う」

 思わず、もう一度口にする。

「都合だけじゃない。

 俺は、上下が入れ替わってるのを知ってたのに、見ないふりしてた」

 その瞬間、逆さ首の輪郭が、わずかに近くなった。

 近づいた、というより。

 向きだけがこちらへ合った気がした。

 ほんの一瞬だけ、逆さの顔の意味がこちらへ繋がる。

『知っていたなら』

 声が落ちる。

『なぜ、そのままにした』

 喉が詰まる。

 なぜ。

 なぜそのまま放置したのか。

 なぜ、上下が逆だと分かっていて、その景色の中に居続けた。


 答えは分かっている。

 楽だったからだ。

 その方が今を繋げたからだ。

 その方が、立ち止まって崩れるよりはましだと思ったからだ。

 自分だけはまだ引き返せると、勝手に思っていたからだ。

「……戻れると思ってた」

 ようやく言う。

「いつでも戻せるって。

 あとからちゃんとできるって。

 だから、逆だって分かっても、そのままにしていた」

 逆さ首の輪郭が、しばらく動かなくなる。

 見られている。

 でも、それは糾弾ではない。

 もっと不気味な静けさだ。

 俺の答えが“正しいかどうか”ではなく、“どこまで自分で引き受けているか”だけを測っているようだった。

 濡烏が言う。

「こいつは、善悪より先に向きを見る。

 罪を裁くのではない。

 お前の内で、何がどちらへ置かれているかを知る」

「最悪だな」

 口の中が乾いている。

 声もひどく小さい。

 濡烏は答える。

「お前にとってはな」

 逆さ首の髪が、ゆっくりと解けるように揺れた。

 そのたびに、俺の身体の上下がまた少し曖昧になる。

 だが、さっきよりはましだった。

 完全に呑まれてはいない。

 俺はまだ、足の裏で地面を探している。

 まだ、上と下を取り戻そうとしている。

『なら』

 声がした。

『まだ、落ちきらぬ』

 その言葉とともに、胃の浮く感じがほんの少しだけ薄れた。

 逆さ首は、それ以上何も言わない。

 ただ、髪を垂らし、逆さのまま、しばらくこちらを見ていた。

 あるいは、見ていなかったのかもしれない。

 あの顔に“見ている”という向きを与えること自体、たぶんこちらの思い込みなのだろう。


 やがて、逆さ首はゆっくりと上へ遠ざかった。

 夜の高いところへ、向きを崩さないまま戻っていく。

 提灯の灯りより高く。

 電線と夜のあいだへ。

 髪だけが最後まで遅れて揺れ、そしてそれも闇へ溶ける。

 俺は、その場で深く息を吐いた。

 肺に入ってくる空気まで、さっきより少しだけ正しい向きに戻った気がする。

 足の裏はまだ頼りない。

 頭も少し重い。

 だが、完全に上下を失ったわけではない。

 濡烏は短く言う。

「逆さ首は、答えよりも向きを見る。

 お前が何を上に置き、何を下へ沈めたか。

 それだけで足りる」

「どいつもこいつも、ほんとに容赦がないな」

「夜の列だ」

 濡烏の返しはいつも通りだった。

 だが、その平たさが、今は妙にありがたかった。

 列は、なおも静かに流れている。

 提灯小僧の火が、遠くで小さく揺れる。

 のっぺらぼうの顔のない輪郭は、もう他の影と見分けがつかない。

 影法師は足元の闇に紛れ、片車輪は赤黒い軋みを繰り返し、野狐の眼はどこかでまだ湿っている気がした。

 そして逆さ首は、高い夜のどこかで、もう見えない向きのまま揺れている。


 提灯小僧は、帰れなさを照らした。

 のっぺらぼうは、見せる顔を問うた。

 影法師は、立つ場所を問うた。

 片車輪は、止まれた場所を問うた。

 野狐は、何に化けて何を餌にしたのかを問うた。

 逆さ首は、何を上に置いたのかを問うた。


 どれも違う。

 けれど、どれも俺の中にある同じ暗さへ、違う角度から手を入れてくる。

 俺は、まだそこに立っていた。

 逃げていないわけじゃない。

 悟ったわけでもない。

 ただ、まだ倒れずにいる。

 それだけだった。

「……もう少しだけ、立てる」

 自分に言うみたいに呟くと、濡烏は何も返さなかった。

 百鬼夜行は、目の前を静かに流れ続けている。

 灯りも、影も、異形も、誰ひとり急がず、誰ひとり立ち止まらない。

 その流れの端で、俺は喉の奥に乾いた息を抱えたまま、しばらく動けなかった。

 夜は、もうすっかり深くなっていた。

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