21
提灯の灯りより高いところで、何かが逆さに揺れていた。
最初は、長い髪だと思った。
風もないのに、闇の中でだけゆっくりと揺れる黒い筋。
けれど、見上げた瞬間、それが髪ではなく“首から下がったもの”だと分かった。
頭だった。
逆さだった。
天地の感覚だけが、そこだけ狂っている。
提灯の火は、下からその輪郭を掠めているはずなのに、光の当たり方が合わない。
影も合わない。
髪は、下へ垂れている。
それなのに、その顔のあるべき向きだけが、見れば見るほど曖昧になる。
笑っているようにも見える。
泣いているようにも見える。
次の瞬間には、そのどちらでもなく、ただ顔というものの、向きが正しくないとだけ分かる。
俺は、無意識に肩を強張らせた。
野狐の湿り気とは違う。
もっと理解の外にある。
気味が悪いとか、怖いとか、そういう言葉が追いつく前に、身体の奥の方が、拒み始める感じだった。
胃が、ゆっくり持ち上がる。
足の裏の感覚が頼りなくなる。
見上げているはずなのに、自分の方がどこかへ吊られていくような眩暈がした。
「……あれが」
声が掠れる。
濡烏が、答えた。
「逆さ首だ」
低い声だった。
だが、その声すら、いつもより少しだけ遠く聞こえた。
上から落ちてくるのか、足元から這い上がるのか、方角が分からない。
「長く見続けるな」
濡烏が続ける。
「こいつは、向きを移す」
「向き……?」
「見上げすぎれば、己の内にある向きまで揺れる」
俺は、反射的に視線を落としかけた。
けれど、落とす寸前で止まる。
今、目を逸らしたら、あの逆さの輪郭が、自分の視界の裏へ回り込む気がした。
見たくない。
でも、完全には、視界から外すことは出来なかった。
逆さ首は、下りてくるわけではなかった。
ただ、距離だけが薄くなる。
さっきまで提灯の灯りより高いところにいたはずなのに、いつの間にかその存在感だけが近い。
首の根元から上だけが、夜に吊られている。
身体はないのか、闇に溶けているのか、それすら分からない。
髪は静かに垂れて、提灯の火を掠めるたび、濡れた藻みたいな艶を返す。
そして、顔。
顔、と呼んでいいのか分からない。
目がある気もする。
口元が歪んでいる気もする。
だが、それら全部が“逆さにある”という事実に押し流されて、意味を結ばない。
人は、顔から感情を読む。
けれど、逆さ首の顔は、読むたびに意味を裏返す。
微笑みに見えたものが、次の瞬間には苦悶に見える。
怒りに見えたものが、泣き顔へ崩れる。
何も定まらない。
ただ、“正しい向きで受け取れない”という気味悪さだけが残る。
「……これも、人だったのか」
濡烏は、しばらく黙っていた。
百鬼夜行の列は静かに流れている。
提灯小僧の火は遠くで揺れ、のっぺらぼうの輪郭は薄く溶け、影法師は足元の夜に紛れ、片車輪の乾いた軋みがまだどこかに残っている。
その上を、逆さ首の黒い髪だけが、別の流れみたいに揺れていた。
「男だとも、女だとも言う」
やがて、濡烏が言う。
「やはり伝わり方はいくつもある。だが、どれでもよい。
大事なのは、こいつが長く“上に置くもの”を取り違えていたということだ」
俺は、黙って聞いた。
逆さ首は、なおもこちらを見ているのか、見ていないのか分からない。
なのに、その“向きの狂い”だけが、じわじわと俺の身体へ入り込んでくる。
「頭を下げるべきところで、顎を上げた。
見上げるべきものを足元へ置き、踏んではならぬものを踏み台にした。
大事なものと要るものを、長く逆にした」
濡烏の声は平らだった。
「損得を先に上へ置き、恥を下へ沈めた。
保つべきものを削り、捨てるべきものを抱えた。
そうしているうちに、世界の上下が内側で本当に入れ替わった」
その言葉が、妙に重く響く。
「……そんなことで、こうなるのか」
「そんなこと、ではない」
濡烏の声は冷たい。
「人は、何を上に置くかで向きが決まる。
それを長く誤れば、最後には景色そのものが逆になる」
頭の奥に、映像が差し込まれた。
暗い座敷。
帳場かもしれない。
店かもしれない。
人の出入りがある場所だ。
そこにひとりの影がいる。
顔は、はっきりしない。
男にも女にも見える。
ただ、その人物が、何かを見下ろしていることだけは分かる。
帳面。
金。
印。
差し出された紙。
頭を下げる相手。
泣きそうな声。
困りきった表情。
それら全部に囲まれながら、その人物はずっと、何か別のものを上に置いていた。
助けより得。
痛みより都合。
恥より保身。
祈りより勘定。
最初からそうだったわけじゃない。
けれど、少しずつ、少しずつ、上と下を入れ替えていった。
今日はこれくらい。
今だけは。
仕方がない。
そうやって、毎日ほんの少しずつ。
「最後には、自分だけが正しい向きだと思っていた」
濡烏が言う。
「周りが間違って見えた。
頭を垂れる者が愚かに見え、恥じる者が弱く見えた。
そうして、逆にしたまま死んだ」
逆さ首の髪が、ふいに大きく揺れた。
風はない。
なのに、その揺れだけで、俺の視界の上下が一瞬だけ曖昧になる。
提灯の火が上に流れた気がした。
路面のひびが天井の裂け目みたいに見えた。
胃が浮く。
足の裏が冷える。
どこが地面で、どこが空なのか、ほんの一瞬だけ信じられなくなった。
「……っ」
膝が揺れる。
濡烏が言う。
「踏ん張れ。こいつは、向きを問う」
次の瞬間、声がした。
のっぺらぼうみたいに顔の裏へ落ちるわけでもない。
野狐みたいに自分の考えに紛れるわけでもない。
もっと不快だった。
耳で聞いているはずなのに、上下が合わない。
頭の上から響く声が、足元からも同時に滲んでくる。
『おまえは』
ぞっとするほど静かな声だった。
高くも低くもない。
人の声なのに、人の口から出ている感じがしない。
『何を、上にした』
その一言で、胸の奥が強く縮んだ。
何を、上にした。
提灯小僧は、帰れなさを照らした。
のっぺらぼうは、どの顔で、と問うた。
影法師は、どこに立っていた、と問うた。
片車輪は、どこで止まれた、と問うた。
野狐は、何に化けて何を餌にした、と問うた。
逆さ首は違う。
もっと単純で、もっと根元だ。
何を、上にした。
答えようとして、息が詰まる。
金。
保身。
今をやり過ごすこと。
捕まらないこと。
都合のいい言い訳。
そういうものが、次々と浮かぶ。
でも、どれもそれだけじゃない。
俺はいつも、それらを“仕方のないこと”とか“今だけ”とか“まだ大丈夫”とか呼び直して、上に置いてきた。
「……俺は」
声が震える。
逆さ首の顔は、やはり何も定まらない。
それなのに、その逆さの輪郭だけが、俺の答えをじっと待っている。
「俺は、自分の都合を上に置いた」
言葉が出た瞬間、吐き気に似たものが込み上げる。
「人より。痛みより。止まるべきところより。たぶん、ずっと」
逆さ首の髪が、また揺れた。
違う、とでも言うのかと思った。
けれど声は、すぐには来ない。
その沈黙のあいだに、俺の内側で別の気づきがゆっくり形になる。
都合を上に置いた。
でも、それだけじゃない。
俺は、その上下を自分の中で何度も言い換えていた。
都合を現実と呼び、保身を仕方なさと呼び、欲を機会と呼んだ。
そうやって、下に置くべきものを上へ置き直し、上にあるべきものを見えないところへ沈めた。
「……違う」
思わず、もう一度口にする。
「都合だけじゃない。
俺は、上下が入れ替わってるのを知ってたのに、見ないふりしてた」
その瞬間、逆さ首の輪郭が、わずかに近くなった。
近づいた、というより。
向きだけがこちらへ合った気がした。
ほんの一瞬だけ、逆さの顔の意味がこちらへ繋がる。
『知っていたなら』
声が落ちる。
『なぜ、そのままにした』
喉が詰まる。
なぜ。
なぜそのまま放置したのか。
なぜ、上下が逆だと分かっていて、その景色の中に居続けた。
答えは分かっている。
楽だったからだ。
その方が今を繋げたからだ。
その方が、立ち止まって崩れるよりはましだと思ったからだ。
自分だけはまだ引き返せると、勝手に思っていたからだ。
「……戻れると思ってた」
ようやく言う。
「いつでも戻せるって。
あとからちゃんとできるって。
だから、逆だって分かっても、そのままにしていた」
逆さ首の輪郭が、しばらく動かなくなる。
見られている。
でも、それは糾弾ではない。
もっと不気味な静けさだ。
俺の答えが“正しいかどうか”ではなく、“どこまで自分で引き受けているか”だけを測っているようだった。
濡烏が言う。
「こいつは、善悪より先に向きを見る。
罪を裁くのではない。
お前の内で、何がどちらへ置かれているかを知る」
「最悪だな」
口の中が乾いている。
声もひどく小さい。
濡烏は答える。
「お前にとってはな」
逆さ首の髪が、ゆっくりと解けるように揺れた。
そのたびに、俺の身体の上下がまた少し曖昧になる。
だが、さっきよりはましだった。
完全に呑まれてはいない。
俺はまだ、足の裏で地面を探している。
まだ、上と下を取り戻そうとしている。
『なら』
声がした。
『まだ、落ちきらぬ』
その言葉とともに、胃の浮く感じがほんの少しだけ薄れた。
逆さ首は、それ以上何も言わない。
ただ、髪を垂らし、逆さのまま、しばらくこちらを見ていた。
あるいは、見ていなかったのかもしれない。
あの顔に“見ている”という向きを与えること自体、たぶんこちらの思い込みなのだろう。
やがて、逆さ首はゆっくりと上へ遠ざかった。
夜の高いところへ、向きを崩さないまま戻っていく。
提灯の灯りより高く。
電線と夜のあいだへ。
髪だけが最後まで遅れて揺れ、そしてそれも闇へ溶ける。
俺は、その場で深く息を吐いた。
肺に入ってくる空気まで、さっきより少しだけ正しい向きに戻った気がする。
足の裏はまだ頼りない。
頭も少し重い。
だが、完全に上下を失ったわけではない。
濡烏は短く言う。
「逆さ首は、答えよりも向きを見る。
お前が何を上に置き、何を下へ沈めたか。
それだけで足りる」
「どいつもこいつも、ほんとに容赦がないな」
「夜の列だ」
濡烏の返しはいつも通りだった。
だが、その平たさが、今は妙にありがたかった。
列は、なおも静かに流れている。
提灯小僧の火が、遠くで小さく揺れる。
のっぺらぼうの顔のない輪郭は、もう他の影と見分けがつかない。
影法師は足元の闇に紛れ、片車輪は赤黒い軋みを繰り返し、野狐の眼はどこかでまだ湿っている気がした。
そして逆さ首は、高い夜のどこかで、もう見えない向きのまま揺れている。
提灯小僧は、帰れなさを照らした。
のっぺらぼうは、見せる顔を問うた。
影法師は、立つ場所を問うた。
片車輪は、止まれた場所を問うた。
野狐は、何に化けて何を餌にしたのかを問うた。
逆さ首は、何を上に置いたのかを問うた。
どれも違う。
けれど、どれも俺の中にある同じ暗さへ、違う角度から手を入れてくる。
俺は、まだそこに立っていた。
逃げていないわけじゃない。
悟ったわけでもない。
ただ、まだ倒れずにいる。
それだけだった。
「……もう少しだけ、立てる」
自分に言うみたいに呟くと、濡烏は何も返さなかった。
百鬼夜行は、目の前を静かに流れ続けている。
灯りも、影も、異形も、誰ひとり急がず、誰ひとり立ち止まらない。
その流れの端で、俺は喉の奥に乾いた息を抱えたまま、しばらく動けなかった。
夜は、もうすっかり深くなっていた。




