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 灯りをかすめる、しなやかな影が揺れた。

 最初に見えたのは尾だった。

 細い。

 長い。

 けれど獣の尾というには、しなり方が静かすぎる。

 毛の一本一本が風を受けているのではなく、夜そのものが柔らかく形を取って、尾のように揺れているように見えた。

 そのあとで、眼が見えた。

 提灯の火を受けて、濡れたように光る。

 狐の眼だ。

 なのに、ただの獣の光り方じゃない。

 獣ならもっと真っ直ぐにこちらを値踏みするだろう。

 あれは違った。

 もう少し遅い。

 もう少し知っている。

 人が、口に出さずに隠したつもりのものを、先に嗅ぎ当てている眼だった。


 野狐が、列の縁からするりと外れる。

 四つ足で歩いているはずなのに、歩幅が人のそれに近い。

 音がない。

 爪も鳴らない。

 ただ、灯りの筋と灯りの筋のあいだを選ぶように進んでくる。

 片車輪の痛みがまだ肩のどこかに残っているせいか、その優雅さが余計に不気味だった。

「……これも、来るのか」

 濡烏はすぐに答えた。

「こいつは寄る」

 低い声だった。

「立つのでも、測るのでもない。

 寄って、匂いを知る」

 野狐は、俺の数歩手前で立ち止まった。

 狐に見える。

 けれど、その輪郭のどこかが、人の女の裾みたいにも見える。

 肩のあたりの毛並みが、濡れた黒髪に見える瞬間がある。

 耳の先が揺れるたび、簪の影みたいなものが一瞬だけ光る。

 化けているのではない。

 化けることに馴れすぎて、どこまでが本来の形なのか本人にも曖昧になっているようだった。

 野狐は、何も言わない。

 ただ、こちらを見ている。

 いや、見ているというより、嗅いでいる。

 鼻先はほとんど動かない。

 けれど、俺の周りの空気から何かを選り分けている感じだけがある。

 罪悪感か。

 恐怖か。

 後悔か。

 あるいは、そのもっと奥にまだ残っている、卑しいものか。


「野狐だ」

 濡烏が言う。

「人を化かしたものと思うな。

 人と欲のあいだを歩きすぎて、とうとうどちらにも戻れなくなったものだ」

 さっきも聞いた言葉だ。

 けれど、目の前にそれが来た今、重みが違う。

「……“人を化かしたものと思うな”って、どういう意味だよ」

 濡烏は、野狐から目を離さない。

「化かすだけなら、ただの獣でもする。

 食うために騙す。

 逃げるために欺く。

 それだけなら浅い。

 こいつが厄介なのは、人の欲がどんな顔を欲しがるかを知ってしまったことだ」

 野狐の眼が、わずかに細くなった。

 笑ったように見える。

 でも、それは口元で笑うのとは違う。

 もっと古くて、もっと乾いた笑いだ。


 その瞬間、頭の奥に、また映像が差し込まれた。

 山の端に小さな社。

 古びた鳥居。

 風に鳴る紙垂。

 夕方。

 人里の端。

 畑と林の境目。

 そこへ、痩せた狐が現れる。

 最初はただの獣だ。

 飢えて、細くて、人の残した飯を狙うだけの。

 だが、いつからかそれは知る。

 人は、神の気配を欲しがる。

 都合のよい徴を欲しがる。

 誰かに「これでよい」と言ってほしがる。

 豊作の前触れ。

 無事の兆し。

 戻ってくる人間の知らせ。

 病が軽くなるという符。

 そういうものを欲しがる。


 狐は、最初は偶然そこにいた。

 偶然、社の前で鳴いた。

 偶然、供え物に口をつけた。

 偶然、誰かの祈りのあとに姿を見せた。

 それだけで、人間は勝手に意味をつけた。

「……神の使いのようなものに、されたのか」

 俺が小さく言うと、濡烏はほんの少しだけ顎を引いた。

「された。

 だが、こいつはそれを拒まなかった」

 野狐の尾が、細く一度だけ揺れる。

「むしろ、覚えた」

 濡烏が続ける。

「人がどんなしぐさに救いを見るのか。

 どんな沈黙に“意味”を読み込むのか。

 どんな偶然に“自分への答え”を見つけるのか。

 それを覚えた」

 映像の中で、狐は少しずつ変わっていく。

 ただの獣の偶然だったものが、やがて意図になる。

 社の前で姿を見せる時刻を選ぶ。

 願をかけた者の前だけに尾を見せる。

 病人の家の塀の上に座る。

 遠くへ行った息子の帰りを待つ母親の前を横切る。

 何も言わない。

 何もしない。

 ただ、欲しい者の前へ、欲しい形で現れる。

 すると人は、自分で自分を信じた。

「……それで、供え物をもらったのか」

 濡烏は淡々と答える。

「油揚げも、米も、酒も、言葉もだ」

「言葉?」

「礼だ。

 祈りだ。

 感謝だ。

 “信じている”という眼だ」

 その一言に、胸の奥がざらりとする。

 信じているという眼。

 俺も、それを食っていたのかもしれないと思った。

 金だけじゃない。

 相手がこちらを信じる、その一瞬を、自分の足場にしていた。

 野狐は、今もまだ何も言わない。

 ただ、その眼でこちらを見ている。

 その沈黙の中に、ひとつの問いがあるのが分かった。

 のっぺらぼうの問いは、どの顔で、だった。

 影法師の問いは、どこへ立っていた、だった。

 片車輪は、どこで止まれた、だった。

 なら、こいつは何を訊く。

 分かる前に、野狐の姿が少し揺れた。

 狐のまま、ではない。

 ほんの一瞬だけ、人の輪郭がそこに重なる。

 若い女のようにも見える。

 痩せた男にも見える。

 年寄りにも、子どもにも見える。

 見る側が“そうあってほしい”と一瞬思った形へ、すぐ寄る。

 だが定着しない。

 次の瞬間にはもう、狐の細い顎と尾だけが残る。


「……うわ」

 思わず声が漏れる。

 濡烏が言った。

「見るな、とは言わぬ。

 だが、“見たいもの”を見るな」

「無茶言うなよ」

「こいつの前では、それがもっとも危うい」

 野狐の眼がまた細くなる。

 笑っているようだった。

 たぶん、こちらの反応そのものを見ている。

「昔、飢えた冬があった」

 濡烏の声が落ちる。

「社は荒れ、人は減り、供え物も絶えた。

 そのときこいつは、初めて“姿を変えて”人里へ入った」


 頭の奥の映像が、また変わる。


 雪。

 薄暗い夕方。

 ひとりの女が門口に立っている。

 旅装束のようにも見える。

 細い身体。

 冷えた手。

 目元だけが妙に潤んでいる。

 戸を開けた老婆が、その姿を見て息を呑む。

 帰らぬ娘に、少し似ていたのだ。

「こいつは知ってしまった」

 濡烏が言う。

「人は、欲しい顔を目の前に差し出されると、半ば自分から騙されにいく」

 その言葉が、鋭く刺さる。


 野狐は、老人の家へ入った。

 一晩だけ泊めてもらうつもりだったのかもしれない。

 最初はただ、温かい汁と眠る場所が欲しかっただけなのかもしれない。

 けれど、人が向けてくる眼差しが変えた。

 帰ってきてほしかった者を見る眼。

 まだ間に合うと信じたい眼。

 いなくなったものが戻るかもしれないと願う眼。

 その眼を浴びるうち、狐は“そう見えること”をやめられなくなった。

「こいつは、人を哀れんだわけではない」

 濡烏の声は冷たい。

「だが、見抜いた。

 人は、真実よりも“そうであってほしい形”へ深く頭を垂れる」

「……最悪だな」

 俺が吐き捨てると、濡烏はわずかに首を傾ける。

「お前にだけは言われたくあるまい」

 何も返せなかった。

 野狐は、なおも俺の前にいる。

 眼だけが濡れている。

 その濡れ方が嫌だった。

 感情の涙に見える瞬間がある。

 だがそれは、感情のふりをした“よく見える湿り”にすぎないのかもしれない。

 そのとき、声がした。

 片車輪みたいに軋みの中へ意味が落ちるのとも違う。

 のっぺらぼうみたいに顔の裏へ直接くるのとも違う。

 もっと柔らかい。

 もっと自然だ。

 あたかも自分の頭の中で、自分が考えた言葉みたいな顔をして入り込んでくる。

『おまえは』

 その声は、若い女にも、年老いた男にも聞こえる。

『何を餌にした』

 息が詰まった。

 餌。

 その言い方が、あまりにも正確だった。

 金じゃない。

 金は結果だ。

 俺が本当に食っていたものは、その手前にあった。

 不安。

 焦り。

 貧しさ。

 すぐに楽になりたい気持ち。

 失いたくない気持ち。

 増やしたい気持ち。

 そして何より――

 “信じたい”という欲。

「……俺は」

 喉が鳴る。

 うまく出ない。

「俺は、金を取った。

 でも、金そのものより先に……」

 野狐の眼が、静かに細まる。

 分かっているなら言え、とでもいうように。

「……信じたかった気持ちを食った」

 言い終えた瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。

 野狐は、笑った。

 いや、口元はたぶん動いていない。

 でも、眼の湿り方だけが変わる。

 人が“分かってもらえた”ときにする顔に似ている。

 それがたまらなく嫌だった。

「そうだ」

 濡烏が言う。

「こいつは、人の欲に寄って生きた。

 お前は、人の信じたがる隙へ寄って生きた。

 違いはある。

 だが、重なる匂いもある」

 野狐が一歩だけ近づく。

 狐のままだ。

 なのに、近づいたその一歩の中に、人が身を寄せるときの距離感がある。

 すっと懐へ入る。

 それでいて、牙は見せない。

 見せないまま、相手に“自分で近づいた”と思わせる間合い。

 怖い。

 けれど、どこか引かれる。

 その引かれ方が、いちばん危ないのだと直感で分かる。

「こいつは、騙しただけでは列へ来ぬ」

 濡烏の声が落ちる。

「最後に、自分もまた騙された」

「何に」

「“求められる形でいること”にだ」

 その言葉は、ひどく静かだった。

「人の欲の前で都合よく現れるうち、こいつは自分でも、その形の方が本当だと思い始めた。

 神使のふり。

 帰ってきた娘のふり。

 都合のよい兆しのふり。

 そうして、最後には狐であることも、人のふりであることも、どちらも定まらなくなった」


 野狐の輪郭が、またふっと揺れる。

 一瞬だけ、雪の中で戸口に立つ女に見えた。

 次の瞬間には、社の前で供え物を食む痩せ狐に戻る。

 そのどちらも本当で、そのどちらも偽物みたいだった。

「……それで、列に入ったのか」

「人の欲のそばにいすぎたものは、最後には人の世の内にも外にも居場所を失う」

 濡烏は言う。

「神でもない。人でもない。

 ただ、“そう見えてほしい何か”として残る。

 それがこいつだ」

 野狐の眼が、じっとこちらを見る。

 責めていない。

 慰めてもいない。

 ただ、同族を見るみたいな静かな嫌さがあった。

『おまえは』

 また、あの柔らかい声が落ちる。

『誰の望みに化けた』

 今度の問いは、さっきより深く刺さった。

 誰の望みに化けた。

 儲けたい人間の前では、儲かる未来に。

 不安な人間の前では、安心できる情報に。

 焦っている人間の前では、今すぐ間に合う手段に。

 困っている人間の前では、助けになる側に。

 俺は、自分で何かを言ったつもりだった。

 でも本当は違う。

 相手の欲しがる言葉の輪郭を借りていただけだった。

「……全部だよ」

 搾り出すみたいに言う。

「相手が欲しがるものに、そのたびに少しずつ化けてた」

 野狐の尾が、ゆるく一度だけ揺れる。

 受け取られた、と思った。

「なら、お前はもう半ば知っている」

 濡烏が言う。

「騙しは、押しつけるだけでは成り立たぬ。

 相手が自分から差し出す“信じたい形”を、先に舐め取るのだ」

「……言い方が最悪だな」

「事実だ」

 冷たい。

 だが、その通りだった。

 俺は、無理やり信じさせただけじゃない。

 相手が信じたいものを差し出した瞬間、それを都合よく組み直して返した。

「だが、勘違いするな」

 濡烏の声が少しだけ硬くなる。

「相手が騙されたがったからといって、お前の罪が薄れるわけではない。野狐もまた、それで列に落ちた」

 その一言に、変な安心が喉元で潰れた。

 ここで“向こうも信じたかったんだ”なんて方向へ逃げたら、野狐の湿った眼と同じところへ落ちる。

 都合のいい理屈へ、自分で自分を化かすことになる。

「……分かってる」

 小さく言う。

「たぶん、俺が一番食ってたのは、相手の欲じゃなくて、自分の言い訳だった」

 野狐の眼の光が、そこでほんのわずかに変わった。

 笑いが消えたようにも見える。

 あるいは、少しだけ本来の獣へ戻ったのかもしれない。

 濡烏が静かに言う。

「なら、まだ深くは寄られぬ」

 野狐はその場で、ゆっくりと首を傾げた。

 人の仕草に見える。

 だが、あれは人の同情じゃない。

 もっと薄くて、もっと古い“見届ける”だけの動きだ。

「……こいつも、また来るのか」

「来る」

 濡烏は即答した。

「お前がまた、自分に都合のよい物語へ逃げようとするとき。

 “信じたいもの”の方へ寄りたくなるとき。

 そのときこいつは近い」

 野狐が、そこでようやく踵を返した。


 狐の背は小さい。

 だが列の中へ戻っていくと、不思議とどの妖よりも“人の世の匂い”を引きずって見える。

 提灯の灯りをかすめ、のっぺらぼうの輪郭のそばを通り、影法師の足元の闇をまたぎ、片車輪の赤黒い軋みの向こうへ消えていく。

 その途中、一瞬だけ振り返った気がした。

 いや、本当に振り返ったのかどうかは分からない。

 でも、見透かされた感じだけが残る。

「……最悪だ」

 思わず吐いた。

「どいつもこいつも、嫌なところばっかり触ってくる」

 濡烏は、わずかに肩を動かした。

「だから列なのだ」

 あまりにも身も蓋もなくて、少しだけ笑いそうになる。

 けれど、少しも笑えなかった。

 足元は、まだ影法師の余韻が残っている。

 肩には、片車輪の傾きが少しだけ残っている。

 胸の奥には、提灯小僧の灯りの残像がある。

 そこへ今、野狐の湿った眼が加わった。


 提灯小僧は、帰れなさを照らした。

 のっぺらぼうは、見せる顔を問うた。

 影法師は、立つ場所を問うた。

 片車輪は、止まれた場所を問うた。

 野狐は、何に化けて何を餌にしたのかを問うた。

 どれも違う。

 だが、どれも俺の罪の輪郭を別の方向からなぞっていく。

「まだ立っていられるか」

 濡烏が言う。

「...........まだ...........大丈夫だ」

「なら、次だ」

 短い声だった。

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