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 赤黒い輪が、ほんのわずかに深く光った。

 さっきまでは、列の奥にいるだけだった。

 提灯の灯りのあいだを、乾いた軋みだけが行き来していた。

 けれど、今は違う。

 その音が、こちらへ真っ直ぐ近づいてくる。

 高いわけじゃない。

 大きいわけでもない。

 なのに、耳へは入らず、骨の継ぎ目へ直接こすれてくるみたいな音だった。

 古い車輪が、軸の上で無理やり回るときの音に似ている。

 けれど、ただの木でも鉄でもない。

 もっと生々しい。

 痛みそのものが、擦れて鳴っているような音だった。


 片車輪が、列から滲み出る。

 輪は、ひとつしかない。

 当たり前のことなのに、その“ひとつしかない”という欠け方が、見ているだけで身体を斜めにする。

 火に焼かれたみたいな赤黒い輪。

 だが燃えてはいない。

 炎は上がらない。

 煙も出ない。

 それでも、燃えたあとの熱だけが、まだ離れきらずに残っている色だった。

 輪の上に何かが乗っているのか、輪そのものが生きているのか、すぐには分からない。

 見ようとするたび、形が軋む。

 車輪の上に、焼け焦げた布のようなものが垂れている。

 いや、髪にも見える。

 次の瞬間には、袖のようにも見える。

 定まらない。

 だが、その定まらなさごと、片車輪は確かな重みを持って進んでいた。


 きい、と。

 きい、と。

 その度に、俺の肩の高さがどちらかへ傾く気がした。

 片側だけが重い。

 片側だけが熱い。

 身体の左右のつり合いが、少しずつ狂っていく。

「……これ、やばいだろ」

 自分でも情けない声だった。

 濡烏は、すぐに答えない。

 ただ、黒い背をわずかにこちらへ傾ける。

 庇うわけではない。

 見届けるための位置を取っただけだ。


 片車輪は、俺の正面まで来て止まった。

 止まった、と思った。

 だが、実際には止まっていない。

 輪は、ほんのわずかに、絶えず回っている。

 前に進むためではない。

 ただ、その一瞬から抜け出せないまま、回ることだけを続けている。

「片車輪だ」

 濡烏が言う。

 低い声が、軋みのあいだへ差し込まれる。

「止まれなかったもの。

 痛みの一瞬に縫い留められ、そのまま夜へ残ったものだ」

 片車輪の輪郭が、提灯の火をかすめて一瞬だけ濃くなる。

 その濃くなった瞬間、俺は“見てしまった”。


 輪の外側に、指がかかっている。

 焦げたように細い指。

 いや、ほんとうに指なのかは分からない。

 だが、何かがその車輪にしがみついている。

 押しているのか、吊られているのか、離れられないのか、判別がつかない。

「……人、だったのか」

 濡烏は目を離さずに答える。

「女だった」

 短かった。

「ある町に、荷を引く女がいた。

 商いのためではない。

 病んだ子を乗せて、医者へ運ぶための荷車だった」

 片車輪の軋みが、ひとつだけ高く鳴る。

「雨の夜だったとも、火事の夜だったとも言う。

 伝わり方はいくつかある。

 だが、どの話でも変わらぬのは、女が“止まれなかった”ということだ」

 俺は黙って聞いた。

 片車輪は、なおもそこにいる。

 熱はない。

 なのに、片側の頬だけがひりつく。

 身体の中心が、じわじわと傾いていく。

「坂で、片方の輪が壊れた」

 濡烏の声は平らだった。

「その先に医者がいたとも、橋があったとも、町の外れがあったとも言う。

 どのみち、止まれば終わりだった。

 子は熱にうなされ、息は細く、女はそれを知っていた。

 知っていてなお、止まれなかった」


 頭の奥に、映像が走る。

 雨か、火の粉か分からないものが暗い夜に降っている。

 片輪を失った荷車が斜めに沈む。

 濡れた土。

 泥。

 息の荒い女。

 布に包まれた、小さな身体。

 片方の輪が壊れたせいで、荷車はまっすぐ進まない。

 それでも、女は押す。

 押して、ずるずる引きずって、片輪だけを回して進む。

 きい。

 きい。

 その音だ。

 今、目の前で鳴っている音と同じだった。

「誰も手を貸さなかった」

 濡烏が言う。

「あるいは、貸せなかった。

 火から逃げる者、戸を閉める者、見て見ぬふりをする者。

 どれでもよい。

 女にとっては同じだ。

 世界の誰も止めず、誰も助けず、ただ“進め”だけが残った」

 片車輪の輪が、わずかに傾く。

 その動きだけで、ひどく苦しそうに見える。

 まっすぐではいられない。

 片側にばかり重みが寄って、進むたびに自分を削る。

 それでも止まらない。

 止まれない。

「……子どもは」

 気づけば、訊いていた。

 濡烏は、ほんの少しだけ間を置いた。

「途中で、もう声を出さなくなった」

 その一言が、胸の真ん中へ冷たく入った。

「女はそれを知った。

 知ったが、手を離せなかった。

 止まってしまえば、“もう間に合わない”と認めることになる。

 だから片輪だけになっても押した。

 押して、押して、押しつづけた」

 片車輪の内側で、暗がりが一瞬だけ濃く渦を巻いた。

 俺にはそれが、泣き声の代わりみたいに思えた。

「着いたときには、もう遅かった」

 濡烏が言う。

「遅かった、というよりも、とっくに終わっていた。

 だが女は、その“とっくに”を受け取れなかった。

 ゆえに、終わったはずの痛みだけが夜に残った」

 生き方が、そのまま妖になる。

 さっき、影法師を見てそう思った。

 それなら、この片車輪は、止まれなかった痛みがそのまま形になったものだ。

「だから、回る」

 濡烏の声は低い。

「進むためではない。

 止まれなかった一瞬を、何度でも繰り返すためにだ」

 片車輪が、ふいに俺の方へ傾いた。

 踏み込んでくるわけじゃない。

 でも、その傾きだけで、俺の身体まで片側へ引かれる。

 右肩が重い。

 左足が頼りない。

 身体の真ん中がずれて、立っていることそのものが苦しくなる。

「……っ」

 息が漏れる。


 片車輪は、のっぺらぼうみたいに問わない。

 影法師みたいに足元を測るのとも少し違う。

 ただ、その痛みの傾きをこちらへ移してくる。

 そしてそのとき、声とも言えないものが落ちた。

 ぎし、と。

 きい、と。

 木と骨のあいだみたいな音の中に、意味だけが混ざる。

 ――おまえは、どこで止まれた。

 喉が凍る。

 どこで止まれた。

 影法師は、どこへ立っていたかを訊いた。

 片車輪は違う。

 どこで止まれたかを訊く。

 俺は、何度止まれただろう。

 最初の一件。

 その時点でやめられた。

 問い合わせが来た夜。

 止まれた。

 赤い帯の警告文が出たとき。

 止まれた。

 眠れなくなった夜。

 家の朝が痛かった朝。

 歩道橋の上で、手すりから指を離した瞬間でさえ、まだ止まれたのかもしれない。

 なのに、止まらなかった。

「……俺は」

 声が出ない。

 片側の胸ばかり痛い。

 片側の肩ばかり重い。

 傾いた荷車を押しているみたいに、身体がまっすぐでいられない。

「俺は、止まれたところが何度もあった」

 ようやく言う。

「でも、そのたびに先送りにした。

 まだいけるって。

 まだ間に合うって。

 まだ取り返せるって」

 片車輪の軋みが、ひとつだけ低く鳴る。

 濡烏が言った。

「そうだ。

 こいつが触れるのは、“止まれたはずの場所”だ」

 黒い背は揺れない。

「痛みが来たときに止まれたか。

 違和感が来たときに止まれたか。

 手を離すべきときに離せたか。

 片車輪は、それを見る」

 見る、というより。

 体験させる、に近い。

 俺の身体は、まだ傾いている。

 片側だけがきしむ。

 まっすぐ立とうとするほど、どちらかが削られる。

「……嫌だ」

 反射みたいにそう言った。

「何がだ」

 濡烏の声は冷たい。

「分かってたのに止まらなかったって、認めるのが」

 片車輪は何も言わない。

 だが、その赤黒い輪の内側に、女の腕の残り滓みたいなものが一瞬だけ見えた気がした。

 細い。

 疲れきっている。

 それでも手を離せない。

 その手は、哀れだった。

 でも、俺の手とは違う。

 あの女は、救いたくて止まれなかった。

 俺は、傷つけていると分かっていながら止まらなかった。

 同じ“止まれなかった”でも、こんなにも重さが違う。

 その違いが、胸へ刺さる。

「片車輪は、痛みに善悪をつけぬ」

 濡烏が言う。

「救いそこねた痛みも、傷つけながら止まれなかった痛みも、

 “止まれなかった”という一点で測る」

「……最悪だな」

「だが、お前には効くだろう」

 容赦がない。

 でも、その通りだった。


 片車輪が、またわずかに近づいた。

 今度は、輪の中心が暗く覗いた。

 そこは、穴ではない。

 空洞でもない。

 何かをずっと抱えたまま擦り減って、最後に“抱えていた形”だけが残ったみたいな空虚だった。

 俺は、その暗さに向かって低く言った。

「俺は、止まれなかったんじゃない。止まらなかったんだと思う」

 言った瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。

 自分を少しでも軽くするなら、“止まれなかった”の方が楽だ。

 でも違う。

 違うと、今はもう分かる。

 警告はあった。

 違和感もあった。

 罪悪感も恐怖も、ちゃんと来ていた。

 それでも、そのたびに先延ばしにして、自分の都合のいい方へ寄せた。

 止まれなかったんじゃない。

 止まらなかった。


 片車輪の軋みが、そこでふっと変わった。

 高くもなく、低くもない。

 けれど、少しだけ軽くなったように聞こえる。

 濡烏が静かに言う。

「受け取られたな」

「何が」

「お前の言葉がだ」

 片車輪は、まだ俺の前にいる。

 だがさっきまでみたいに、片側の身体を無理やり引いてはこない。

 痛みは残っている。

 肩の高さもまだ少しおかしい。

 それでも、あの傾いたまましか立てない感じは薄れていた。

「こいつはな」

 濡烏の目が、赤黒い輪へ向けられる。

「痛みそのものではない。

 止まれなかった痛みを、まだ自分のものとして言えるかどうかを見に来る」

「言えなかったら」

「より深く引く」

 冷たい答えだった。

「言い訳へ逃げる者。

 痛みを他人へ置く者。

 違和感を違和感のまま踏み潰した者。

 そういうものには、片車輪は近い」

 俺は唇を噛んだ。

 女の話が、胸の奥に残っている。

 片輪の荷車。

 死んだ子。

 止まれない母親。

 その痛みと、俺の止まらなさは、決して同じではない。同じにしてはいけない。

 同じじゃないのに、どこかで重なってしまう。

 そこが一番嫌だった。


 片車輪は、ゆっくりと俺から離れた。

 離れるというよりも、また列の流れへ傾いていく。

 赤黒い輪が、提灯の光をかすめ、影法師の薄い闇のそばを通り、百鬼夜行の一部へ戻っていく。

 戻るその背に、まだ痛みが残っている。

 いや、背ではないのか。

 もう身体と呼べるものはないのに、痛みだけがちゃんと姿勢を持っていた。

「……今のも、対話か」

「そうだ」

 濡烏は言う。

「片車輪は多く語らぬ。

 痛みは言葉になる前に身体へ入るからだ」

 俺は肩を回した。

 まだ少し片側が重い。

 でも、さっきのような“立っていられなさ”は薄れている。

「疲れた」

「まだ甘い」

 濡烏の返しは短い。

「こいつは、お前の“止まれたはずの場所”の入口をなぞっただけだ。

 深く来れば、もっと古い痛みに触る」

 それを聞いて、もう来るなと思う自分と、まだ終わっていないと分かる自分が同時にいた。


 片車輪の赤黒い輪は、列の中ほどでなおも静かに回っている。

 提灯小僧の火がその傍で揺れ、のっぺらぼうの輪郭は人の形をやめたまま流れ、影法師は足元の夜に溶けている。

 百鬼夜行は止まらない。

 ひとつの問いが終わっても、すぐ次の問いが来る。

 提灯小僧は、帰れなさを照らした。

 のっぺらぼうは、見せる顔を問うた。

 影法師は、立つ場所を問うた。

 片車輪は、止まれた場所を問うた。

 どれも違う。

 だが、どれも俺を逃がさない。

「まだ立っていられるか」

 濡烏が言う。

「……かなり嫌な気分だけど、まだ倒れない」

「なら、次だ」

 その一言とともに、列のどこかで細い尾が揺れた気がした。

 灯りをかすめる、しなやかな影。

 濡れたように光る眼。

 人のものに似た、あまりに知ったふうな沈黙。

 俺は喉の奥に残った乾きを押し込むように息を飲み、次に近づいてくる獣じみた気配の方を見た。

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