19
赤黒い輪が、ほんのわずかに深く光った。
さっきまでは、列の奥にいるだけだった。
提灯の灯りのあいだを、乾いた軋みだけが行き来していた。
けれど、今は違う。
その音が、こちらへ真っ直ぐ近づいてくる。
高いわけじゃない。
大きいわけでもない。
なのに、耳へは入らず、骨の継ぎ目へ直接こすれてくるみたいな音だった。
古い車輪が、軸の上で無理やり回るときの音に似ている。
けれど、ただの木でも鉄でもない。
もっと生々しい。
痛みそのものが、擦れて鳴っているような音だった。
片車輪が、列から滲み出る。
輪は、ひとつしかない。
当たり前のことなのに、その“ひとつしかない”という欠け方が、見ているだけで身体を斜めにする。
火に焼かれたみたいな赤黒い輪。
だが燃えてはいない。
炎は上がらない。
煙も出ない。
それでも、燃えたあとの熱だけが、まだ離れきらずに残っている色だった。
輪の上に何かが乗っているのか、輪そのものが生きているのか、すぐには分からない。
見ようとするたび、形が軋む。
車輪の上に、焼け焦げた布のようなものが垂れている。
いや、髪にも見える。
次の瞬間には、袖のようにも見える。
定まらない。
だが、その定まらなさごと、片車輪は確かな重みを持って進んでいた。
きい、と。
きい、と。
その度に、俺の肩の高さがどちらかへ傾く気がした。
片側だけが重い。
片側だけが熱い。
身体の左右のつり合いが、少しずつ狂っていく。
「……これ、やばいだろ」
自分でも情けない声だった。
濡烏は、すぐに答えない。
ただ、黒い背をわずかにこちらへ傾ける。
庇うわけではない。
見届けるための位置を取っただけだ。
片車輪は、俺の正面まで来て止まった。
止まった、と思った。
だが、実際には止まっていない。
輪は、ほんのわずかに、絶えず回っている。
前に進むためではない。
ただ、その一瞬から抜け出せないまま、回ることだけを続けている。
「片車輪だ」
濡烏が言う。
低い声が、軋みのあいだへ差し込まれる。
「止まれなかったもの。
痛みの一瞬に縫い留められ、そのまま夜へ残ったものだ」
片車輪の輪郭が、提灯の火をかすめて一瞬だけ濃くなる。
その濃くなった瞬間、俺は“見てしまった”。
輪の外側に、指がかかっている。
焦げたように細い指。
いや、ほんとうに指なのかは分からない。
だが、何かがその車輪にしがみついている。
押しているのか、吊られているのか、離れられないのか、判別がつかない。
「……人、だったのか」
濡烏は目を離さずに答える。
「女だった」
短かった。
「ある町に、荷を引く女がいた。
商いのためではない。
病んだ子を乗せて、医者へ運ぶための荷車だった」
片車輪の軋みが、ひとつだけ高く鳴る。
「雨の夜だったとも、火事の夜だったとも言う。
伝わり方はいくつかある。
だが、どの話でも変わらぬのは、女が“止まれなかった”ということだ」
俺は黙って聞いた。
片車輪は、なおもそこにいる。
熱はない。
なのに、片側の頬だけがひりつく。
身体の中心が、じわじわと傾いていく。
「坂で、片方の輪が壊れた」
濡烏の声は平らだった。
「その先に医者がいたとも、橋があったとも、町の外れがあったとも言う。
どのみち、止まれば終わりだった。
子は熱にうなされ、息は細く、女はそれを知っていた。
知っていてなお、止まれなかった」
頭の奥に、映像が走る。
雨か、火の粉か分からないものが暗い夜に降っている。
片輪を失った荷車が斜めに沈む。
濡れた土。
泥。
息の荒い女。
布に包まれた、小さな身体。
片方の輪が壊れたせいで、荷車はまっすぐ進まない。
それでも、女は押す。
押して、ずるずる引きずって、片輪だけを回して進む。
きい。
きい。
その音だ。
今、目の前で鳴っている音と同じだった。
「誰も手を貸さなかった」
濡烏が言う。
「あるいは、貸せなかった。
火から逃げる者、戸を閉める者、見て見ぬふりをする者。
どれでもよい。
女にとっては同じだ。
世界の誰も止めず、誰も助けず、ただ“進め”だけが残った」
片車輪の輪が、わずかに傾く。
その動きだけで、ひどく苦しそうに見える。
まっすぐではいられない。
片側にばかり重みが寄って、進むたびに自分を削る。
それでも止まらない。
止まれない。
「……子どもは」
気づけば、訊いていた。
濡烏は、ほんの少しだけ間を置いた。
「途中で、もう声を出さなくなった」
その一言が、胸の真ん中へ冷たく入った。
「女はそれを知った。
知ったが、手を離せなかった。
止まってしまえば、“もう間に合わない”と認めることになる。
だから片輪だけになっても押した。
押して、押して、押しつづけた」
片車輪の内側で、暗がりが一瞬だけ濃く渦を巻いた。
俺にはそれが、泣き声の代わりみたいに思えた。
「着いたときには、もう遅かった」
濡烏が言う。
「遅かった、というよりも、とっくに終わっていた。
だが女は、その“とっくに”を受け取れなかった。
ゆえに、終わったはずの痛みだけが夜に残った」
生き方が、そのまま妖になる。
さっき、影法師を見てそう思った。
それなら、この片車輪は、止まれなかった痛みがそのまま形になったものだ。
「だから、回る」
濡烏の声は低い。
「進むためではない。
止まれなかった一瞬を、何度でも繰り返すためにだ」
片車輪が、ふいに俺の方へ傾いた。
踏み込んでくるわけじゃない。
でも、その傾きだけで、俺の身体まで片側へ引かれる。
右肩が重い。
左足が頼りない。
身体の真ん中がずれて、立っていることそのものが苦しくなる。
「……っ」
息が漏れる。
片車輪は、のっぺらぼうみたいに問わない。
影法師みたいに足元を測るのとも少し違う。
ただ、その痛みの傾きをこちらへ移してくる。
そしてそのとき、声とも言えないものが落ちた。
ぎし、と。
きい、と。
木と骨のあいだみたいな音の中に、意味だけが混ざる。
――おまえは、どこで止まれた。
喉が凍る。
どこで止まれた。
影法師は、どこへ立っていたかを訊いた。
片車輪は違う。
どこで止まれたかを訊く。
俺は、何度止まれただろう。
最初の一件。
その時点でやめられた。
問い合わせが来た夜。
止まれた。
赤い帯の警告文が出たとき。
止まれた。
眠れなくなった夜。
家の朝が痛かった朝。
歩道橋の上で、手すりから指を離した瞬間でさえ、まだ止まれたのかもしれない。
なのに、止まらなかった。
「……俺は」
声が出ない。
片側の胸ばかり痛い。
片側の肩ばかり重い。
傾いた荷車を押しているみたいに、身体がまっすぐでいられない。
「俺は、止まれたところが何度もあった」
ようやく言う。
「でも、そのたびに先送りにした。
まだいけるって。
まだ間に合うって。
まだ取り返せるって」
片車輪の軋みが、ひとつだけ低く鳴る。
濡烏が言った。
「そうだ。
こいつが触れるのは、“止まれたはずの場所”だ」
黒い背は揺れない。
「痛みが来たときに止まれたか。
違和感が来たときに止まれたか。
手を離すべきときに離せたか。
片車輪は、それを見る」
見る、というより。
体験させる、に近い。
俺の身体は、まだ傾いている。
片側だけがきしむ。
まっすぐ立とうとするほど、どちらかが削られる。
「……嫌だ」
反射みたいにそう言った。
「何がだ」
濡烏の声は冷たい。
「分かってたのに止まらなかったって、認めるのが」
片車輪は何も言わない。
だが、その赤黒い輪の内側に、女の腕の残り滓みたいなものが一瞬だけ見えた気がした。
細い。
疲れきっている。
それでも手を離せない。
その手は、哀れだった。
でも、俺の手とは違う。
あの女は、救いたくて止まれなかった。
俺は、傷つけていると分かっていながら止まらなかった。
同じ“止まれなかった”でも、こんなにも重さが違う。
その違いが、胸へ刺さる。
「片車輪は、痛みに善悪をつけぬ」
濡烏が言う。
「救いそこねた痛みも、傷つけながら止まれなかった痛みも、
“止まれなかった”という一点で測る」
「……最悪だな」
「だが、お前には効くだろう」
容赦がない。
でも、その通りだった。
片車輪が、またわずかに近づいた。
今度は、輪の中心が暗く覗いた。
そこは、穴ではない。
空洞でもない。
何かをずっと抱えたまま擦り減って、最後に“抱えていた形”だけが残ったみたいな空虚だった。
俺は、その暗さに向かって低く言った。
「俺は、止まれなかったんじゃない。止まらなかったんだと思う」
言った瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
自分を少しでも軽くするなら、“止まれなかった”の方が楽だ。
でも違う。
違うと、今はもう分かる。
警告はあった。
違和感もあった。
罪悪感も恐怖も、ちゃんと来ていた。
それでも、そのたびに先延ばしにして、自分の都合のいい方へ寄せた。
止まれなかったんじゃない。
止まらなかった。
片車輪の軋みが、そこでふっと変わった。
高くもなく、低くもない。
けれど、少しだけ軽くなったように聞こえる。
濡烏が静かに言う。
「受け取られたな」
「何が」
「お前の言葉がだ」
片車輪は、まだ俺の前にいる。
だがさっきまでみたいに、片側の身体を無理やり引いてはこない。
痛みは残っている。
肩の高さもまだ少しおかしい。
それでも、あの傾いたまましか立てない感じは薄れていた。
「こいつはな」
濡烏の目が、赤黒い輪へ向けられる。
「痛みそのものではない。
止まれなかった痛みを、まだ自分のものとして言えるかどうかを見に来る」
「言えなかったら」
「より深く引く」
冷たい答えだった。
「言い訳へ逃げる者。
痛みを他人へ置く者。
違和感を違和感のまま踏み潰した者。
そういうものには、片車輪は近い」
俺は唇を噛んだ。
女の話が、胸の奥に残っている。
片輪の荷車。
死んだ子。
止まれない母親。
その痛みと、俺の止まらなさは、決して同じではない。同じにしてはいけない。
同じじゃないのに、どこかで重なってしまう。
そこが一番嫌だった。
片車輪は、ゆっくりと俺から離れた。
離れるというよりも、また列の流れへ傾いていく。
赤黒い輪が、提灯の光をかすめ、影法師の薄い闇のそばを通り、百鬼夜行の一部へ戻っていく。
戻るその背に、まだ痛みが残っている。
いや、背ではないのか。
もう身体と呼べるものはないのに、痛みだけがちゃんと姿勢を持っていた。
「……今のも、対話か」
「そうだ」
濡烏は言う。
「片車輪は多く語らぬ。
痛みは言葉になる前に身体へ入るからだ」
俺は肩を回した。
まだ少し片側が重い。
でも、さっきのような“立っていられなさ”は薄れている。
「疲れた」
「まだ甘い」
濡烏の返しは短い。
「こいつは、お前の“止まれたはずの場所”の入口をなぞっただけだ。
深く来れば、もっと古い痛みに触る」
それを聞いて、もう来るなと思う自分と、まだ終わっていないと分かる自分が同時にいた。
片車輪の赤黒い輪は、列の中ほどでなおも静かに回っている。
提灯小僧の火がその傍で揺れ、のっぺらぼうの輪郭は人の形をやめたまま流れ、影法師は足元の夜に溶けている。
百鬼夜行は止まらない。
ひとつの問いが終わっても、すぐ次の問いが来る。
提灯小僧は、帰れなさを照らした。
のっぺらぼうは、見せる顔を問うた。
影法師は、立つ場所を問うた。
片車輪は、止まれた場所を問うた。
どれも違う。
だが、どれも俺を逃がさない。
「まだ立っていられるか」
濡烏が言う。
「……かなり嫌な気分だけど、まだ倒れない」
「なら、次だ」
その一言とともに、列のどこかで細い尾が揺れた気がした。
灯りをかすめる、しなやかな影。
濡れたように光る眼。
人のものに似た、あまりに知ったふうな沈黙。
俺は喉の奥に残った乾きを押し込むように息を飲み、次に近づいてくる獣じみた気配の方を見た。




