18
灯りの届く道の上に、もうひとつ別の夜が重なる。
最初は、影が濃くなっただけかと思った。
提灯小僧の灯りが揺れ、のっぺらぼうの輪郭が列へ戻っていく、そのあいだに路面へ落ちた闇が、わずかに沈んだだけだと。
しかし、違った。
影は、路面に貼りついていなかった。
黒い。
それなのに、平たくない。
踏めばただの暗がりに崩れそうなのに、見ていると、その内側にちゃんと厚みがある。
人の形にも見える。
だが、人の形だと決めた瞬間に、その輪郭が音もなくずれる。
肩だと思った線が腕になり、腕だと思った細さが裾みたいに長く伸びる。
定まらないのに、そこにいるとだけは分かる。
「……来る」
自分でも聞こえるかどうか分からない声だった。
濡烏は答えない。
けれど、黒い背がほんのわずかに低くなる。
身構えたのではない。
あれに対する濡烏なりの迎え方なのだろう。
影法師は、列から離れるというより、列の影そのものがひとつ剥がれて歩き出したように現れた。
提灯の光がその上を横切るたび、輪郭が一瞬だけ深くなる。
深くなるのに、近づいた気がしない。
遠いまま、足元へ来る。
遠近が壊れているわけじゃない。
ただ、“近づく”という現象だけが、そこでは少し違う仕方をしていた。
影法師は、音を立てなかった。
片車輪みたいな軋みもない。
提灯小僧みたいな灯りの揺れもない。
ただ、人の足元にあるはずのものだけが、自分で歩いてくる。
影法師は、俺の足元の少し手前で止まった。
止まった、と思った。
でも、よく見ると止まってはいない。
その輪郭の内側では、暗がりが絶えずゆっくり動いている。
水底の藻みたいに。
風のない夜に揺れる薄布みたいに。
静止の形をしているだけで、本当にはじっとしていない。
「影法師だ」
濡烏がようやく言う。
低い声が、足元の冷えへそのまま落ちる。
「己の形だけを長く後ろへ置いてきたもの。
自分の輪郭を、他人の歩みに合わせすぎたもの。
そういうものは、最後に重さを失う」
影法師は、俺の足元へ寄るでもなく、離れるでもなく、そのあいだにいる。
見ていると、俺の影とあいつの影の境目が、少しずつ曖昧になる気がした。
俺は、反射的に一歩退こうとした。
「退くな」
濡烏が言う。
その一言だけで、足が止まる。
「こいつの前で退けば、お前は自分の輪郭を先に譲る」
「譲るって……何を」
「“ここにいる”という重みをだ」
影法師は、顔がないわけじゃない。
最初から顔を持っていない。
だからのっぺらぼうよりも、逆に人の形の外側へ近い。
目も口もない。
なのに、見られている感覚だけがある。
正面から視線を向けられる感じじゃない。
もっと足元から這い上がってくるような見られ方だ。
「……何を見てる」
気づけば、そう訊いていた。
濡烏が答えるより先に、足元の闇がかすかに揺れた。
声、ではない。
のっぺらぼうのときみたいに、顔の裏へ落ちてくる言葉でもない。
もっと曖昧だ。
言葉の形になる手前のものが、胸骨の裏側に触れる。
――おまえは、どこへ立っていた。
聞こえたわけじゃない。
でも、たしかにそういう意味があった。
俺は眉をひそめる。
「……どこへって」
答えようとして、そこで言葉が詰まる。
どこへ立っていた。
家の中か。
大学か。
駅か。
画面の前か。
どれも違う気がした。
俺はいつも、“相手のいる場所”へ立っていたのかもしれない。
本当の意味で自分の足場に立ったことは、案外ほとんどなかったのかもしれない。
相手が安心を欲しがるなら、安心する側へ。
焦っているなら、落ち着いて導く側へ。
金が増える話を信じたいなら、詳しいふりをする側へ。
自分の場所じゃない。
そのたびに、相手の欲しがる床の上へ、薄い板みたいな自分を置いていただけだ。
「……分からない」
やっと声になる。
「たぶん、俺は、ちゃんと自分の場所に立ってなかった」
影法師の輪郭が、その一言に合わせるみたいに、わずかに深くなる。
濡烏が言う。
「こいつは、立つ場所を失ったものではない」
黒い背は、動かない。
でも、声だけがこちらと影法師のあいだへ差し込まれる。
「どこにでも立てたものだ。そして、どこにでも立てたゆえに、最後にはどこにも根を下ろせなかった」
その言い方は、嫌になるほど自分に近かった。
「……俺もそうだって言いたいのか」
「すでに半分そうだ」
濡烏は容赦なく言った。
「お前は、自分の足場を持たぬまま、相手の不安へ立って、相手の欲の上へ立って、相手の期待へ立っていた。
だから、落ちたあとも、どこにも戻れぬ」
その言葉に、胸の内側で小さく何かが軋んだ。
提灯小僧は、帰れなかった灯りだった。
のっぺらぼうは、見せるための顔を擦り切らせた。
そして影法師は――
立つべき場所を、あちこちへ分けすぎてしまったもの。
違う角度から、同じところへ刺してくる。
百鬼夜行に連なるものたちは、みんな俺を別々の仕方で見抜いていく。
影法師が、ふいに伸びた。
踏み込んできたわけじゃない。
でも、足元の輪郭だけがすっと長くなり、俺の影へ触れた気がした。
その瞬間、頭の奥に映像が走る。
薄暗い事務所のような場所。
いや、事務所というほど整ってはいない。
夕方の光が障子越しに白く差している。
畳か、板の間かも曖昧な部屋の隅で、ひとりの男が膝をついていた。
若くもなく、老いてもいない。
地味な着物。
癖のない髪。
人ごみに入れば二度と見分けがつかないような、薄い顔立ち。
帳面を持っている。
墨のついた指先が、何度も何度も同じ紙をめくっている。
誰かの後ろに立つ男だった。
商家の主の後ろ。
客の後ろ。
主人の息子の後ろ。
葬式の列の後ろ。
祝いの席の隅。
揉め事が起きれば頭を下げ、穏便に済めば下がり、誰かが怒れば代わりに怯え、誰かが泣けば気遣う顔を置く。
前へ出ることはない。
けれど、誰かの後ろにいることだけはひどく上手い。
「……誰だ」
思わず呟く。
影法師の輪郭がまた揺れる。
濡烏が、静かに言う。
「人であった頃の残り滓だろう」
その声は、平らだった。
だが、わずかに湿って聞こえたのは、夕のせいかもしれない。
「名は知らぬ。知る必要もない。
だが、こういうものだったと伝えている」
濡烏の目は、影法師から離れない。
「ある商家で働いていた男だ。
賢いわけではない。
強いわけでもない。
だが“都合よく後ろにいられる”という一点だけで、長く使われた」
俺は黙って聞いた。
影法師は、なおも俺の足元に触れるか触れないかのところで揺れている。
「主の機嫌が悪ければ、主の影になった。
息子が失敗すれば、その後始末の影になった。
客が苛立てば、下げる頭の影になった。
家の中の誰もが前へ出たがるぶんだけ、そいつは後ろにいた。
後ろにいて、角を丸くし、言いにくいことを運び、言われたくないことを受け止めた」
「……それの何が悪い」
口にしてから、自分でも少し驚く。
庇いたかったわけじゃない。
ただ、その“後ろにいる”のが、他人事にどうしても思えなかった。
濡烏が言う。
「悪いとは言っておらぬ」
「じゃあ」
「後ろに居続けるものは、やがて自分がどの向きで立っているかを失う」
その一言が、深く沈む。
「そいつは誰かの影であることに馴れすぎた。
誰かの言い分に合わせ、誰かの顔色を読み、誰かの都合のよい立ち位置へ身体を置きつづけた。
そうして、いざ己が何を望むのかと問われたとき、何も残っていなかった」
映像がまた揺れる。
帳面を持った男。
夕方の廊下。
障子越しの白い光。
呼ばれて振り向く、その途中の横顔。
そこにはまだ顔がある。
あるのに、どこか薄い。
誰の記憶にも強く残らない顔だ。
「最後は、家が傾いた」
濡烏の声が続く。
「主は先に逃げた。
息子は責を押しつけた。
帳面も、金も、口約束も、何もかも曖昧なまま崩れた。
そのとき、そいつは初めて前へ出された」
胸の奥がひやりとした。
「前へ?」
「そうだ。
誰かの後ろにいた者が、最後だけ矢面へ出た。
だが、もう遅い。
前に立つ者の声も、怒りも、恥も、持っておらぬ。
後ろで吸い取ってきたものばかりで、自分の重みが無かった」
俺は、目を逸らせない。
影法師は、何も語らない。
けれど、その輪郭の薄さだけで、その話の続きを知っている気がした。
「そいつは逃げたのか」
濡烏は、ほんの少し間を置いた。
「逃げたとも言える。
沈んだとも言える。
いずれにせよ、最後まで“自分が立つ場所”を持てなかった」
その答えは、やけに冷たかった。
だが、その冷たさこそが本当なのだと思えた。
劇的な破滅じゃない。
叫びも、復讐も、呪いもない。
ただ、自分の立ち位置を持てないまま、いつの間にか世界の光の側から零れていった。
「だから、影法師になった」
濡烏が言う。
「人であった頃から、すでに“影”として生きていた。
ゆえに、死んでからも影だけが残った」
その理屈は、恐ろしいほどよく分かった。
生き方が、そのまま妖になる。
死んで急に異形になるんじゃない。
生きているあいだに、少しずつ、少しずつ、もうそちら側へ寄っていたのだ。
影法師が、また俺の影へ触れる。
今度は、さっきよりはっきり分かった。
冷たくも熱くもない。
ただ、“立っている感じ”だけが足元から抜けかける。
その男も、そうだったのかもしれない。
最初は小さな違和感だった。
自分の足場が少し薄い。
でも、誰かの後ろにいれば困らない。
誰かの顔色に合わせていれば、とりあえず今日を終えられる。
そうして薄い違和感を毎日先送りにしていくうちに、最後には本当に、自分の重みそのものが消えていた。
「……嫌な話だな」
口からこぼれた。
濡烏は、何も慰めない。
「だからこそ、お前に近い」
容赦のない言葉だった。
「お前も、相手の欲に立ち、相手の不安に立ち、相手の信じたい場所へ立った。
自分の足場ではない。
だが、その場その場で、うまく立ててしまった」
その言葉が、骨の内側に沈む。
うまく立ててしまった。
その通りだった。
だから、続けられた。
だから、金が動いた。
だから、、やめられなかった。
「……俺は、あそこまで薄くない」
半分反発で言った。
だが、自分でもその声の弱さが分かる。
影法師は、俺の影のそばで揺れている。
責めない。
怒らない。
ただ、足元の重さだけを測っている。
「なら示せ」
濡烏が言う。
「どこへ立つのか。
何に重みを置くのか。
それをまだ選べるなら、お前は影になりきらぬ」
俺は唇を噛んだ。
何に重みを置く。
恥か。
後悔か。
恐れか。
贖罪か。
まだ答えにはならない。
けれど、答えを持たなければ、本当にあの影と地続きになっていく気がした。
「……俺は、まだ怖い」
低く言う。
「怖いし、恥ずかしいし、どこに立てばいいかも分からない。
でも、分からないまま誤魔化したくはない」
影法師の輪郭が、その言葉に合わせるみたいにわずかに薄くなった。
受け取られた、と思った。
濡烏が静かに言う。
「なら、まだ落ちきらぬ」
影法師はそこで、ようやく俺の足元から半歩ぶん離れた。
提灯の灯りが横切り、その形が一瞬だけ濃く浮かぶ。
その濃くなった一瞬、俺にはまたあの男の残滓が見えた。
帳面を抱えた細い指。
廊下の端。
襖の前で一歩下がった姿勢。
誰かに呼ばれればすぐ応じられるように、いつも半身だけ斜めにして立つ癖。
人の後ろにいることに慣れすぎて、自分の正面を持たなかった身体。
哀れだった。
不気味だった。
そして、少しだけ、自分の未来にも見えた。
影法師は、そのまま列へ還っていった。
足元を流れ、のっぺらぼうの輪郭の下を抜け、片車輪の赤黒い軋みのそばを通り、百鬼夜行の流れの一部へ戻る。
最初からそこに属していたみたいに自然だった。
影は、列の中へ戻るとひどく従順に見える。
それがかえって怖かった。
「……今のも、対話か」
自分でも疲れの混じった声だと分かった。
「あいつにとってはな」
濡烏は同じ答えを返す。
だが、今回は少しだけ続けた。
「影法師は多くを問わぬ。
問うまでもなく、相手の足元へ出るからだ。
どこへ立っているか。
どこへ重みを置くか。
それだけを見る」
「面倒な奴ばかりだな」
吐き捨てるように言うと、濡烏はわずかに肩を動かした。
「夜の列に易しいものが多いと思うな」
その返しが、妙に可笑しくて、でも笑えなかった。
足元を見る。
俺の影はまだある。
薄い。
昼ほどではないが、それでも頼りない。
けれど、さっきより少しだけ“俺の影”に見えた。
影法師に触れられたことで、まだ離れきっていないものの形が分かった気がした。
提灯小僧の灯りは、帰れなさを刺した。
のっぺらぼうは、見せる顔を問うた。
影法師は、立つ場所と重みを確かめた。
それぞれ全然違う。
なのに全部が、俺を人の輪郭のぎりぎりに立たせるための問いみたいだった。
「まだ立っていられるか」
濡烏が言う。
「……足元は嫌な感覚だが、まだ倒れない」
「なら次だ」
容赦がない。
けれど、その容赦のなさが今はありがたかった。
ひとつひとつの問いに呑まれて立ち尽くしていたら、本当に自分の影の方から離れていきそうだったからだ。
列は静かに流れている。
提灯小僧の小さな火が遠くで揺れる。
のっぺらぼうの顔のない輪郭は、もう他の影の中へ薄く溶けている。
影法師は足元の夜に還った。
その先で、赤黒い輪が、ほんのわずかに深く光った気がした。
片車輪だ。
乾いた軋みが、今度は少し近く聞こえる。




