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 灯りの届く道の上に、もうひとつ別の夜が重なる。

 最初は、影が濃くなっただけかと思った。

 提灯小僧の灯りが揺れ、のっぺらぼうの輪郭が列へ戻っていく、そのあいだに路面へ落ちた闇が、わずかに沈んだだけだと。

 しかし、違った。

 影は、路面に貼りついていなかった。

 黒い。

 それなのに、平たくない。

 踏めばただの暗がりに崩れそうなのに、見ていると、その内側にちゃんと厚みがある。

 人の形にも見える。

 だが、人の形だと決めた瞬間に、その輪郭が音もなくずれる。

 肩だと思った線が腕になり、腕だと思った細さが裾みたいに長く伸びる。

 定まらないのに、そこにいるとだけは分かる。


「……来る」

 自分でも聞こえるかどうか分からない声だった。

 濡烏は答えない。

 けれど、黒い背がほんのわずかに低くなる。

 身構えたのではない。

 あれに対する濡烏なりの迎え方なのだろう。

 影法師は、列から離れるというより、列の影そのものがひとつ剥がれて歩き出したように現れた。

 提灯の光がその上を横切るたび、輪郭が一瞬だけ深くなる。

 深くなるのに、近づいた気がしない。

 遠いまま、足元へ来る。

 遠近が壊れているわけじゃない。

 ただ、“近づく”という現象だけが、そこでは少し違う仕方をしていた。


 影法師は、音を立てなかった。

 片車輪みたいな軋みもない。

 提灯小僧みたいな灯りの揺れもない。

 ただ、人の足元にあるはずのものだけが、自分で歩いてくる。

 影法師は、俺の足元の少し手前で止まった。

 止まった、と思った。

 でも、よく見ると止まってはいない。

 その輪郭の内側では、暗がりが絶えずゆっくり動いている。

 水底の藻みたいに。

 風のない夜に揺れる薄布みたいに。

 静止の形をしているだけで、本当にはじっとしていない。

「影法師だ」

 濡烏がようやく言う。

 低い声が、足元の冷えへそのまま落ちる。

「己の形だけを長く後ろへ置いてきたもの。

 自分の輪郭を、他人の歩みに合わせすぎたもの。

 そういうものは、最後に重さを失う」

 影法師は、俺の足元へ寄るでもなく、離れるでもなく、そのあいだにいる。

 見ていると、俺の影とあいつの影の境目が、少しずつ曖昧になる気がした。

 俺は、反射的に一歩退こうとした。

「退くな」

 濡烏が言う。

 その一言だけで、足が止まる。

「こいつの前で退けば、お前は自分の輪郭を先に譲る」

「譲るって……何を」

「“ここにいる”という重みをだ」

 影法師は、顔がないわけじゃない。

 最初から顔を持っていない。

 だからのっぺらぼうよりも、逆に人の形の外側へ近い。

 目も口もない。

 なのに、見られている感覚だけがある。

 正面から視線を向けられる感じじゃない。

 もっと足元から這い上がってくるような見られ方だ。

「……何を見てる」

 気づけば、そう訊いていた。

 濡烏が答えるより先に、足元の闇がかすかに揺れた。

 声、ではない。

 のっぺらぼうのときみたいに、顔の裏へ落ちてくる言葉でもない。

 もっと曖昧だ。

 言葉の形になる手前のものが、胸骨の裏側に触れる。


 ――おまえは、どこへ立っていた。


 聞こえたわけじゃない。

 でも、たしかにそういう意味があった。

 俺は眉をひそめる。

「……どこへって」

 答えようとして、そこで言葉が詰まる。

 どこへ立っていた。

 家の中か。

 大学か。

 駅か。

 画面の前か。

 どれも違う気がした。

 俺はいつも、“相手のいる場所”へ立っていたのかもしれない。

 本当の意味で自分の足場に立ったことは、案外ほとんどなかったのかもしれない。

 相手が安心を欲しがるなら、安心する側へ。

 焦っているなら、落ち着いて導く側へ。

 金が増える話を信じたいなら、詳しいふりをする側へ。

 自分の場所じゃない。

 そのたびに、相手の欲しがる床の上へ、薄い板みたいな自分を置いていただけだ。

「……分からない」

 やっと声になる。

「たぶん、俺は、ちゃんと自分の場所に立ってなかった」

 影法師の輪郭が、その一言に合わせるみたいに、わずかに深くなる。

 濡烏が言う。

「こいつは、立つ場所を失ったものではない」

 黒い背は、動かない。

 でも、声だけがこちらと影法師のあいだへ差し込まれる。

「どこにでも立てたものだ。そして、どこにでも立てたゆえに、最後にはどこにも根を下ろせなかった」

 その言い方は、嫌になるほど自分に近かった。

「……俺もそうだって言いたいのか」

「すでに半分そうだ」

 濡烏は容赦なく言った。

「お前は、自分の足場を持たぬまま、相手の不安へ立って、相手の欲の上へ立って、相手の期待へ立っていた。

 だから、落ちたあとも、どこにも戻れぬ」


 その言葉に、胸の内側で小さく何かが軋んだ。

 提灯小僧は、帰れなかった灯りだった。

 のっぺらぼうは、見せるための顔を擦り切らせた。

 そして影法師は――

 立つべき場所を、あちこちへ分けすぎてしまったもの。

 違う角度から、同じところへ刺してくる。

 百鬼夜行に連なるものたちは、みんな俺を別々の仕方で見抜いていく。

 影法師が、ふいに伸びた。

 踏み込んできたわけじゃない。

 でも、足元の輪郭だけがすっと長くなり、俺の影へ触れた気がした。


 その瞬間、頭の奥に映像が走る。

 薄暗い事務所のような場所。

 いや、事務所というほど整ってはいない。

 夕方の光が障子越しに白く差している。

 畳か、板の間かも曖昧な部屋の隅で、ひとりの男が膝をついていた。

 若くもなく、老いてもいない。

 地味な着物。

 癖のない髪。

 人ごみに入れば二度と見分けがつかないような、薄い顔立ち。

 帳面を持っている。

 墨のついた指先が、何度も何度も同じ紙をめくっている。

 誰かの後ろに立つ男だった。

 商家の主の後ろ。

 客の後ろ。

 主人の息子の後ろ。

 葬式の列の後ろ。

 祝いの席の隅。

 揉め事が起きれば頭を下げ、穏便に済めば下がり、誰かが怒れば代わりに怯え、誰かが泣けば気遣う顔を置く。

 前へ出ることはない。

 けれど、誰かの後ろにいることだけはひどく上手い。

「……誰だ」

 思わず呟く。

 影法師の輪郭がまた揺れる。

 濡烏が、静かに言う。

「人であった頃の残り滓だろう」

 その声は、平らだった。

 だが、わずかに湿って聞こえたのは、夕のせいかもしれない。

「名は知らぬ。知る必要もない。

 だが、こういうものだったと伝えている」

 濡烏の目は、影法師から離れない。

「ある商家で働いていた男だ。

 賢いわけではない。

 強いわけでもない。

 だが“都合よく後ろにいられる”という一点だけで、長く使われた」

 俺は黙って聞いた。

 影法師は、なおも俺の足元に触れるか触れないかのところで揺れている。

「主の機嫌が悪ければ、主の影になった。

 息子が失敗すれば、その後始末の影になった。

 客が苛立てば、下げる頭の影になった。

 家の中の誰もが前へ出たがるぶんだけ、そいつは後ろにいた。

 後ろにいて、角を丸くし、言いにくいことを運び、言われたくないことを受け止めた」

「……それの何が悪い」

 口にしてから、自分でも少し驚く。

 庇いたかったわけじゃない。

 ただ、その“後ろにいる”のが、他人事にどうしても思えなかった。

 濡烏が言う。

「悪いとは言っておらぬ」

「じゃあ」

「後ろに居続けるものは、やがて自分がどの向きで立っているかを失う」

 その一言が、深く沈む。

「そいつは誰かの影であることに馴れすぎた。

 誰かの言い分に合わせ、誰かの顔色を読み、誰かの都合のよい立ち位置へ身体を置きつづけた。

 そうして、いざ己が何を望むのかと問われたとき、何も残っていなかった」


 映像がまた揺れる。


 帳面を持った男。

 夕方の廊下。

 障子越しの白い光。

 呼ばれて振り向く、その途中の横顔。

 そこにはまだ顔がある。

 あるのに、どこか薄い。

 誰の記憶にも強く残らない顔だ。

「最後は、家が傾いた」

 濡烏の声が続く。

「主は先に逃げた。

 息子は責を押しつけた。

 帳面も、金も、口約束も、何もかも曖昧なまま崩れた。

 そのとき、そいつは初めて前へ出された」

 胸の奥がひやりとした。

「前へ?」

「そうだ。

 誰かの後ろにいた者が、最後だけ矢面へ出た。

 だが、もう遅い。

 前に立つ者の声も、怒りも、恥も、持っておらぬ。

 後ろで吸い取ってきたものばかりで、自分の重みが無かった」

 俺は、目を逸らせない。

 影法師は、何も語らない。

 けれど、その輪郭の薄さだけで、その話の続きを知っている気がした。

「そいつは逃げたのか」

 濡烏は、ほんの少し間を置いた。

「逃げたとも言える。

 沈んだとも言える。

 いずれにせよ、最後まで“自分が立つ場所”を持てなかった」

 その答えは、やけに冷たかった。

 だが、その冷たさこそが本当なのだと思えた。

 劇的な破滅じゃない。

 叫びも、復讐も、呪いもない。

 ただ、自分の立ち位置を持てないまま、いつの間にか世界の光の側から零れていった。

「だから、影法師になった」

 濡烏が言う。

「人であった頃から、すでに“影”として生きていた。

 ゆえに、死んでからも影だけが残った」

 その理屈は、恐ろしいほどよく分かった。

 生き方が、そのまま妖になる。

 死んで急に異形になるんじゃない。

 生きているあいだに、少しずつ、少しずつ、もうそちら側へ寄っていたのだ。


 影法師が、また俺の影へ触れる。

 今度は、さっきよりはっきり分かった。

 冷たくも熱くもない。

 ただ、“立っている感じ”だけが足元から抜けかける。

 その男も、そうだったのかもしれない。

 最初は小さな違和感だった。

 自分の足場が少し薄い。

 でも、誰かの後ろにいれば困らない。

 誰かの顔色に合わせていれば、とりあえず今日を終えられる。

 そうして薄い違和感を毎日先送りにしていくうちに、最後には本当に、自分の重みそのものが消えていた。

「……嫌な話だな」

 口からこぼれた。

 濡烏は、何も慰めない。

「だからこそ、お前に近い」

 容赦のない言葉だった。

「お前も、相手の欲に立ち、相手の不安に立ち、相手の信じたい場所へ立った。

 自分の足場ではない。

 だが、その場その場で、うまく立ててしまった」

 その言葉が、骨の内側に沈む。

 うまく立ててしまった。

 その通りだった。

 だから、続けられた。

 だから、金が動いた。

 だから、、やめられなかった。

「……俺は、あそこまで薄くない」

 半分反発で言った。

 だが、自分でもその声の弱さが分かる。

 影法師は、俺の影のそばで揺れている。

 責めない。

 怒らない。

 ただ、足元の重さだけを測っている。

「なら示せ」

 濡烏が言う。

「どこへ立つのか。

 何に重みを置くのか。

 それをまだ選べるなら、お前は影になりきらぬ」

 俺は唇を噛んだ。


 何に重みを置く。

 恥か。

 後悔か。

 恐れか。

 贖罪か。

 まだ答えにはならない。

 けれど、答えを持たなければ、本当にあの影と地続きになっていく気がした。

「……俺は、まだ怖い」

 低く言う。

「怖いし、恥ずかしいし、どこに立てばいいかも分からない。

 でも、分からないまま誤魔化したくはない」

 影法師の輪郭が、その言葉に合わせるみたいにわずかに薄くなった。

 受け取られた、と思った。

 濡烏が静かに言う。

「なら、まだ落ちきらぬ」


 影法師はそこで、ようやく俺の足元から半歩ぶん離れた。

 提灯の灯りが横切り、その形が一瞬だけ濃く浮かぶ。

 その濃くなった一瞬、俺にはまたあの男の残滓が見えた。

 帳面を抱えた細い指。

 廊下の端。

 襖の前で一歩下がった姿勢。

 誰かに呼ばれればすぐ応じられるように、いつも半身だけ斜めにして立つ癖。

 人の後ろにいることに慣れすぎて、自分の正面を持たなかった身体。

 哀れだった。

 不気味だった。

 そして、少しだけ、自分の未来にも見えた。

 影法師は、そのまま列へ還っていった。

 足元を流れ、のっぺらぼうの輪郭の下を抜け、片車輪の赤黒い軋みのそばを通り、百鬼夜行の流れの一部へ戻る。

 最初からそこに属していたみたいに自然だった。

 影は、列の中へ戻るとひどく従順に見える。

 それがかえって怖かった。


「……今のも、対話か」

 自分でも疲れの混じった声だと分かった。

「あいつにとってはな」

 濡烏は同じ答えを返す。

 だが、今回は少しだけ続けた。

「影法師は多くを問わぬ。

 問うまでもなく、相手の足元へ出るからだ。

 どこへ立っているか。

 どこへ重みを置くか。

 それだけを見る」

「面倒な奴ばかりだな」

 吐き捨てるように言うと、濡烏はわずかに肩を動かした。

「夜の列に易しいものが多いと思うな」

 その返しが、妙に可笑しくて、でも笑えなかった。

 足元を見る。

 俺の影はまだある。

 薄い。

 昼ほどではないが、それでも頼りない。

 けれど、さっきより少しだけ“俺の影”に見えた。

 影法師に触れられたことで、まだ離れきっていないものの形が分かった気がした。

 提灯小僧の灯りは、帰れなさを刺した。

 のっぺらぼうは、見せる顔を問うた。

 影法師は、立つ場所と重みを確かめた。

 それぞれ全然違う。

 なのに全部が、俺を人の輪郭のぎりぎりに立たせるための問いみたいだった。

「まだ立っていられるか」

 濡烏が言う。

「……足元は嫌な感覚だが、まだ倒れない」

「なら次だ」

 容赦がない。

 けれど、その容赦のなさが今はありがたかった。

 ひとつひとつの問いに呑まれて立ち尽くしていたら、本当に自分の影の方から離れていきそうだったからだ。


 列は静かに流れている。

 提灯小僧の小さな火が遠くで揺れる。

 のっぺらぼうの顔のない輪郭は、もう他の影の中へ薄く溶けている。

 影法師は足元の夜に還った。

 その先で、赤黒い輪が、ほんのわずかに深く光った気がした。

 片車輪だ。

 乾いた軋みが、今度は少し近く聞こえる。

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