17
列の灯りが、またひとつ揺れた。
提灯小僧の小さな火が遠ざかっていくのと入れ違うみたいに、顔のない輪郭が、列の中ほどでわずかに濃くなる。
のっぺらぼうだった。
こちらへ寄ってくると分かった瞬間、胸の奥で何かが縮んだ。
提灯小僧の灯りに刺された痛みとは違う。
もっと乾いていて、もっと逃げ場のない冷えだった。
灯りは、帰れなさに触れた。
けれど、あれは違う。
あれは、もっと輪郭の近くへ来る。
のっぺらぼうは、静かに列から半歩ぶんだけ外れた。
顔がない。
何度見ても、そこに目も鼻も口もないというより、顔であることそのものが抜き取られているように見える。
白いわけではない。
暗いわけでもない。
ただ、そこだけが、見ようとする視線を受け止めずに滑らせる。
人の顔が本来持っている、感情や年齢や癖のようなものが、最初から何ひとつ置かれていない。
背丈も、服の形も、歩幅も、奇妙なくらい普通だった。
だから、余計に、顔のなさだけが異様に見える。
人の列の中に紛れていたなら、一瞬は見過ごしたかもしれない。
でも、二度目には、必ず目が戻る。
戻った目はもう、どこにも着地できない。
のっぺらぼうは、俺の前で止まった。
提灯小僧のときみたいに、灯りはない。
だから余計に、そこに立っているだけで空気が薄くなる。
街灯の古びた色が、その輪郭を撫でても、何も浮かび上がらない。
顔のあるべき場所だけが、夜の中で静かに欠けていた。
「……濡烏」
声を潜めたつもりだった。
けれど、自分でも分かる。
この声には、さっきよりずっと怯えが混じっていた。
濡烏は、すぐには答えなかった。
のっぺらぼうと俺のあいだにある見えない距離を、冷たい目で測っているみたいだった。
「こいつは、提灯小僧のようには寄らぬ」
やがて言う。
「寄るのではない。
立つのだ。
相手の前に、ただ立つ」
ただ立つ。
それだけのことが、どうしてこんなに怖いのか分からない。
でも、分からないまま肌が拒んでいた。
逃げたい。
けれど逃げたら、背中の側にあの“顔のないもの”を置くことになる。
それはもっと嫌だった。
のっぺらぼうは、動かない。
見ているのか、どうかも分からない。
だけど、見られている感覚だけがじわじわ強くなる。
人に見られるときの感じじゃない。
もっと薄くて、もっと深い。
目の玉ではなく、こちらの輪郭そのものを撫でて確かめられているみたいな視線だった。
「……何で、顔がない」
気づけば、そう訊いていた。
濡烏が答える。
「失ったからではない」
低い声だった。
「なくしていったのだ。
少しずつ、少しずつな」
のっぺらぼうの肩が、かすかに揺れたように見えた。
呼吸かもしれない。
それとも、こちらの言葉に何か反応したのかもしれない。
でも顔がないせいで、そのわずかな揺れひとつからも何も読めない。
「人は、相手の顔に意味を置く」
濡烏の声が、静かに続く。
「優しさも、怒りも、誠実さも、悔いも、顔へ置いて読む。
だが、それを使いすぎる者がいる。
相手にとって都合のよい顔を差し出しつづける者。
見られるための面ばかりを磨き、本当の輪郭を後ろへ下げつづける者。
そういうものは、やがて顔を持つ意味を失う」
その言葉は、喉の奥へまっすぐ落ちてきた。
都合のよい顔。
もっともらしい言葉。
安心させるための文面。
信じて大丈夫だと思わせるための温度。
俺は、顔を見せずにそれをやった。
しかし、だからこそ、見せなかった顔の分まで、都合のいい人格を相手へ投げていたのかもしれない。
のっぺらぼうは、まだ俺の前に立っている。
顔がない。
なのに、そこへ自分の罪が映る。
「……こいつも、人を騙したのか」
訊いた瞬間、濡烏の視線がこちらへ動いたのが分かった。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「騙した、という言葉は人の側の整理だ」
濡烏は言う。
「こいつは合わせすぎた。
誰の前でも、その者が欲しがる顔をした。
安心する顔。
従順な顔。
哀れな顔。
信じたい者の前では信じられる顔を。
許したい者の前では許される顔を。
そうして、最後には、自分の顔だけが余った」
余った。
その言い方が、妙に残酷だった。
失ったんじゃない。
余った。
使われず、必要とされず、自分の中にだけ取り残された顔。
それはもう、顔としての役目を持たない。
のっぺらぼうが、ほんの少しだけ近づいた。
反射的に、足が一歩退きそうになる。
だが、退けなかった。
濡烏は何も言わないが、ここで退いてしまったら、何かが決定的に崩れる気がした。
のっぺらぼうの“顔のない場所”が、俺の目の高さまで来る。
見ようとしなくても、見てしまう。
見ても何もない。
でも、その“何もなさ”の奥に、ぞっとするほど多くのものが潜んでいる気がする。
笑顔。
涙。
怯え。
謝罪。
もっともらしい誠実さ。
そういう人に見せるための表情が、全部そこで擦り切れて、最後に何も残らなかったような空洞。
その瞬間だった。
声がした。
のっぺらぼうの口はない。
だが、確かに声がした。
いや、耳で聞いたわけじゃないのかもしれない。
喉でも頭でもなく、もっと顔の裏側みたいな場所に、直接言葉が落ちてきた。
『おまえは』
低くも高くもない。
男とも女ともつかない。
年寄りにも子どもにも聞こえる。
形を持たない声だった。
『どの顔で、金を取った』
それは責める声音ではなかった。
怒りでもない。
ただ、知ろうとする声だった。
だから余計に逃げ場がなかった。
俺は、口を開く。
でも、すぐには言葉が出ない。
どの顔で。
笑っていたわけじゃない。
泣いていたわけでもない。
画面越しだ。
文面だ。
顔なんて見せていない。
そう言いかけて、そこで止まる。
違う。
見せていなかったからこそ、俺は相手の欲しいものだけを差し出せた。
安心してほしがる相手には安心を。
苦しんでいる相手には理解のふりを。
大丈夫だと言ってほしい相手には、断定の声色を。
顔がないぶんだけ、俺は都合のいい顔をいくらでも作れた。
「……知らない」
ようやく出た声は、情けないものだった。
「分からない。たぶん、そのたびに違ったと思う」
のっぺらぼうは、何も言わない。
顔がないから、沈黙の表情もない。
それなのに、いま俺の返事を受け取ったのだと分かる沈黙だった。
『そうか』
その一言だけが、また顔の裏へ落ちてくる。
『なら、まだある』
「……何が」
『失うものが』
濡烏が、横から静かに言う。
「こいつは、顔を奪いに来るわけではない。お前がまだ顔を使えるかどうかを見ている」
「使えるって……」
「恥じる顔。痛む顔。見られたくない顔。
そういうものが、まだ残っているかだ」
のっぺらぼうが、ほんの少しだけ首を傾げた。
提灯小僧のときとは違う。
子どもらしい仕草じゃない。
もっと空っぽで、もっと正確な動きだった。
そこには感情がない。
ただ、測るための動きだけがある。
「……残ってるよ」
俺は低く言った。
自分に言い聞かせるみたいに。
「残ってる。
見られたくないし、思い出したくないし、こんなふうに訊かれるのも嫌だ」
のっぺらぼうは動かない。
でも、少しだけ空気が変わる。
濡烏が言う。
「なら、まだ列の外だな」
その確認が、妙に救いみたいに聞こえてしまう自分が嫌になる。
のっぺらぼうが、もう一歩だけ近づいた。
逃げるほどじゃない。
けれど近い。
“顔のない場所”が、俺の目の前にある。
そこに何もないからこそ、そこへ自分の顔が映ってしまいそうになる。
俺は、反射的に目を逸らしかけた。
「逸らすな」
濡烏が言う。
「こいつの前で逸らすのは、半分顔を捨てるのと同じだ」
俺は歯を食いしばった。
見たくない。
でも見る。
のっぺらぼうの何もない場所を見ていると、自分が今どんな顔をしているのか、逆にはっきり分かる。
怯えている。
気まずがっている。
恥じている。
逃げたいくせに逃げきれない顔だ。
それが、こんなにも具体的に感じられることが、妙に恐ろしかった。
『それでよい』
また、声が落ちる。
『恥じるうちは、まだ剥がれぬ』
その言葉に、息が詰まった。
恥。
罪悪感や恐怖とは少し違う。
もっと薄くて、もっと肌に近い痛み。
人の前に出したくない顔を、自分で知ってしまう痛み。
それが残っているうちは、まだ顔は剥がれない。
のっぺらぼうは、そう言っている気がした。
こいつは、俺に呪いをかけに来たんじゃない。
もっと静かに、もっと正確に、俺がまだどこまで人の輪郭を持っているかを確かめに来たのだ。
そのことが分かった瞬間、前よりずっと恐ろしくなる。
のっぺらぼうは、そこでようやく俺から少し離れた。
提灯小僧のように灯りは残さない。
ただ、その何もない顔の場所だけが、しばらく視界の奥に焼きついて離れなかった。
「……今のが対話か」
俺が、それだけ言うと、濡烏は短く答える。
「こいつにとってはな」
「喋った気がしない」
「顔も声も、人のものではない。
だが、問いだけはもっとも深く刺さる」
のっぺらぼうは、もう列の方へ戻りはじめている。
影法師がその足元を流れ、提灯小僧の灯りが少し向こうで揺れている。
野狐は、こちらを見ていたのか見ていなかったのか分からない。
片車輪の乾いた軋みだけが、一定の間を置いて聞こえる。
のっぺらぼうは、最初からそこに属していたみたいに、また流れの中へ紛れた。
顔がないぶんだけ、列の中に戻るとひどく自然だった。
「最初に問われたな」
濡烏が言う。
「何を」
「お前がどの顔で人を騙したかを」
俺は答えなかった。
答えられなかった、の方が正しい。
まだ喉の奥にその問いが残っている。
どの顔で。
どの声で。
どの温度で。
文面の向こうの人間を安心させ、信じさせ、金を出させたのか。
顔を見せていないからこそ、俺は顔を使っていた。
その気味の悪さが、今になってようやく肌へ届く。
「こいつは、しばらくお前の前に立つだろう」
濡烏の声は冷たいままだ。
「顔を失ったものは、顔をまだ持つ者の揺れをよく見る。
お前が恥を捨てるか、まだ抱くかを、こいつは確かめに来る」
のっぺらぼうの輪郭が、列の中でまた薄くなる。
見失いそうになる。
でも、いなくなったわけじゃない。
きっと次に近づくときは、もう少しこちらの深いところまで来る。
提灯小僧の灯りは、帰れなさを照らした。
のっぺらぼうの空白は、俺の“見せていたもの”を問うた。
百鬼夜行は、ただ並んでいるだけではないと分かった。
列に連なるそれぞれが、違う角度から俺の中へ手を入れてくる。
痛み方が違う。
傷のつけ方が違う。
それが分かっただけでも、ひどく疲れた。
けれど、まだ終わらない。
列は静かに流れ続ける。
その少し向こうで、足元の闇が妙に濃くなった。
灯りの届く道の上に、もうひとつ別の夜が重なるみたいに。
影法師だ、と分かる。
濡烏が、わずかに黒い背を動かした。
「まだ立っていられるか」
「……さっきより嫌な感じだ」
「なら正常だ」
その言い方に、苦笑もできなかった。
のっぺらぼうとの対話は終わった。
だが終わったあとも、あの“顔のない場所”だけが、俺の視界の裏にしつこく残っている。
俺はまだ、どんな顔でここに立っているのか。
その問いを抱えたまま、次に来る影の方を見た。




