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 列は、なおも静かに流れていた。

 提灯の灯りが、ひとつ揺れるたび、夕の最後の薄さが少しずつ剥がれていく。

 黄ばんだ光の粒が、路面の上を撫でる。

 その明るさは道を照らしているようで、実際には道の少し上だけを漂っていた。

 灯りは地面に届かない。

 届かないまま、列の通る筋だけを、古い夢みたいに浮かび上がらせている。


 百鬼夜行に連なるか、地獄へ行くか。


 濡烏の言葉が、喉の奥に小骨みたいに引っかかっている。

 飲み込めない。

 吐き出せない。

 そのあいだにも、列は止まらない。

 提灯小僧の灯りは揺れ、のっぺらぼうは顔のないまま歩き、影法師は足元の闇を滑っていく。

 片車輪の軋みは遠く、野狐の尾は灯りをかすめ、逆さ首は天地の感覚だけをどこかへ持っていく。

 どれも俺と無関係ではいられない。


 列の流れの中ほどで、ひとつの灯りがふいに歩みを緩めた。

 提灯小僧だった。

 小さな身体に吊られた丸い提灯が、ひと呼吸ぶん遅れて揺れる。

 列そのものは進み続けているのに、その子だけが水の流れの中で葉っぱみたいにくるりと向きを変える。

 灯りの火が一度だけ大きくなり、また小さくなる。

 まるで迷っているみたいだった。

 俺は、思わず息を止めた。

 提灯小僧は、こちらを見ていた。

 いや、顔はやっぱりよく分からない。

 紙の灯りの下に、幼い輪郭がある。

 手足は細い。

 着物らしいものを着ているようにも見えるし、灯りの影がそう見せているだけのようにも見える。

 けれど、確かに“こちらへ意識を向けている”感じだけはあった。

「……濡烏」

 声を潜めたつもりだった。

 けれど、濡烏はすぐに答えた。

「騒ぐな」

 短い声だった。

「向こうから寄るのは、悪くない」

 悪くない。

 良いとも言わない。

 ただ、まだ致命的ではないというだけの声音だった。


 提灯小僧が、列から半歩ぶんだけ外れる。

 俺は、後ろの列が乱れるかと思った。しかし、乱れなかった。

 のっぺらぼうはそのまま歩き、影法師はその足元を滑り、野狐は一瞬だけ目を細めただけで、何事もなかったみたいに列は流れ続ける。

 誰かひとりが、外れても、列そのものは傷つかない。

 その静けさが、かえって百鬼夜行の恐ろしさだった。

 提灯小僧は、音もなく俺たちの前まで来た。

 近くで見ると、その灯りは思っていたより小さい。

 両手で抱えられるほどの丸い提灯。

 紙は古びて黄味を帯び、縁の竹は細く、ところどころ焦げたみたいに色が変わっている。

 中の火は揺れているのに、不思議と風には乱れない。

 火そのものが、呼吸しているみたいだった。

 灯りの下にある顔は、やはりはっきりしない。

 目があるようにも見える。

 口元が笑っているようにも見える。

 けれど見ようとするほど、輪郭が灯りの紙に滲んでしまう。

 人の子どもに似ている。

 それなのに、人の子どもだった記憶だけが薄く残ったもの、という感じがする。


 提灯小僧は俺の胸のあたりまで提灯を持ち上げた。

 照らされた、と思った。

 熱はない。

 けれど、灯りの色だけが胸の奥にまで沁みてくる。

 昼の光とは違う。

 昼は、等しく照らして、欠けを見せた。

 この灯りは違う。

 もっと小さい。

 もっと近い。

 誰にも見えないまま残ったものだけを、そっと浮かび上がらせる灯りだった。

「こいつはな」

 濡烏が言う。

「よく迷う」

 提灯小僧は、その言葉に反応したのか、小さく灯りを揺らした。

「迷う?」

「帰る先を、だ」

 濡烏の声は、いつも通り冷たい。

 だが、その説明の仕方だけが少しだけ静かだった。

「帰るべき戸口を見失ったものは、しばらく同じ夕を歩く。こいつは、その名残だ。

 帰れなかった足取りだけが、灯りの形で残った」

 提灯小僧は、じっと俺を見上げているようだった。

 灯りの下で、その輪郭が少し揺れる。

 俺は、何を言えばいいのか分からなかった。

 怖い。

 なのに、怖いだけじゃない。

 胸の奥の、罪悪感とはまた別の場所に、小さく刺さるものがあった。

 帰れなかった。

 その言葉が、嫌に重い。


 俺も帰れない。

 家の匂いのする夕方があっても、そこへは戻れない。

 実家の玄関。

 台所の明かり。

 味噌汁の匂い。

 母さんの「おかえり」。

 そういうものが、この世のどこかにはまだあるかもしれないのに、もう俺のための場所ではない。

 提灯小僧は、その“帰れなさ”だけを小さな身体に吊って、百鬼夜行の中に立っている。

 そう思ったら、喉の奥が強く詰まった。

「……お前も、帰れなかったのか」

 気づけば、そう口にしていた。

 提灯小僧は答えない。

 けれど、提灯の火がふっと細くなる。

 消えるかと思うほど頼りなくなって、次の瞬間、また元に戻る。

 濡烏が言う。

「問うな」

 俺は、濡烏を見る。

「なんで」

「まだ言葉を持たぬからだ」

 提灯小僧は、灯りを抱える腕に少しだけ力を込めたみたいに見えた。

 幼い指先が紙の縁にかかっている。

 その仕草だけが、生きていた頃の癖みたいに妙に具体的だった。

「こいつは、語る前に灯りを寄せる」

 濡烏の目は、提灯小僧から離れない。

「相手が何を失っているか、先に見る。

 見て、それでも寄るなら、しばらくそばにいる」

「……寄ったら、どうなる」

「まだどうにもならぬ」

 濡烏は言い切る。

「だが、覚えられる」

 その一言に、背筋がわずかに粟立つ。

「何を」

「帰れなかった者の灯りを、だ」

 意味が分かるようで、分からない。

 でも、分からないまま胸に残る言い方だった。


 提灯小僧は、不意に俺の足元へ灯りを落とした。

 影が揺れる。

 俺の影だ。

 昼のあいだは薄く、地面に定着しきれなかった影。

 今、提灯の火に照らされて、その輪郭だけがかすかに濃くなる。

 けれど、街灯の影とも違う。

 人間の影というより、ここにいるかどうか迷っている何かの影に見えた。

 提灯小僧は、それをしばらく見ていた。

 そして、ほんの少しだけ首を傾げた。

 その仕草は、まるで本物の子どもみたいだった。

 「何だ」

 俺は、低く訊いた。

 自分でも、何を期待しているのか分からなかった。

 濡烏が、代わりに答える。

「お前を測っている」

「何をだよ」

「まだ戻れぬものとして痛めるか。

 それとも、列の灯りを見て安堵するか」

 その言葉に、呼吸が止まりそうになった。

 安堵。

 そんな顔を、自分がしているのか。

 していないと言い切れるのか。


 提灯小僧の灯りは、美しかった。

 静かで、古くて、懐かしくて、どこか家の明かりに似ていた。

 似ているからこそ危ないのだと、今さら分かる。

 帰れない者にとって、灯りは一番近い誘惑になる。

「気をつけろ」

 濡烏が言う。

「提灯小僧は無垢に見える。

 実際、悪意は薄い。

 だが、帰れなかった灯りは、帰れぬものを呼ぶ」

 提灯小僧は、濡烏のその言葉にも怯まない。

 ただ静かに、俺の胸と足元を照らしている。

 責めもしない。

 誘いもしない。

 なのに、その静けさの方がよほど深いところへ入ってくる。


 もし、俺がこの灯りについて行ったらどうなるのだろう、と一瞬だけ考えた。

 どこへも行かないのかもしれない。

 ただ、帰る先を探し続けるだけなのかもしれない。

 それでも、独りで立ち尽くすよりはましだと感じてしまう瞬間が、たしかにあった。

 その瞬間、自分でぞっとした。

 濡烏は、それを見逃さなかったらしい。

「見るな」

 低い声が落ちる。

「灯りに“家”の意味を与えるな」

 俺は、唇を噛んだ。

 提灯小僧が、ふいに灯りを引く。

 半歩、後ろへ下がる。

 また列へ戻るのかと思った。

 でもその前に、一度だけこちらへ提灯を差し出した。

 くれる、というより、見せる、という仕草に近かった。


 提灯の紙に、何かが映った気がした。

 障子。

 夕飯の湯気。

 小さな玄関灯。

 誰かの背中。

 それが本当に見えたのか、俺の頭が勝手に灯りの色へ記憶を流し込んだだけなのか、分からない。

 分からないまま、胸だけが鋭く痛む。

 俺は、思わず目を閉じた。

 閉じたまぶたの裏に、あの小さな灯りだけがしばらく残る。

「……っ」

 喉が鳴る。

 言葉にならない。

 提灯小僧は、もう俺を照らしていなかった。

 目を開けると、灯りは列の方へ戻りはじめている。

 小さな背中。

 揺れる火。

 そのまま、百鬼夜行の流れの中へ自然に溶け込んでいく。

 のっぺらぼうが後ろを歩き、影法師が足元を滑り、片車輪が乾いた音を残し、野狐の尾が一度だけ灯りのそばをかすめる。

 提灯小僧は、最初からそこに属していたみたいに、列のひとつへ戻った。

「今のが、あいつなりの挨拶だ」

 濡烏が言う。

 俺は、まだ灯りの残像を目の奥に抱えたまま、ようやく息を吐いた。

「……挨拶」

「そうだ。お前が何を見て、何に痛むかを確かめた」

「それで?」

「覚えられた」

 短い答えだった。

「次に寄るときは、もう少し深く来る」

 その言葉に、喉の奥がまた乾く。

 少し深く。

 それはつまり、今度はただ照らされるだけでは済まないということだろう。

 提灯小僧の灯りは、列の中ほどで小さく揺れている。

 遠ざかったはずなのに、完全には離れた気がしない。

 あの火は、ひとの帰る灯りによく似ている。

 似ているからこそ危うい。

 似ているからこそ、帰れない者には刺さる。

「最初があれでよかったな」

 濡烏が、ぽつりと言う。

「……どういう意味だ」

「のっぺらぼうや逆さ首から先に寄られれば、お前はもっと乱れた」

 相変わらず容赦のない言い方だった。

 でも、それが慰めの代わりなのかもしれないと、ほんの少しだけ思った。

 列はまだ続いている。

 終わりが見えない。

 灯りも、影も、異形も、道の奥から次々に現れては流れていく。

 その中で、提灯小僧の小さな火だけが、なぜか俺の中に残った。

 帰れなかった灯り。

 その言葉が、胸の奥で小さく何度も反響する。


 俺は、もう帰れない。

 それでも、帰れないものを見ると痛む。

 痛むうちはまだ列の外だと、濡烏は言った。

 なら、この痛みはまだ失ってはいけないのかもしれなかった。


 百鬼夜行は、静かに流れている。

 その先で、のっぺらぼうの顔のない輪郭が少しだけ濃くなった気がした。

 次はあれかもしれない、と分かる。

 濡烏が、黒い背を少しだけ動かす。

「まだ立っていられるな」

「……なんとかな」

「なら、次だ」

 その短い言葉とともに、列の灯りがまたひとつ揺れた。


 提灯小僧との邂逅は終わった。

 だが、終わったというより、俺が百鬼夜行の側に“覚えられた夜”として、静かに刻まれた気がした。

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