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 風はない。

 しかし、路面に落ちた薄い紙だけが、音もなく端を持ち上げている。

 街灯の黄ばんだ灯りは、少しずつ古くなる。

 店先から漏れていた笑い声も、車の音も、生活の気配も、全部が一段深い場所へ沈み、遠ざかった。

 静かだ、と思った。


 けれど、それは、音が消えた静けさだけではなかった。

 もっと不気味な静けさだった。

 何かが現れる前にだけ生まれる、余白の静けさのようなもの。

 世界が息を止めて、まだ見えない列のために道を空けている静けさのようなもの。


 そのときだった。

 道の奥で、ひとつ、灯りが揺れた。

 赤でもなく、黄でもなく、古い紙の内側で火が息をしているみたいな色だった。

 ひとつだけじゃない。

 その灯りのさらに奥、さらにその奥、闇の薄いところに、同じ色がぽつり、ぽつりと生まれていく。

 まるで、暗がりの中に星が低く降りてきて、列を作りはじめたみたいだった。

 俺は、無意識に一歩だけ後ずさる。

「動くな」

 濡烏が言った。

 声は低いのに、不思議なくらいはっきり届いた。

 俺は足を止める。

 灯りは増える。

 増えながら近づいてくる。

 でも、ただ近づくわけじゃない。

 灯りと灯りのあいだに、まだ見えないものの気配があって、それが先にこちらへ滲んでくる。

 布の擦れるような音。

 乾いた木の鳴るような音。

 車輪でもないのに回るものの気配。

 足音とも衣擦れともつかない、ひどく古いリズム。

 それらが混ざり合っているのに、列は乱れていない。

 むしろ恐ろしいくらい整っていた。

 音のない楽に合わせて進んでくるみたいに、灯りも影も、何もかもが静かにひとつの流れになっている。

「……来た」

 自分の声が、喉の奥で割れた。

 濡烏は、答えなかった。

 答えるまでもないのだろう。

 目の前の道は、もう別のものになっていた。

 駅裏の細道だったはずの場所が、どこまでも長い夜の路へ変わっている。

 両脇の壁は残っている。

 シャッターも、ケースも、提灯も残っている。

 それなのに、その全部が背景へ退いて、真ん中の道だけが妙に古く、妙に深く、どこか遠い時代へ繋がっているみたいに見える。


 そして、百鬼夜行が現れた。

 先頭近くを漂うように進んでいたのは、小さな灯りだった。

 灯り、だと思った。

 だが近づくにつれて、それがただの灯ではないと分かる。

 丸い提灯の下に、幼い身体がついている。

 手足は細く、歩いているのか浮いているのか分からない。

 けれど提灯だけはぶれない。

 その小さな存在が、列の最初の息みたいにこちらへ近づいてくる。


「あれは提灯小僧だ」

 濡烏が言った。

「灯りを持つのではない。あれ自身が、帰れなかった灯りの名残だ」

 提灯小僧は、俺の方を見たように思えた。

 けれど、顔ははっきりしない。

 幼さだけがあり、懐かしさだけがあり、ひどく遠い。

 どこかの家へ戻るはずだった夕暮れの匂いが、あの小さな灯のまわりにだけ薄く残っていた。


 そのすぐ後ろに、ひとりの人影がいた。

 背丈も、服の形も、歩幅も、妙に普通だ。

 人の列の中に紛れていたら見過ごしそうなくらい普通なのに、顔だけがない。

 のっぺりと白いというほどはっきりしていない。

 むしろ、そこだけが、顔であることをやめたみたいに曖昧で、目を凝らすほど何も掴めなくなる。

「あれはのっぺらぼうだ」

「顔を失ったのではない。

 顔を必要とされなくなった者のなれの果てだ。

 見られるための輪郭を失えば、ああなる」

 顔を失う。

 名を失う。

 どこかでそれは繋がっている気がして、俺は思わず視線を逸らしそうになった。

 けれど逸らせなかった。

 のっぺらぼうは、こちらを見ていないはずなのに、見られている感じだけがじわじわと残る。


 その足元を、影がひとつ滑っていく。

 最初は道に落ちた影だと思った。

 街灯の影か、列の誰かの影かと。

 でも違う。

 その影は、道の上だけを歩いている。

 壁も、柱も、段差も、何も気にしない。

 ただ輪郭だけを地面に置いて、音もなく進んでいく。

「影法師だ」

 濡烏が言う。

「形だけが残ったもの。

 己の輪郭を誰かの後ろへ置きすぎた者は、ああして自分の重さだけを失う」

 影法師は、灯りの届く場所でも薄れない。

 むしろ灯りがあるほど深く見える。

 人の形をしているのに、人の厚みがない。

 そこにいると分かるのに、どこにも触れられなさそうな存在だった。


 その次に来たものを見て、俺は息を止めた。

 片輪だけが、回っている。

 火に焼けたみたいな赤黒い輪だ。

 輪の上に何かが乗っているのか、輪そのものが生きているのか、すぐには分からない。

 けれど、それは確かに列の一部として進んでいた。

 軋むような、擦れるような音を立てながら、まっすぐ俺たちの前を通る。

 熱はない。

 なのに、見ているだけで皮膚の薄いところがひりつく。

「片車輪」

 濡烏が言う。

「痛みの一瞬に縫い留められたものだ。

 苦しみが終わらず、形の方だけが先に夜へ残った」

 片車輪は、こちらを見ない。

 でも、見られていない感じがしない。

 あれは、目で見るんじゃない。

 痛みの残り火そのもので、周りを焼くように存在している。

 列の中でひときわ歪なのに、不思議と調和していた。


 その脇を、ひとつの獣がすっと抜ける。

 狐だった。

 いや、狐に見えた。

 細い肢体。

 長い尾。

 けれど、その歩き方が妙に人じみている。

 振り返る角度も、目の細め方も、何かを知っていて黙っているものの顔だった。

 毛並みは夕の残りを吸ったみたいな鈍い色で、ときどき人の女の着物の裾みたいに見える瞬間がある。

「野狐だ」

 濡烏の声が、少しだけ低くなる。

「人を化かしたものと思うな。

 人と欲のあいだを歩きすぎて、とうとうどちらにも戻れなくなったものだ」

 野狐は、その細い顔をこちらへ向けた。

 笑ったように見えた。

 笑っていないのかもしれない。

 でも、俺の中でいちばん嫌な場所が、その目に見抜かれた気がした。

 騙した側。

 誤魔化した側。

 もっともらしい顔で、人の不安に触れて、そこから金を引き剥がした側。

 野狐は何も言わないのに、その沈黙だけで俺の罪を撫でていく。


 列の後ろの方で、不意に何かが上下した。

 首、だと気づくまでに少し時間がかかった。

 長い髪がぶら下がり、その奥で顔がある。

 あるのに、向きが正しくない。

 逆さだった。

 天地の感覚だけがそこだけ狂っていて、顔は笑っているのか、泣いているのか、そもそも表情を持っているのかさえ分からない。

「逆さ首」

 濡烏が言う。

「見えるものの上下が入れ替わったものだ。

 正しいはずの世界を最後まで正しく受け取れず、そのまま夜へ傾いた」

 逆さ首は、列の中でもとりわけ現実から遠かった。

 提灯小僧や野狐には、まだどこか人の世の残り香がある。

 けれど逆さ首には、それが薄い。

 見ていると、自分の足元の上下まで怪しくなってくる。

 俺は、思わず、爪先に力を込めた。


 列は、それだけじゃない。

 名前の分からないものたちもいた。

 布ばかりが歩いているみたいなもの。

 骨とも木ともつかない手足を鳴らすもの。

 顔の代わりに別の何かを持っているもの。

 影だけが二つあるもの。

 どれも異形だ。

 どれも現実から零れている。

 それなのに、列は美しかった。

 恐ろしいほど整っていた。

 灯りは低く揺れ、影は路面を静かに滑り、音はないのに一つの拍に従って流れていく。

 誰も笑わない。

 誰も叫ばない。

 誰もこちらをあからさまには見ない。

 けれど、通り過ぎるたびに、自分の中の何かだけが少しずつ向こうへ引かれる。

 百鬼夜行とは、こういうものなのかと、ようやく理解できた。

 怪異の見世物じゃない。

 驚かせるための列でもない。

 もっと静かで、もっと冷たい。

 世界が抱えきれずにこぼしたものたちが、それぞれの形のまま、ひとつの流れになって夜を歩いている。


「……綺麗だ」

 気づけば、そう言っていた。

 言った瞬間、自分でぞっとする。

 綺麗だなんて、言うつもりじゃなかった。

 気味が悪いとか、怖いとか、そういう言葉が出るはずだったのに、最初に喉を抜けたのはそれだった。

 濡烏は、否定しなかった。

「そう見えるうちは、まだお前は列の外だ」

「……どういう意味だ」

「内側に交じれば、美は理に変わる」

 その答えが、分かるようで分からない。

 けれど、分からないまま怖かった。

 提灯小僧の灯りが、列の中ほどでふっと揺れる。

 野狐の尾が、その灯りを横切る。

 影法師が足元を音もなく抜ける。

 片車輪が、乾いた軋みを残す。

 逆さ首の髪が、古い風もないのに揺れている。

 のっぺらぼうだけは、最後まで表情のない顔のまま、ただ歩いていた。

 それぞれが異なる。

 それぞれが別々の理由でここにいる。

 でも、今このときはみな同じ列に連なっている。

「百鬼夜行とは、死者の寄り合いではない」

 濡烏が言う。

「帰れぬものどもが、それでも歩みを持った姿だ。

 止まりきれなかったもの。

 消えきれなかったもの。

 忘れられず、忘れきれず、夜の理へ馴染んだもの」

 低い声が、夕の薄さの中へ静かに沈む。

「お前も、近い」

 その一言で、胸の奥が強く縮んだ。

 列を見て、綺麗だと思ってしまった。

 その時点で、もう向こうへ半歩寄っている気がした。

「……俺に残ってる道は、何だ」

 やっとそれだけを訊く。

 濡烏は、百鬼夜行の流れを見たまま答えた。

「二つだ」

 短かった。

「百鬼夜行に連なるか、地獄へ行くか」

 その言葉は、脅しではなかった。

 宣告でもある。

 それ以上に、ただの事実だった。


 列は、まだ目の前を流れている。

 提灯小僧の灯りは、揺れる。

 野狐は、笑っているように見える。

 影法師は、足元をすべる。

 片車輪は、痛みの残り火みたいに回る。

 逆さ首は、天地の境を壊し、のっぺらぼうは何もない顔のまま歩いている。

 そのすべてが、俺の行く末の片側にある。

 もう片側には、地獄がある。

 どちらにも救いの匂いはしなかった。

 ただ、百鬼夜行の方には、ひどく静かな吸引があった。

 帰る場所ではないのに、帰れないものを誘う流れ。

 そこへ連なれば、少なくともこの世界の外で独り立ち尽くすことは終わるのかもしれない。

 そんな考えが頭をよぎった瞬間、自分で自分を殴りたくなった。

 居場所を求めるな。

 それは救いじゃない。

 さっき、濡烏はそう言った。

 列は続く。

 道の奥から、まだ名も知らぬものたちが次々に現れ、また奥へ消えていく。

 幻想的だった。

 神秘的だった。

 そして、どうしようもなく恐ろしかった。


 夕の薄さは、もうほとんど夜に近い。

 それでも、まだ完全な夜じゃない。

 その曖昧さの中で、百鬼夜行だけがはっきりとした理を持って進んでいる。

 濡烏の黒い背が、その列の端で少しも揺れずに立っていた。

「よく見ておけ」

 低い声だった。

「ここから先、お前はこれらと語ることになる」

 その一言で、背筋が凍る。

 列は、通り過ぎるだけじゃないのだ。

 これから俺は、提灯小僧とも、のっぺらぼうとも、影法師とも、片車輪とも、野狐とも、逆さ首とも、言葉を交わすことになる。

 その理由も、その夜に連なった経緯も、少しずつ知ることになる。

 そしてその果てに、自分がどちらを選ぶのかを決めなければならない。


 百鬼夜行か。

 地獄か。


 俺は喉の奥に残った乾いた息を、何度も飲み込もうとした。

 うまくいかなかった。

 列の灯りが、夕の最後の薄さをゆっくり塗り替えていく。

 俺はその光景から目を逸らせないまま、濡烏の言葉だけを胸の奥で反芻していた。


 百鬼夜行に連なるか、地獄へ行くか。


 残された道は、それだけだった。

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