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 白すぎた光は、少しずつ色を覚え始める。

 それは、急な変化じゃなかった。

 昼が終わる、というほどはっきりしたものでもない。

 ただ、真上から落ちていた白が、いつの間にか斜めになっている。

 ビルの壁に貼りついていた光が、ゆっくり角を持ちはじめる。

 ガラスの反射も、昼みたいに鋭く返らず、薄い膜を一枚かけたみたいに柔らかく崩れていく。


 町はまだ昼の顔をしていた。

 人は歩いている。

 店は開いている。

 車も絶えない。

 けれど、その全部の輪郭が、ほんのわずかにほどけ始めていた。

 昼は容赦がない。

 明るいまま、正しいまま、俺の欠けを見せてくる。

 けれど今、昼の正しさはその鋭さを失い、どこか曖昧なものへ変わろうとしている。

 曖昧になれば少しは楽になるのかと思った。

 でも、そうじゃなかった。

 正しさがほどけるぶんだけ、今度は別のものが近づいてくる。

 それが分かるのに、まだ何なのかは見えない。

 見えないのに、もうすぐそこまで来ている感じだけがある。

「……来るのか」

 気づけば、そう口にしていた。


 濡烏は、前を向いたまま歩いている。

 昼のあいだより、ほんの僅かに黒が濃くなっていた。

 光が弱まったせいじゃない。

 夕へ向かう時間が、あの黒に居場所を与え始めた。

「何がだ」

 濡烏は訊き返した。

 分かっているくせに、分かっていないふりをするみたいな声だ。

「……あれだよ」

 あの夜、高架下で見たもの。

 黄ばんだ灯り。

 形の定まらない影。

 声のない流れ。

 まだ完全に見たわけではないが、俺の中ではもう、それはひとつの名前を持っていた。


 濡烏は、しばらく黙っていた。

 俺たちは川沿いの遊歩道を離れ、古い住宅街と小さな神社のあいだを縫うような道へ入る。

 日陰が伸びている。

 伸びた影は、昼の影みたいに足元へ収まらない。

 建物の角から落ちた暗がりが、路面のひびや排水溝の金属まで巻き込んで、静かにひろがっていた。

「来るのではない」

 やがて、濡烏が言った。

「近づくのだ」

「何が違う」

「来ると思っている内は、まだお前は向こうを“外から来るもの”として見ている」

 低い声だった。

「だが、夕は違う。

 夕のつなぎ目では、町の方が少しずつあちらへ寄る。

 人の世が一歩退き、夜の列が通るだけの余地が生まれる」

 余地。

 夜が。無理やり割り込んでくるんじゃない。

 町の方が、通すための隙間を自分で作り始める。


 そう思った途端、目の前の風景が急に不安定になる。

 家の窓。

 電柱。

 塀の上の植木鉢。

 交差点のカーブミラー。

 どれも昼間と同じ位置にある。

 なのに、その並び方が少しずつ夢の中みたいになっていく。

 離れてはいないのに遠い。

 近いのに、手を伸ばすと届かなそうだ。


 神社の脇を通り過ぎる。

 石段の上、鈴の縄が風もないのにかすかに揺れていた。

 社殿は小さい。

 色も褪せている。

 それでも、夕の斜めの光が当たると、木の古さだけが妙に鮮やかに浮く。

 現実のもののはずなのに、もう半分あちら側の道具みたいに見えた。

 濡烏は。立ち止まらずに言う。

「夜は引く。朝は戻さぬ。昼は削る。

 夕は、ほどく」

「……ほどく」

「輪郭をだ。家と道の境、影と光の境、人の世とその外の境」

 濡烏の声は、夕方になると少しだけ聞きやすくなる。

 優しくなるわけじゃない。

 ただ、時間の方があの声のための場所を作る。

「だから、夕のつなぎ目はもっとも見誤りやすい。

 夜のように深くない。

 昼のように照らしもせぬ。

 見えるものを見えるまま、少しずつ別のものへ変える」


 その説明のあと、実際に町がそうなっていくのが見えた。

 商店のシャッターに映っていた空が、さっきより白くない。

 青でもない。

 薄い金色に、灰色を混ぜたみたいな、名づけにくい色になっている。

 洗濯物を取り込む女の手つきは普通だ。

 買い物帰りの袋を持つ老人の歩幅も普通だ。

 それなのに、その「普通」が、なぜか少しだけ現実から浮いて見える。

 まるで、世界そのものが一度息を止めて、次の顔に着替える準備をしているみたいだった。

「……百鬼夜行って、何なんだ」

 さっきまで訊けなかったことを、ようやく口にする。

 濡烏は、すぐには答えなかった。


 細い路地を抜けると、そこはもう住宅街の裏手だった。

 夕方の匂いがする。

 煮物の甘い匂い。

 焼けた油の匂い。

 洗剤の残り香。

 そういう、人が家へ戻る時間の匂いだ。

 その匂いがするのに、俺はどこにも帰れない。

「列だ」

 濡烏が言う。

「列?」

「人の世から零れたものどもが通る」

 淡々としていた。

「名を失ったもの。

 形を歪めたもの。

 執着だけを残したもの。

 弔われず、忘れられ、あるいは忘れることすらできずに沈んだもの。

 そういうものが、夜の理に従って並ぶ」

 歩きながら、濡烏はそれだけ言う。

 大袈裟な調子はない。

 だから、そこに嘘がない感じがした。

「……妖怪ってことか」

 濡烏は、少しだけ首を傾けた。

「人は、すぐそう呼んで整理したがる」

「違うのかよ」

「違うとも、同じとも言える。

 だが名づけたところで、お前の足場にはならん」

 冷たい答えだった。

「百鬼夜行とは、人の想像の見本市ではない。

 人の世が抱えきれずにこぼしたものが、道を持った姿だ」

 こぼしたもの。

 俺も、濡烏も、あの列も、その言葉の中にひとまとめにされてしまう。

「じゃあ俺も……」

 そこまで言いかけて、言葉が止まる。

 濡烏は助けてくれない。

 いつもそうだ。

 大事なところほど、自分で最後まで言わせようとする。

「お前はまだ、列の外だ」

 濡烏が言った。

「まだ?」

「まだだ」

 その二文字が、かえって重い。

「恐れがある。痛みが残る。

 まだ自分が零れていると知っている。

 それがあるうちは、完全には交じらぬ」

 少し間を置いて、濡烏は続けた。

「だが、近い」

 近い。

 その言い方は今まで何度もされた。

 でも、夕方の中で聞くと意味が違う。

 夜はまだ先ではない。

 夕は、その先を少しずつこちらへ寄せてくる時間だ。

「夕のつなぎ目では、列そのものが見えるのか」

「見えるとは限らん」

「何だよ、それ」

「まず気配が通る。

 道が薄くなる。

 灯りの色が古くなる。

 生活の音が、半歩だけ退く。

 そしてそのあとに、列が来る」

 濡烏はそこで初めて、少しだけこちらを見た。

「あるいは、お前の方が列に近づく」

 その言い方に、背筋が冷える。

 来るのではなく、近づく。

 昼にも同じことを言われた。

 でも夕方になると、それは理屈じゃなく感覚になる。


 通りの向こうで、小学生たちが別れていく。

 「また明日」と手を振る。

 自転車のベルが鳴る。

 店の軒先に明かりが一つ灯る。

 それぞれの暮らしが、少しずつ内側へ帰っていく。

 その“帰る”という流れの隙間に、何か別のものが立ち上がってくる。


 家へ帰る者たちの列と、家を持たないものたちの列。

 その境目が、夕方には見えにくくなるのだと分かった。

「……列に交じったら、どうなる」

 濡烏は、少しだけ笑ったように見えた。

 いや、笑ったというより、口元の影がそう見えただけかもしれない。

「お前は、まだその問いをするのか」

「するだろ」

「なら覚えておけ」

 濡烏の声は低い。

「列に交じることは救いではない。

 居場所を得ることでもない。

 ただ、ひとつの理に従うようになるだけだ」

「理」

「歩くべきときに歩き、止まるべきときに止まり、振り返るべきでないところで振り返らぬ。そうして、列は列として続く」


 夕方の光が、濡烏の肩を薄く染める。

 昼の白とは違う。

 金にも朱にもなりきらない、曖昧な色だった。

 その色の中で、濡烏の黒だけが少しずつ深くなる。

「自分の意志は?」

 そう訊くと、濡烏は短く答えた。

「残る」

 それから、冷たく付け足す。

「だが、薄い」

 意志が無くなるんじゃない。

 残る。

 残るが、薄くなる。

 自分のままで、自分のままじゃいられなくなる。

 その感じが、夜の怪異よりよほど嫌だった。


 道はいつの間にか、駅裏の高架へ近づいていた。

 昼間にも通った場所のはずなのに、夕方になると全然違う。

 コンクリートの柱は光を失い、代わりに影の方が質量を持ちはじめる。

 自販機の白はまだ白い。

 でも、その白さの縁が少し黄ばんで見える。

 空の青も薄れ、雲の下側に鈍い灰色が溜まりはじめていた。

「……始まってるのか」

 濡烏は、すぐには答えない。

 高架下の入口で一度立ち止まり、そこから先の暗がりを見ている。

「まだ端だ」

 やがて言う。

「だが、夕はもうこちらへ傾いている」

 高架の向こうで、電車が通った。

 鉄の震えが遅れて降ってくる。

 その音が消えたあと、ほんの一瞬だけ、町全体が息を潜めたように感じた。

 人はまだいる。

 車も通る。

 どこかの店先では笑い声もする。

 なのに、その全部の下に、もう一つ別の静けさが敷かれ始めていた。

 それは、音がないという静けさじゃない。

 音を一段深いところへ沈める静けさだ。


 濡烏が、歩き出す。

「夕のつなぎ目では、よく見ようとするな」

「なんで」

「見ようとする目ほど、向こうに引かれる」

「感じろ。

 色の変わり方を。

 音の引き方を。

 人の世がどこで半歩退くかを」

 俺は何も言わず、その背を追った。


 高架下は、昼間より少し広く見える。

 柱と柱のあいだの暗がりが、奥へ奥へ続いているようだった。

 壁に貼られた古い広告。

 剥がれかけた注意書き。

 排水溝に溜まった黒い水。

 どれも現実のもののはずなのに、もう半分だけ別の理に触れているみたいに見える。

 高架を抜けると、そこは駅裏の細道だった。

 表の駅前は、まだ人で明るいだろう。

 けれど、裏は違う。

 小さな飲み屋の提灯が、まだ完全には灯りきらないまま赤く滲んでいる。

 閉じかけたシャッター。

 積まれたビールケース。

 自転車の籠に置かれた買い物袋。

 日常の続きのはずなのに、その全部の輪郭がわずかに朧んでいた。

 ここが夕のつなぎ目なのだと、説明される前から分かった。

 昼のように削らない。

 朝のように戻さない。

 夜のように強く引きもしない。

 ただ、ほどく。

 町の輪郭を。

 人の暮らしとその外側の境を。

 こちらと向こうのあいだにあった線を。

「……百鬼夜行は、どこを通る」

 濡烏は足を止めずに答える。

「決まった道を通るわけではない」

「は?」

「道が列に合わせて生まれる」

 その答えは、いかにも濡烏らしかった。

 意味が分かるようで、すぐには足場にならない。


「人の世が半歩退いたところを通る。

 人の気配がまだ残っているのに、人の意志だけが薄い場所を通る。

 駅裏。

 高架下。

 川沿い。

 シャッター街。

 橋の上。

 そういうところだ」

 そこで濡烏は、ようやく振り返った。

「お前が今まで歩かされてきた場所を思い返せ」

 その言葉で、胸の奥に嫌な納得が落ちる。

 高架下。

 川沿い。

 歩道橋。

 駅裏。

 シャッター街。

 全部、偶然じゃなかったのだ。

「列は、何もない夜道を好まぬ」

 濡烏が言う。

「人の世の名残がある場所ほどよい。

 すでに捨てられた場所ではなく、まだ使われているのに少しだけ余った場所を通る」

 完全な廃墟じゃない。

 誰もいない山奥でもない。

 ちゃんと人がいる町の中に、少しだけ余った隙間がある。

 百鬼夜行はそこを通る。

 つまり、人の世のすぐ横を。

「……じゃあ、見ようと思えば誰でも見えるのか」

 濡烏は、首を横に振った。

「見えぬ」

「なんで」

「人は、帰る時刻には帰るからだ」

 短い答えだった。

 でも、それだけで十分だった。


 家へ帰る者。

 灯りの下へ戻る者。

 湯気の立つ食卓へ向かう者。

 そういう者たちは、夕のつなぎ目の薄さに気づかない。

 気づかないまま、自分の暮らしの方へ入っていく。

 帰れないものだけが、ここに残る。

「……俺は、残る側なんだな」

「今さら何を言う」

 濡烏の声には、またしても情がない。

「お前はすでに、帰る流れから外れている」

 その一言が、夕方の空気の中でやけに重かった。


 駅裏の道の先で、街灯がひとつ灯った。

 まだ早い。

 それでも、夕の薄さの中では、その灯りはひどく古く見える。

 白ではない。

 少し黄ばんだ色。

 押し入れの奥から出した紙みたいな色だった。

「近い」

 濡烏が言う。

「何が」

 訊いた瞬間、答えなんて分かっていた。

「列だ」

 その二文字は、叫びでも囁きでもなく、ただ事実として置かれた。

 風が止む。

 いや、止んだように感じただけかもしれない。

 駅のざわめきはまだ遠くにある。

 車の音も、店の笑い声も消えていない。

 なのに、それら全部が半歩だけ遠のく。

 生活の音が、少しだけ退く。

 灯りの色が、ほんの少し古くなる。

 道の奥行きが、目に見えないところで深くなる。

 濡烏は、前を見たまま言った。

「ここから先は、見るなとは言わん。だが、見すぎるな」

「違いが分からない」

「分からなくていい」

 冷たい声だった。

「分かろうとするな。

 分からぬまま、お前の内側が何にどう反応するかだけを見ていろ」

 そう言って、濡烏は歩みを緩める。

 俺もそれに合わせて進む。


 もう夜ではない。

 まだ夜ではない。

 なのに、夕のつなぎ目の先では、町の方が、静かに別の顔へ傾き始めていた。

 その奥に、まだ見えない列がいる。

 黄ばんだ灯り。

 形の定まらない影。

 声のない流れ。

 まだ見えない。

 見えないが、もうそこにあると分かる。


 濡烏の黒い背が、少し先で止まった。

「この先からだ」

 俺は息を止めた。

 目の前の道は、ただの駅裏の細道にしか見えない。

 古びた壁。

 ひび割れた路面。

 積まれたケース。

 半分だけ開いたシャッター。

 そのどこにも、まだ“異形”はない。

 それなのに、空気だけが違う。

 町が、ほんの少しだけ道を譲っている。

 俺は、喉の奥に乾いたままの息を抱え、その先の暗がりを見た。

 百鬼夜行は、まだ姿を見せていない。

 けれど、その寸前の気配だけが、夕の薄さの中で静かに息をしていた。

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