14
白すぎた光は、少しずつ色を覚え始める。
それは、急な変化じゃなかった。
昼が終わる、というほどはっきりしたものでもない。
ただ、真上から落ちていた白が、いつの間にか斜めになっている。
ビルの壁に貼りついていた光が、ゆっくり角を持ちはじめる。
ガラスの反射も、昼みたいに鋭く返らず、薄い膜を一枚かけたみたいに柔らかく崩れていく。
町はまだ昼の顔をしていた。
人は歩いている。
店は開いている。
車も絶えない。
けれど、その全部の輪郭が、ほんのわずかにほどけ始めていた。
昼は容赦がない。
明るいまま、正しいまま、俺の欠けを見せてくる。
けれど今、昼の正しさはその鋭さを失い、どこか曖昧なものへ変わろうとしている。
曖昧になれば少しは楽になるのかと思った。
でも、そうじゃなかった。
正しさがほどけるぶんだけ、今度は別のものが近づいてくる。
それが分かるのに、まだ何なのかは見えない。
見えないのに、もうすぐそこまで来ている感じだけがある。
「……来るのか」
気づけば、そう口にしていた。
濡烏は、前を向いたまま歩いている。
昼のあいだより、ほんの僅かに黒が濃くなっていた。
光が弱まったせいじゃない。
夕へ向かう時間が、あの黒に居場所を与え始めた。
「何がだ」
濡烏は訊き返した。
分かっているくせに、分かっていないふりをするみたいな声だ。
「……あれだよ」
あの夜、高架下で見たもの。
黄ばんだ灯り。
形の定まらない影。
声のない流れ。
まだ完全に見たわけではないが、俺の中ではもう、それはひとつの名前を持っていた。
濡烏は、しばらく黙っていた。
俺たちは川沿いの遊歩道を離れ、古い住宅街と小さな神社のあいだを縫うような道へ入る。
日陰が伸びている。
伸びた影は、昼の影みたいに足元へ収まらない。
建物の角から落ちた暗がりが、路面のひびや排水溝の金属まで巻き込んで、静かにひろがっていた。
「来るのではない」
やがて、濡烏が言った。
「近づくのだ」
「何が違う」
「来ると思っている内は、まだお前は向こうを“外から来るもの”として見ている」
低い声だった。
「だが、夕は違う。
夕のつなぎ目では、町の方が少しずつあちらへ寄る。
人の世が一歩退き、夜の列が通るだけの余地が生まれる」
余地。
夜が。無理やり割り込んでくるんじゃない。
町の方が、通すための隙間を自分で作り始める。
そう思った途端、目の前の風景が急に不安定になる。
家の窓。
電柱。
塀の上の植木鉢。
交差点のカーブミラー。
どれも昼間と同じ位置にある。
なのに、その並び方が少しずつ夢の中みたいになっていく。
離れてはいないのに遠い。
近いのに、手を伸ばすと届かなそうだ。
神社の脇を通り過ぎる。
石段の上、鈴の縄が風もないのにかすかに揺れていた。
社殿は小さい。
色も褪せている。
それでも、夕の斜めの光が当たると、木の古さだけが妙に鮮やかに浮く。
現実のもののはずなのに、もう半分あちら側の道具みたいに見えた。
濡烏は。立ち止まらずに言う。
「夜は引く。朝は戻さぬ。昼は削る。
夕は、ほどく」
「……ほどく」
「輪郭をだ。家と道の境、影と光の境、人の世とその外の境」
濡烏の声は、夕方になると少しだけ聞きやすくなる。
優しくなるわけじゃない。
ただ、時間の方があの声のための場所を作る。
「だから、夕のつなぎ目はもっとも見誤りやすい。
夜のように深くない。
昼のように照らしもせぬ。
見えるものを見えるまま、少しずつ別のものへ変える」
その説明のあと、実際に町がそうなっていくのが見えた。
商店のシャッターに映っていた空が、さっきより白くない。
青でもない。
薄い金色に、灰色を混ぜたみたいな、名づけにくい色になっている。
洗濯物を取り込む女の手つきは普通だ。
買い物帰りの袋を持つ老人の歩幅も普通だ。
それなのに、その「普通」が、なぜか少しだけ現実から浮いて見える。
まるで、世界そのものが一度息を止めて、次の顔に着替える準備をしているみたいだった。
「……百鬼夜行って、何なんだ」
さっきまで訊けなかったことを、ようやく口にする。
濡烏は、すぐには答えなかった。
細い路地を抜けると、そこはもう住宅街の裏手だった。
夕方の匂いがする。
煮物の甘い匂い。
焼けた油の匂い。
洗剤の残り香。
そういう、人が家へ戻る時間の匂いだ。
その匂いがするのに、俺はどこにも帰れない。
「列だ」
濡烏が言う。
「列?」
「人の世から零れたものどもが通る」
淡々としていた。
「名を失ったもの。
形を歪めたもの。
執着だけを残したもの。
弔われず、忘れられ、あるいは忘れることすらできずに沈んだもの。
そういうものが、夜の理に従って並ぶ」
歩きながら、濡烏はそれだけ言う。
大袈裟な調子はない。
だから、そこに嘘がない感じがした。
「……妖怪ってことか」
濡烏は、少しだけ首を傾けた。
「人は、すぐそう呼んで整理したがる」
「違うのかよ」
「違うとも、同じとも言える。
だが名づけたところで、お前の足場にはならん」
冷たい答えだった。
「百鬼夜行とは、人の想像の見本市ではない。
人の世が抱えきれずにこぼしたものが、道を持った姿だ」
こぼしたもの。
俺も、濡烏も、あの列も、その言葉の中にひとまとめにされてしまう。
「じゃあ俺も……」
そこまで言いかけて、言葉が止まる。
濡烏は助けてくれない。
いつもそうだ。
大事なところほど、自分で最後まで言わせようとする。
「お前はまだ、列の外だ」
濡烏が言った。
「まだ?」
「まだだ」
その二文字が、かえって重い。
「恐れがある。痛みが残る。
まだ自分が零れていると知っている。
それがあるうちは、完全には交じらぬ」
少し間を置いて、濡烏は続けた。
「だが、近い」
近い。
その言い方は今まで何度もされた。
でも、夕方の中で聞くと意味が違う。
夜はまだ先ではない。
夕は、その先を少しずつこちらへ寄せてくる時間だ。
「夕のつなぎ目では、列そのものが見えるのか」
「見えるとは限らん」
「何だよ、それ」
「まず気配が通る。
道が薄くなる。
灯りの色が古くなる。
生活の音が、半歩だけ退く。
そしてそのあとに、列が来る」
濡烏はそこで初めて、少しだけこちらを見た。
「あるいは、お前の方が列に近づく」
その言い方に、背筋が冷える。
来るのではなく、近づく。
昼にも同じことを言われた。
でも夕方になると、それは理屈じゃなく感覚になる。
通りの向こうで、小学生たちが別れていく。
「また明日」と手を振る。
自転車のベルが鳴る。
店の軒先に明かりが一つ灯る。
それぞれの暮らしが、少しずつ内側へ帰っていく。
その“帰る”という流れの隙間に、何か別のものが立ち上がってくる。
家へ帰る者たちの列と、家を持たないものたちの列。
その境目が、夕方には見えにくくなるのだと分かった。
「……列に交じったら、どうなる」
濡烏は、少しだけ笑ったように見えた。
いや、笑ったというより、口元の影がそう見えただけかもしれない。
「お前は、まだその問いをするのか」
「するだろ」
「なら覚えておけ」
濡烏の声は低い。
「列に交じることは救いではない。
居場所を得ることでもない。
ただ、ひとつの理に従うようになるだけだ」
「理」
「歩くべきときに歩き、止まるべきときに止まり、振り返るべきでないところで振り返らぬ。そうして、列は列として続く」
夕方の光が、濡烏の肩を薄く染める。
昼の白とは違う。
金にも朱にもなりきらない、曖昧な色だった。
その色の中で、濡烏の黒だけが少しずつ深くなる。
「自分の意志は?」
そう訊くと、濡烏は短く答えた。
「残る」
それから、冷たく付け足す。
「だが、薄い」
意志が無くなるんじゃない。
残る。
残るが、薄くなる。
自分のままで、自分のままじゃいられなくなる。
その感じが、夜の怪異よりよほど嫌だった。
道はいつの間にか、駅裏の高架へ近づいていた。
昼間にも通った場所のはずなのに、夕方になると全然違う。
コンクリートの柱は光を失い、代わりに影の方が質量を持ちはじめる。
自販機の白はまだ白い。
でも、その白さの縁が少し黄ばんで見える。
空の青も薄れ、雲の下側に鈍い灰色が溜まりはじめていた。
「……始まってるのか」
濡烏は、すぐには答えない。
高架下の入口で一度立ち止まり、そこから先の暗がりを見ている。
「まだ端だ」
やがて言う。
「だが、夕はもうこちらへ傾いている」
高架の向こうで、電車が通った。
鉄の震えが遅れて降ってくる。
その音が消えたあと、ほんの一瞬だけ、町全体が息を潜めたように感じた。
人はまだいる。
車も通る。
どこかの店先では笑い声もする。
なのに、その全部の下に、もう一つ別の静けさが敷かれ始めていた。
それは、音がないという静けさじゃない。
音を一段深いところへ沈める静けさだ。
濡烏が、歩き出す。
「夕のつなぎ目では、よく見ようとするな」
「なんで」
「見ようとする目ほど、向こうに引かれる」
「感じろ。
色の変わり方を。
音の引き方を。
人の世がどこで半歩退くかを」
俺は何も言わず、その背を追った。
高架下は、昼間より少し広く見える。
柱と柱のあいだの暗がりが、奥へ奥へ続いているようだった。
壁に貼られた古い広告。
剥がれかけた注意書き。
排水溝に溜まった黒い水。
どれも現実のもののはずなのに、もう半分だけ別の理に触れているみたいに見える。
高架を抜けると、そこは駅裏の細道だった。
表の駅前は、まだ人で明るいだろう。
けれど、裏は違う。
小さな飲み屋の提灯が、まだ完全には灯りきらないまま赤く滲んでいる。
閉じかけたシャッター。
積まれたビールケース。
自転車の籠に置かれた買い物袋。
日常の続きのはずなのに、その全部の輪郭がわずかに朧んでいた。
ここが夕のつなぎ目なのだと、説明される前から分かった。
昼のように削らない。
朝のように戻さない。
夜のように強く引きもしない。
ただ、ほどく。
町の輪郭を。
人の暮らしとその外側の境を。
こちらと向こうのあいだにあった線を。
「……百鬼夜行は、どこを通る」
濡烏は足を止めずに答える。
「決まった道を通るわけではない」
「は?」
「道が列に合わせて生まれる」
その答えは、いかにも濡烏らしかった。
意味が分かるようで、すぐには足場にならない。
「人の世が半歩退いたところを通る。
人の気配がまだ残っているのに、人の意志だけが薄い場所を通る。
駅裏。
高架下。
川沿い。
シャッター街。
橋の上。
そういうところだ」
そこで濡烏は、ようやく振り返った。
「お前が今まで歩かされてきた場所を思い返せ」
その言葉で、胸の奥に嫌な納得が落ちる。
高架下。
川沿い。
歩道橋。
駅裏。
シャッター街。
全部、偶然じゃなかったのだ。
「列は、何もない夜道を好まぬ」
濡烏が言う。
「人の世の名残がある場所ほどよい。
すでに捨てられた場所ではなく、まだ使われているのに少しだけ余った場所を通る」
完全な廃墟じゃない。
誰もいない山奥でもない。
ちゃんと人がいる町の中に、少しだけ余った隙間がある。
百鬼夜行はそこを通る。
つまり、人の世のすぐ横を。
「……じゃあ、見ようと思えば誰でも見えるのか」
濡烏は、首を横に振った。
「見えぬ」
「なんで」
「人は、帰る時刻には帰るからだ」
短い答えだった。
でも、それだけで十分だった。
家へ帰る者。
灯りの下へ戻る者。
湯気の立つ食卓へ向かう者。
そういう者たちは、夕のつなぎ目の薄さに気づかない。
気づかないまま、自分の暮らしの方へ入っていく。
帰れないものだけが、ここに残る。
「……俺は、残る側なんだな」
「今さら何を言う」
濡烏の声には、またしても情がない。
「お前はすでに、帰る流れから外れている」
その一言が、夕方の空気の中でやけに重かった。
駅裏の道の先で、街灯がひとつ灯った。
まだ早い。
それでも、夕の薄さの中では、その灯りはひどく古く見える。
白ではない。
少し黄ばんだ色。
押し入れの奥から出した紙みたいな色だった。
「近い」
濡烏が言う。
「何が」
訊いた瞬間、答えなんて分かっていた。
「列だ」
その二文字は、叫びでも囁きでもなく、ただ事実として置かれた。
風が止む。
いや、止んだように感じただけかもしれない。
駅のざわめきはまだ遠くにある。
車の音も、店の笑い声も消えていない。
なのに、それら全部が半歩だけ遠のく。
生活の音が、少しだけ退く。
灯りの色が、ほんの少し古くなる。
道の奥行きが、目に見えないところで深くなる。
濡烏は、前を見たまま言った。
「ここから先は、見るなとは言わん。だが、見すぎるな」
「違いが分からない」
「分からなくていい」
冷たい声だった。
「分かろうとするな。
分からぬまま、お前の内側が何にどう反応するかだけを見ていろ」
そう言って、濡烏は歩みを緩める。
俺もそれに合わせて進む。
もう夜ではない。
まだ夜ではない。
なのに、夕のつなぎ目の先では、町の方が、静かに別の顔へ傾き始めていた。
その奥に、まだ見えない列がいる。
黄ばんだ灯り。
形の定まらない影。
声のない流れ。
まだ見えない。
見えないが、もうそこにあると分かる。
濡烏の黒い背が、少し先で止まった。
「この先からだ」
俺は息を止めた。
目の前の道は、ただの駅裏の細道にしか見えない。
古びた壁。
ひび割れた路面。
積まれたケース。
半分だけ開いたシャッター。
そのどこにも、まだ“異形”はない。
それなのに、空気だけが違う。
町が、ほんの少しだけ道を譲っている。
俺は、喉の奥に乾いたままの息を抱え、その先の暗がりを見た。
百鬼夜行は、まだ姿を見せていない。
けれど、その寸前の気配だけが、夕の薄さの中で静かに息をしていた。




