表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/27

13

 俺は、息を吸った。

 吸い込んだはずの空気が、胸の奥までまっすぐ落ちてこない。

 白い光の手前で、呼吸そのものが一度ほどける。

 肺に入る前に、どこか別の場所へ逃げてしまうみたいだった。


 それでも、行くしかなかった。

 濡烏の背が先に、あの薄く白い場所へ入っていく。

 黒い輪郭は。消えない。

 ただ、昼の明るさの中でいったん細かくほどけて、それが向こう側でまた、何事もなかったみたいに結び直される。

 俺は、そのあとを追った。


 一歩。


 踏み出した瞬間、光が増した。

 目を細めるほどじゃない。

 光が空から降ってくるのでもじゃない。

 アスファルトも、ビルの壁も、ガラスも、看板も、あらゆる表面が白さを返してきて、逃げ場なく視界を満たしてくる。

 世界そのものが、ひとつの巨大な反射板になったみたいだった。


 二歩目で、音が変わる。

 消えたわけじゃない。

 車の走る音も、信号の電子音も、遠くのアナウンスも、たしかに聞こえる。

 けれど、そのどれもが妙に整いすぎている。

 奥行きがない。

 箱の中で鳴らしたみたいに平たい。

 人の生活の中で鳴っている音なのに、生活そのものから薄く剥がれて届いてくる。


 三歩目で、足元が軽くなった。

 浮いてはいない。

 沈んでもいない。

 ただ、自分の重さだけが、世界の側から一瞬だけためらわれる。

 踏んでいる。

 それなのに、昼の地面が最後までは俺を受け取らない。


 そこでようやく、つなぎ目を越えたのだと分かった。

 前を見る。

 そこには、昼の町があった。

 高い空。

 白い光。

 ビルの窓に映る雲。

 道路の白線。

 ガードレールの銀。

 駅前へ急ぐ人の流れ。

 何もかもが正しい。

 正しすぎて、少しだけ現実味がなかった。


 コンビニの看板の赤が、赤すぎる。

 青も、緑も、見慣れているはずなのに、塗りたての絵の具みたいに新しい。

 横断歩道の白は白すぎて、影の黒は黒すぎた。

 昼は、朝のような余白をひとつも残していない。


 それなのに。

 その全部が、俺には遠かった。

 すぐ目の前にある。

 手を伸ばせば届きそうな位置に、ガラスも、標識も、人の肩もある。

 けれど、その「届きそう」の手前に、見えない薄い膜が何枚も挟まっている。


 俺は、歩道の端で、しばらく立ち止まった。

 向こうから、ベビーカーを押した女の人が来る。

 日除けの下で子どもは、眠っているらしく、静かだった。

 女の人は、片手でハンドルを押し、もう片方の手でスマホを見ている。

 その後ろを、小学生の男の子がランドセルを揺らして追いかける。

 靴底がタイルを蹴るたび、小さな乾いた音がした。

 その音が、妙に眩しかった。

 音が眩しいなんて、自分でもおかしな話だと思う。

 でも、そうとしか言えなかった。

 昼の生活の音は、光を持っている。

 今日の中を、ためらいなく進んでいく音だ。

 そこに俺の分はない。

 女の人と子どもは、そのまま俺の横を通り過ぎていった。

 少し肩を引けばぶつかるくらいの距離だった。

 それでも、誰も俺を見ない。

 見ないまま、当然のように前へ進む。

「見えるか」

 濡烏の声が、少し前から落ちてくる。

 振り向く。

 昼の中の濡烏は、夜よりも異形だった。

 暗がりに紛れていたときより、ずっと人の形に近い。

 近いのに、その近さのぶんだけ不自然だ。

 黒い。

 けれど、ただ黒いのではない。

 明るさの中にだけ残る染みみたいな、洗い落とせなかった影みたいな、そんな説明のつかない黒さだった。

「……何が」

 訊き返した自分の声が、思っていたより掠れていた。

「お前が零れている形だ」

 濡烏は言う。

「夜は、お前を向こうへ引く。

 朝は、お前をこちらへ戻さぬ。

 昼は、その間に立つお前の欠けを、輪郭のまま見せる」


 俺は、目の前の町を見た。

 駅前の時計。

 店先の幟。

 階段を上がる会社員。

 配送トラックの後ろで荷物を下ろす男。

 昼へ向かう景色のどこにも、迷いがない。

 迷っているのは俺だけだった。

 いや、迷っているというより、もう流れの外にいる。

 外にいるくせに、まだその流れを見てしまう。

 それがどうしようもなく惨めだった。


 信号が変わる。

 横断歩道に人が流れ出す。

 白い線の上に、短い影が次々と重なる。

 昼の影は短い。

 朝みたいに長く尾を引かない。

 だから、誰の影も自分の足元へきっちり収まって見えた。

 俺の影はどうだ。

 そう思って、足元を見る。

 影はある。

 けれど、余りにも薄い。

 しかも、薄いだけじゃない。

 輪郭が、曖昧だった。

 ちゃんと日の向きに従って落ちているはずなのに、ところどころ地面から浮いて見える。

 昼の光にさえ、俺は最後まで定着できていない。

「……これ以上、何が削れる」

 思わずそう言っていた。

 名はない。

 戻る場所もない。

 夜も朝も、もう普通の顔では触れてこない。

 これ以上、何を失うというのか。

 濡烏は、少し黙ってから答えた。

「お前は、失うものを大きく考えすぎる」

「は?」

「もっと細いものから、先に削れるものだ」

 昼の光が、濡烏の肩の輪郭を白く掠めている。

 黒と白の境目だけが、そこできれいに滲んでいた。

「目の留まり方、痛みの残り方だ。

 他人を見て苦しいと思う、その遅さや鈍さだ」

 その言葉は、思った以上に深く刺さった。

 女子高生の背中を見て痛かった。

 朝のパン屋の灯りが遠かった。

 映らない自分を見て寒かった。

「お前は、まだ人の昼を見て苦しめる」

 濡烏が言う。

「それを失うときが来る」

「……そんなの、楽になるだけじゃないのか」

 言った瞬間、自分でその言葉を嫌った。

 楽になりたいのか。

 これ以上、痛みたくないのか。

 そのくせ、自分が痛まなくなる未来を想像した途端、もっと深い恐怖が来る。

 濡烏は即座に切り捨てた。

「楽ではない」

 乾いた声だった。

「鈍るだけだ。

 鈍って、零れて、何も抱えられなくなるだけだ」


 表通りの向こうで、飲食店の扉が開く。

 冷房の風がふっと外へ漏れ、暖簾が少しだけ揺れた。

 そんな些細な動きさえ、今の俺には、遠い出来事みたいに見える。

「昼は、神の顔に少し似ている」

 不意に、濡烏がそう言った。

 俺は、思わず顔を上げた。

「……神?」

「等しく照らすからだ」

 濡烏の目は、昼の光の中でも鈍く濡れている。

「だが、等しく照らすものは、等しく救うわけではない。

 照らされるほど、そこに在るものと在れぬものの違いが見える」

 白い光。

 短い影。

 ガラスに映る空。

 全部が平等に明るい。

 でも、俺は、その平等さに混ざれない。


 昼は残酷だ。

 けれど、それだけじゃ足りない。

 昼は美しすぎる。

 美しすぎるからこそ、欠けたものを欠けたまま見せる。

「お前は、この先で何度か選ぶ」

 俺は、黙って聞いた。

「大きな選択ではない。

 もっと細い。

 見るか、逸らすか。

 苦しむか、鈍るか。

 立ち止まるか、まだ歩くか。

 そういう小さな選び方の積み重ねが、お前の行く末を決める」

 その言い方は、濡烏にしては、少しだけ異質だった。

 慰めでも励ましでもない。

 しかし、ただ断罪するだけでもない。

 俺の先には、どうせ大きな絶望しかないのだろう。

 それでも、その手前でまだ選ばされるものがある。

 そう言われると、かえって息が詰まった。

「……じゃあ、今は」

 濡烏は、表通りの向こうではなく、足元の薄い白を見た。

「今は、ただ越えるだけだ」

 それ以上は何も足さない。


 俺はもう一度、昼の町を見た。

 人がいる。

 音がある。

 店が開く。

 看板が光る。

 どこまでも普通の、どこまでも正しい昼だ。

 その中へ、自分の未来の欠けた形だけが、先に置かれている気がした。

 見たくない。

 でも、もう目を閉じたままではいられない。


 濡烏が、歩き出す。

 昼の光に押されながら、それでも消えない黒。

 その背中は、明るい世界の中に残された、最後の傷口みたいだった。

 俺は、喉の奥に乾いたものを残したまま、その背を追った。

 昼のつなぎ目の向こう側へ、さらに深く。


 そこから先、時間は目に見えない刃物みたいになった。

 昼の中を歩いているだけなのに、何かが少しずつ削れていく感じがある。

 痛みが増すんじゃない。

 逆だった。

 最初にあった鋭い違和感が、歩くにつれてゆっくりと薄くなっていく。


 苦しさが和らぐなら、本来は楽になるはずだ。

 でも、これは違う。

 和らいでいるんじゃない。

 削られている。

 昼の光が、俺の中に残っている何かの尖りを、少しずつ摩耗させていく。


 駅前を抜け、商店街へ入り、そこから、また川沿いの遊歩道へ出る。

 町の形は普通だった。

 昼の顔をしている。

 学生服の群れ。

 買い物袋。

 橋の上を渡る自転車。

 工事の音。

 コンビニから出てくる男の手に握られたペットボトル。

 どれも、この世界にちゃんと根を張っていた。

 俺だけが、そこへ根を下ろせない。

 その事実は変わらないのに、変わらないことへの痛みが、歩くたびに少しずつ鈍っていく気がした。


 濡烏は、何も言わなかった。

 ただ、影の薄い場所、光の跳ね返りが強い場所、人の流れの少し外側ばかりを選んで進んでいく。

 昼の中の濡烏は、夜よりも静かだった。

 存在感が、弱いわけではない。

 明るさの中にいるせいで、消えない黒として余計に目立つ。

 そして、余計なことを何ひとつ言わない。

 まるで、昼そのものに喋らせているみたいだった。


 川沿いの柵に手をかける女がいた。

 スマホで水面を撮っている。

 その横で、小さな子どもがしゃがみ込み、石を拾って、また落とす。

 石が乾いた音を立てる。

 子どもが笑う。

 俺は、その笑い声を聞いて、立ち止まりそうになった。

 ついさっきまでなら、もっと胸が痛んだはずだ。

 普通の昼の中にいる他人を見るたび、もっとはっきり苦しかったはずだ。

 それが今は、ほんの少しだけ遠い。

 遠くなったぶん、ぞっとした。

「……おい」

 濡烏は、少し先で立ち止まった。

 振り返る。

 昼の光の中で、その黒はやはり傷痕みたいだった。

「もう始まっている」

 濡烏が言う。

 俺は息を呑む。

「何が」

「削れることがだ」

 低い声だった。

 責めてもいない。

 脅してもいない。

 ただ、そこにある事実だけを示す声だ。

 俺は、自分の胸の奥を探った。

 苦しい。

 まだ苦しい。

 だが、その苦しさの輪郭が、さっきより少しだけ曖昧になっている。

「嫌だ」

 反射的に、言葉をそのまま出した。

「嫌なら、見続けろ」

 濡烏は言う。

「昼に削られるものは、目を逸らした分早い」

 その言葉に、俺はまた前を向いた。


 川の水は白い光を細かく砕いている。

 風に揺れる草。

 橋の影。

 マンションのベランダに干された布団。

 郵便配達のバイク。

 そのどれもが、昼の中で鮮明だった。

 目に映る。

 意味も分かる。

 それでも、そこに心が引っかかる力だけが薄れていく。

 これが削れるということなのかと、遅れて分かった。

 大きな何かを奪われるんじゃない。

 もっと細いところから失っていく。

 目を止める力。

 痛みを返す力。

 世界に対して、自分がまだ反応できるという、その小さな証拠。

 それが減っていく。

「昼は、正しすぎるんだよ」

 気づけば、そう口にしていた。

 濡烏は、歩きながら答える。

「だから削れる」

「夜みたいに、怖い方がまだましだ」

 俺は、吐き捨てるように言った。

「そうだろうな」

 濡烏の声は、平らだった。

「だが、お前が本当に落ちるのは、たいてい恐怖の中ではない。明るさの中で鈍ったあとだ」

 その一言が、骨の内側に入ってくる。


 俺はもう一度、町を見た。

 美しいほど普通の昼だ。

 白い空。

 短い影。

 開いた店。

 行き交う人。

 その全部が、俺のいないところで完成している。

 俺はその完成の外を歩いている。

 そのことにまだ痛める。

 まだ寒いと思える。

 まだ、置いていかれたと感じられる。

 そして、本当に怖いのはこの先だ。

 それすら感じなくなったとき。

 昼を見ても何も思わなくなったとき。

 自分がどこから零れたのか、どうでもよくなったとき。

 それが、やって来る。

 昼の光は、その予感だけを、丁寧に照らしていた。


 いつの間にか、空の色が少し変わっていた。

 真上から落ちていた白が、ほんのわずかに傾きはじめている。

 影はまだ短い。

 けれど、足元に収まっていた黒が、少しだけ長くなりかけていた。

 昼は、まだ終わっていない。

 それでも、どこかで次の時間の気配が生まれ始めている。


 濡烏は、その変化を知っているみたいに歩く速度を少しだけ緩めた。

「止まるな」

 低い声が言う。

「昼の終わりは、昼の始まりより厄介だ」

 その言葉に、胸の奥がまた小さく鳴った。


 まだ次のつなぎ目は見えていない。

 けれど、その手前までは、もう来ているのだと分かる。

 白すぎた光が、少しずつ色を持ち始める。

 ガラスの反射がやわらぎ、道路の熱も薄くなっていく。

 それでも昼はなお、正しい顔を崩さない。

 崩さないまま、次の境へ俺を押していく。

 俺は喉の奥に残った乾きを、何度も飲み込もうとした。

 飲み込めないまま、それでも濡烏の背を追った。

 昼のつなぎ目の向こう側を抜け、夕がまだ顔を見せる前の、いちばん曖昧で、いちばん逃げにくい時間へ向かって。    

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ