13
俺は、息を吸った。
吸い込んだはずの空気が、胸の奥までまっすぐ落ちてこない。
白い光の手前で、呼吸そのものが一度ほどける。
肺に入る前に、どこか別の場所へ逃げてしまうみたいだった。
それでも、行くしかなかった。
濡烏の背が先に、あの薄く白い場所へ入っていく。
黒い輪郭は。消えない。
ただ、昼の明るさの中でいったん細かくほどけて、それが向こう側でまた、何事もなかったみたいに結び直される。
俺は、そのあとを追った。
一歩。
踏み出した瞬間、光が増した。
目を細めるほどじゃない。
光が空から降ってくるのでもじゃない。
アスファルトも、ビルの壁も、ガラスも、看板も、あらゆる表面が白さを返してきて、逃げ場なく視界を満たしてくる。
世界そのものが、ひとつの巨大な反射板になったみたいだった。
二歩目で、音が変わる。
消えたわけじゃない。
車の走る音も、信号の電子音も、遠くのアナウンスも、たしかに聞こえる。
けれど、そのどれもが妙に整いすぎている。
奥行きがない。
箱の中で鳴らしたみたいに平たい。
人の生活の中で鳴っている音なのに、生活そのものから薄く剥がれて届いてくる。
三歩目で、足元が軽くなった。
浮いてはいない。
沈んでもいない。
ただ、自分の重さだけが、世界の側から一瞬だけためらわれる。
踏んでいる。
それなのに、昼の地面が最後までは俺を受け取らない。
そこでようやく、つなぎ目を越えたのだと分かった。
前を見る。
そこには、昼の町があった。
高い空。
白い光。
ビルの窓に映る雲。
道路の白線。
ガードレールの銀。
駅前へ急ぐ人の流れ。
何もかもが正しい。
正しすぎて、少しだけ現実味がなかった。
コンビニの看板の赤が、赤すぎる。
青も、緑も、見慣れているはずなのに、塗りたての絵の具みたいに新しい。
横断歩道の白は白すぎて、影の黒は黒すぎた。
昼は、朝のような余白をひとつも残していない。
それなのに。
その全部が、俺には遠かった。
すぐ目の前にある。
手を伸ばせば届きそうな位置に、ガラスも、標識も、人の肩もある。
けれど、その「届きそう」の手前に、見えない薄い膜が何枚も挟まっている。
俺は、歩道の端で、しばらく立ち止まった。
向こうから、ベビーカーを押した女の人が来る。
日除けの下で子どもは、眠っているらしく、静かだった。
女の人は、片手でハンドルを押し、もう片方の手でスマホを見ている。
その後ろを、小学生の男の子がランドセルを揺らして追いかける。
靴底がタイルを蹴るたび、小さな乾いた音がした。
その音が、妙に眩しかった。
音が眩しいなんて、自分でもおかしな話だと思う。
でも、そうとしか言えなかった。
昼の生活の音は、光を持っている。
今日の中を、ためらいなく進んでいく音だ。
そこに俺の分はない。
女の人と子どもは、そのまま俺の横を通り過ぎていった。
少し肩を引けばぶつかるくらいの距離だった。
それでも、誰も俺を見ない。
見ないまま、当然のように前へ進む。
「見えるか」
濡烏の声が、少し前から落ちてくる。
振り向く。
昼の中の濡烏は、夜よりも異形だった。
暗がりに紛れていたときより、ずっと人の形に近い。
近いのに、その近さのぶんだけ不自然だ。
黒い。
けれど、ただ黒いのではない。
明るさの中にだけ残る染みみたいな、洗い落とせなかった影みたいな、そんな説明のつかない黒さだった。
「……何が」
訊き返した自分の声が、思っていたより掠れていた。
「お前が零れている形だ」
濡烏は言う。
「夜は、お前を向こうへ引く。
朝は、お前をこちらへ戻さぬ。
昼は、その間に立つお前の欠けを、輪郭のまま見せる」
俺は、目の前の町を見た。
駅前の時計。
店先の幟。
階段を上がる会社員。
配送トラックの後ろで荷物を下ろす男。
昼へ向かう景色のどこにも、迷いがない。
迷っているのは俺だけだった。
いや、迷っているというより、もう流れの外にいる。
外にいるくせに、まだその流れを見てしまう。
それがどうしようもなく惨めだった。
信号が変わる。
横断歩道に人が流れ出す。
白い線の上に、短い影が次々と重なる。
昼の影は短い。
朝みたいに長く尾を引かない。
だから、誰の影も自分の足元へきっちり収まって見えた。
俺の影はどうだ。
そう思って、足元を見る。
影はある。
けれど、余りにも薄い。
しかも、薄いだけじゃない。
輪郭が、曖昧だった。
ちゃんと日の向きに従って落ちているはずなのに、ところどころ地面から浮いて見える。
昼の光にさえ、俺は最後まで定着できていない。
「……これ以上、何が削れる」
思わずそう言っていた。
名はない。
戻る場所もない。
夜も朝も、もう普通の顔では触れてこない。
これ以上、何を失うというのか。
濡烏は、少し黙ってから答えた。
「お前は、失うものを大きく考えすぎる」
「は?」
「もっと細いものから、先に削れるものだ」
昼の光が、濡烏の肩の輪郭を白く掠めている。
黒と白の境目だけが、そこできれいに滲んでいた。
「目の留まり方、痛みの残り方だ。
他人を見て苦しいと思う、その遅さや鈍さだ」
その言葉は、思った以上に深く刺さった。
女子高生の背中を見て痛かった。
朝のパン屋の灯りが遠かった。
映らない自分を見て寒かった。
「お前は、まだ人の昼を見て苦しめる」
濡烏が言う。
「それを失うときが来る」
「……そんなの、楽になるだけじゃないのか」
言った瞬間、自分でその言葉を嫌った。
楽になりたいのか。
これ以上、痛みたくないのか。
そのくせ、自分が痛まなくなる未来を想像した途端、もっと深い恐怖が来る。
濡烏は即座に切り捨てた。
「楽ではない」
乾いた声だった。
「鈍るだけだ。
鈍って、零れて、何も抱えられなくなるだけだ」
表通りの向こうで、飲食店の扉が開く。
冷房の風がふっと外へ漏れ、暖簾が少しだけ揺れた。
そんな些細な動きさえ、今の俺には、遠い出来事みたいに見える。
「昼は、神の顔に少し似ている」
不意に、濡烏がそう言った。
俺は、思わず顔を上げた。
「……神?」
「等しく照らすからだ」
濡烏の目は、昼の光の中でも鈍く濡れている。
「だが、等しく照らすものは、等しく救うわけではない。
照らされるほど、そこに在るものと在れぬものの違いが見える」
白い光。
短い影。
ガラスに映る空。
全部が平等に明るい。
でも、俺は、その平等さに混ざれない。
昼は残酷だ。
けれど、それだけじゃ足りない。
昼は美しすぎる。
美しすぎるからこそ、欠けたものを欠けたまま見せる。
「お前は、この先で何度か選ぶ」
俺は、黙って聞いた。
「大きな選択ではない。
もっと細い。
見るか、逸らすか。
苦しむか、鈍るか。
立ち止まるか、まだ歩くか。
そういう小さな選び方の積み重ねが、お前の行く末を決める」
その言い方は、濡烏にしては、少しだけ異質だった。
慰めでも励ましでもない。
しかし、ただ断罪するだけでもない。
俺の先には、どうせ大きな絶望しかないのだろう。
それでも、その手前でまだ選ばされるものがある。
そう言われると、かえって息が詰まった。
「……じゃあ、今は」
濡烏は、表通りの向こうではなく、足元の薄い白を見た。
「今は、ただ越えるだけだ」
それ以上は何も足さない。
俺はもう一度、昼の町を見た。
人がいる。
音がある。
店が開く。
看板が光る。
どこまでも普通の、どこまでも正しい昼だ。
その中へ、自分の未来の欠けた形だけが、先に置かれている気がした。
見たくない。
でも、もう目を閉じたままではいられない。
濡烏が、歩き出す。
昼の光に押されながら、それでも消えない黒。
その背中は、明るい世界の中に残された、最後の傷口みたいだった。
俺は、喉の奥に乾いたものを残したまま、その背を追った。
昼のつなぎ目の向こう側へ、さらに深く。
そこから先、時間は目に見えない刃物みたいになった。
昼の中を歩いているだけなのに、何かが少しずつ削れていく感じがある。
痛みが増すんじゃない。
逆だった。
最初にあった鋭い違和感が、歩くにつれてゆっくりと薄くなっていく。
苦しさが和らぐなら、本来は楽になるはずだ。
でも、これは違う。
和らいでいるんじゃない。
削られている。
昼の光が、俺の中に残っている何かの尖りを、少しずつ摩耗させていく。
駅前を抜け、商店街へ入り、そこから、また川沿いの遊歩道へ出る。
町の形は普通だった。
昼の顔をしている。
学生服の群れ。
買い物袋。
橋の上を渡る自転車。
工事の音。
コンビニから出てくる男の手に握られたペットボトル。
どれも、この世界にちゃんと根を張っていた。
俺だけが、そこへ根を下ろせない。
その事実は変わらないのに、変わらないことへの痛みが、歩くたびに少しずつ鈍っていく気がした。
濡烏は、何も言わなかった。
ただ、影の薄い場所、光の跳ね返りが強い場所、人の流れの少し外側ばかりを選んで進んでいく。
昼の中の濡烏は、夜よりも静かだった。
存在感が、弱いわけではない。
明るさの中にいるせいで、消えない黒として余計に目立つ。
そして、余計なことを何ひとつ言わない。
まるで、昼そのものに喋らせているみたいだった。
川沿いの柵に手をかける女がいた。
スマホで水面を撮っている。
その横で、小さな子どもがしゃがみ込み、石を拾って、また落とす。
石が乾いた音を立てる。
子どもが笑う。
俺は、その笑い声を聞いて、立ち止まりそうになった。
ついさっきまでなら、もっと胸が痛んだはずだ。
普通の昼の中にいる他人を見るたび、もっとはっきり苦しかったはずだ。
それが今は、ほんの少しだけ遠い。
遠くなったぶん、ぞっとした。
「……おい」
濡烏は、少し先で立ち止まった。
振り返る。
昼の光の中で、その黒はやはり傷痕みたいだった。
「もう始まっている」
濡烏が言う。
俺は息を呑む。
「何が」
「削れることがだ」
低い声だった。
責めてもいない。
脅してもいない。
ただ、そこにある事実だけを示す声だ。
俺は、自分の胸の奥を探った。
苦しい。
まだ苦しい。
だが、その苦しさの輪郭が、さっきより少しだけ曖昧になっている。
「嫌だ」
反射的に、言葉をそのまま出した。
「嫌なら、見続けろ」
濡烏は言う。
「昼に削られるものは、目を逸らした分早い」
その言葉に、俺はまた前を向いた。
川の水は白い光を細かく砕いている。
風に揺れる草。
橋の影。
マンションのベランダに干された布団。
郵便配達のバイク。
そのどれもが、昼の中で鮮明だった。
目に映る。
意味も分かる。
それでも、そこに心が引っかかる力だけが薄れていく。
これが削れるということなのかと、遅れて分かった。
大きな何かを奪われるんじゃない。
もっと細いところから失っていく。
目を止める力。
痛みを返す力。
世界に対して、自分がまだ反応できるという、その小さな証拠。
それが減っていく。
「昼は、正しすぎるんだよ」
気づけば、そう口にしていた。
濡烏は、歩きながら答える。
「だから削れる」
「夜みたいに、怖い方がまだましだ」
俺は、吐き捨てるように言った。
「そうだろうな」
濡烏の声は、平らだった。
「だが、お前が本当に落ちるのは、たいてい恐怖の中ではない。明るさの中で鈍ったあとだ」
その一言が、骨の内側に入ってくる。
俺はもう一度、町を見た。
美しいほど普通の昼だ。
白い空。
短い影。
開いた店。
行き交う人。
その全部が、俺のいないところで完成している。
俺はその完成の外を歩いている。
そのことにまだ痛める。
まだ寒いと思える。
まだ、置いていかれたと感じられる。
そして、本当に怖いのはこの先だ。
それすら感じなくなったとき。
昼を見ても何も思わなくなったとき。
自分がどこから零れたのか、どうでもよくなったとき。
それが、やって来る。
昼の光は、その予感だけを、丁寧に照らしていた。
いつの間にか、空の色が少し変わっていた。
真上から落ちていた白が、ほんのわずかに傾きはじめている。
影はまだ短い。
けれど、足元に収まっていた黒が、少しだけ長くなりかけていた。
昼は、まだ終わっていない。
それでも、どこかで次の時間の気配が生まれ始めている。
濡烏は、その変化を知っているみたいに歩く速度を少しだけ緩めた。
「止まるな」
低い声が言う。
「昼の終わりは、昼の始まりより厄介だ」
その言葉に、胸の奥がまた小さく鳴った。
まだ次のつなぎ目は見えていない。
けれど、その手前までは、もう来ているのだと分かる。
白すぎた光が、少しずつ色を持ち始める。
ガラスの反射がやわらぎ、道路の熱も薄くなっていく。
それでも昼はなお、正しい顔を崩さない。
崩さないまま、次の境へ俺を押していく。
俺は喉の奥に残った乾きを、何度も飲み込もうとした。
飲み込めないまま、それでも濡烏の背を追った。
昼のつなぎ目の向こう側を抜け、夕がまだ顔を見せる前の、いちばん曖昧で、いちばん逃げにくい時間へ向かって。




