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 濡烏の背を追っているうちに、朝はだんだんと高くなっていった。

 白かった空に薄い青が混ざり、その青がゆっくりと深くなる。

 家々の窓は、もう完全に朝の顔をしていて、ベランダの手すりも、道路標識も、停められた車の屋根も、どれもひとつ残らず昼へ向かう光を受けはじめていた。

 それなのに、俺の中では、朝は終わっていなかった。


 朝のつなぎ目を越えてもなお、何かがずっと胸の奥に引っかかっている。

 明るくなれば薄まると思っていた違和感が、薄まるどころか、形を変えて居座っていた。

 夜は深く、朝は遠かった。

 じゃあ、昼はどうなるのか。

 その問いだけが、陽が高くなるほど、冷たくなっていく。

 濡烏は、相変わらず、影のある方だけを選ぶように歩いていた。

 朝よりも輪郭はさらに薄い。

 けれど、消えそうには見えない。

 黒が弱まっているのではなく、光の下でだけ別の濃さを持っているように見えた。

 日の光を避けているのではない。

 日の光の中で、影の方だけを本来の道として扱っている。


 俺たちは駅前を外れ、商業施設と古いビルのあいだにある細長い通りへ入った。

 表通りでは、もう人が普通に歩いている。

 スーツ姿の男。

 保育園へ急ぐ母親。

 自転車を押しながらスマホを覗く学生。

 昼に近づく町は、朝よりもさらに正しくなっていく。

 正しくなればなるほど、俺はそこから外れていく。

 朝にはまだ、眠りの名残がある。

 人の顔にも、家々の空気にも、どこか柔らかい曖昧さが残っている。

 しかし、昼へ向かう時間には、それがなくなっていく。

 生活はそれぞれの速度で前へ出る。

 人は自分の予定を持ち、行き先を持ち、今日というものを現実の形にしていく。

「……昼は、もっと現実の時間だろ」

 思わず、そう口にしていた。

 濡烏は、前を向いたまま答える。

「だからこそだ」

 いつも通りの短い声だった。

「夜は深く、朝は遠い。

 そして、昼は隠さん」


 夜は何もかもを闇に混ぜる。

 朝はまだ白さの中に、少し曖昧さを残してくれる。

 けれど、昼は違う。

 明るい。

 明るいまま、見せる。

 見える形のまま、お前はここにいてはいけないと告げてくる。


 濡烏は、ビルの谷間みたいな細道を抜け、表通りの一歩手前で止まった。

 そこは、ただの細い隙間に見えた。

 左に自販機。

 右に古いコンクリートの壁。

 足元には、誰かが落としたレシートが一枚、風もないのに端だけをわずかに震わせている。

 その先には、昼へ傾き始めている白い通りが見えていた。

 車の光。

 信号。

 ガラス張りの店。

 人の流れ。


 何の変哲もない、昼の入口のはずだった。

 だが、濡烏が立ち止まっている場所だけ、光の具合がおかしかった。

 濃い影が、あるわけじゃない。

 朝のつなぎ目みたいに、そこだけ暗いわけでもない。

 むしろ、逆だった。

 光が当たりすぎて、かえってそこだけ薄く削れて見えない。

 白い。

 白いのに空っぽだ。

 昼へ向かう光が、その一点だけを洗いすぎて、輪郭の厚みを失わせていた。

 見ていると、目の奥が、じわりと痛くなる。

「これが……昼のつなぎ目か」

 俺が言うと、濡烏は少しだけ顎を引いた。

「昼へ入るためのつなぎ目ではない」

「じゃあ何だよ」

「昼から零れるためのつなぎ目だ」

 昼から零れる。

 夜に引かれるとか、朝に戻れないとか、そういうのとは違う冷たさがあった。

 昼は人の世の中心に近い時間だ。

 そこから零れるというのは、つまり──


「お前はもう、暗い方へ寄っているだけではない」

 濡烏が言った。

「明るい方からも弾かれ始めている」

 その言葉は、静かだった。


 風が吹いた。

 表通りから、乾いた熱のないぬくみみたいなものが、流れ込んでくる。

 夏ではない。

 それでも、昼へ近づく光は、それだけで世界の表面を薄くあたためはじめていた。


 自販機の白が、朝よりさらに平らに見える。

 缶コーヒーのラベルも、ペットボトルの色も、妙にはっきり見える。

 見えるのに、そこへ手を伸ばす想像だけがうまく結べない。

 手を伸ばしたところで、たぶん俺の指先は、あの「正しい昼の明るさ」にうまく届かない。


 濡烏は、細道の壁に背を預けるでもなく、ただその場に立っていた。

 昼の光が強まるほど、あの黒は夜のものとは違って見える。

 けれど、消えることはない。

 むしろ、明るさの中でだけ浮く傷痕のような黒さになっていた。

「……この先、どうなる」

 訊くつもりはなかった。

 でも、訊かずにはいられなかった。

 濡烏は、すぐには答えない。

 表通りの信号が変わり、人の流れが一度だけほどける。

 白い日差しがビルの壁で跳ね返り、その照り返しが細道の入口まで入り込んできて、そこで止まった。

 濡烏は、その止まった光を見て、ようやく口を開いた。

「先を欲しがるな」

「教えてくれよ」

 少し、間が空く。

「お前は、こぼれた途中だ」

 その言い方に、ぞっとした。

 こぼれた途中。

 完成も終わりもなく、何かの流れから外れて落ちたもの。

 それが今の自分だと言われると、否定するものがどこにもなかった。

 濡烏は、続ける。

「夜は歩ける。

 朝には、戻れない。そして、昼からも外れはじめる」

 黒い目が、こちらを見た。

「そこまで来たものには、先が二つしかない」

 胸の奥がかすかに縮む。

 その二つが何なのか、俺はもう完全には知らないわけではなかった。


「お前は、まだ“恐れている”」

「悪いのかよ」

「悪くはない」

 濡烏は、淡々と言う。

「だが、その恐れも長くは保たん」

 その一言に、心臓が、小さく嫌な打ち方をした。

「……どういう意味だ」

 濡烏は、正面から答えない。

 いつもそうだ。

 先回りして全てを言わない。

 ただ、あとから取り消せない輪郭だけを置いていく。

「恐れがあるうちは、お前はまだお前の側にいる」

 昼の光が、自販機の角で白く滲んだ。

「だが、恐れは削れる。痛みも削れる。

 名を失ったものは、やがて失うことそのものに馴れる」

 そこで、濡烏は、僅かに間を置いた。

「そのとき、お前は今よりもっと遠くなる」

 遠く。

 その言葉は曖昧なのに、たまらなく恐ろしかった。

 取り返しのつかない遠さということは、俺でさえ分かった。

 今はまだ、朝の中で苦しいと思える。

 駅へ向かう女子高生の背中を見て痛いと思える。

 ガラスに映らない自分を見て寒いと思える。

 そういう感覚が、もし薄れていったら。

 それは、決して楽になることではなかった。

「……俺は、そうなるのか」

 やっとそれだけを言う。

「気を抜けばな」

「気を抜くって、何だよ。

 俺はもう、名前も無いし、戻る場所も無いんだぞ」

「だからだ」

 濡烏が言う。

「戻れぬ者ほど、流されやすい。

 寄る辺が無い者ほど、終わり方に意志を持たねばならん」

 その言葉は、昼へ向かう光の中で、夜よりも硬く聞こえた。

 意志。

 そんなものが、まだ自分に残っているのか分からない。

 死ぬ勇気すら最後まで無かった。

 死んだあとも、名前が消えたことにすら気づけなかった。

 濡烏に引かれて、やっとここまで来ただけだ。

 それでも、こいつは俺に「意志を持て」と言う。

 残酷だと思った。

 だが、それ以外に残っているものが、本当に無いのかもしれなかった。


 表通りの向こうで、信号待ちの子どもが、母親の手を引いて何かを指差していた。

 昼に近づく町は、朝よりも影が短く、物の輪郭が白い光の中でくっきりしている。

 それが嫌だった。

 正しすぎる。

 明るすぎる。

「昼は残酷だ」

 濡烏が言った。

「夜は隠す。

 朝は遠ざける。

 昼は、照らし出したまま容赦しない」

 独り言みたいな声だった。

「お前がこの先、何を失っていくのか。

 何が削れていくのか。

 昼は、その輪郭だけを先に見せる」


 俺は、細道の向こうの白い通りを見た。

 人がいる。

 音がある。

 ガラスが光る。

 看板の文字が読める。

 駅前へ流れていく足取りのひとつひとつが、しっかりと今日の中にある。

 その眩しさの中に、自分の行く末の“形”だけが、もう先に置かれている気がした。

「……見たくないって言ったら」

 濡烏は少しも間を置かなかった。

「それでも見る」

 低い声が、細道の影に落ちる。

「昼は、お前の目を閉じさせたままでは済まさん」

 それ以上は言わなかった。


 沈黙が落ちる。

 けれど、その沈黙の中には何も無いわけじゃない。

 言葉にならなかった予兆だけが、昼の光の手前で静かに息をしている。


 濡烏が、つなぎ目へ一歩近づいた。

 白い。

 薄い。

 浅いはずなのに、底が見えない。

 濡烏は、振り返らずに言う。

「来い」

 短い声だった。

「この先で、お前は昼の理を見る。

 だが、まだ全部は知るな。

 知りすぎれば、お前は今ここで折れる」

 折れる。

 昼のつなぎ目の先には、それほどのものがあるのか。

 朝の遠さとは違う。

 夜の不気味さとも違う。

 もっと露骨で、もっと逃げ場のない何かが待っている。


 俺は喉の奥に乾いたものを抱えたまま、濡烏の背を見た。

 昼に押されながら、それでも消えない黒。

 まるで、明るさの中に最後まで抜けない傷のようだった。

 俺はまだ、その先の景色を見ていない。


 見ていないのに、胸の奥のどこかではもう分かっていた。

 たぶん、朝よりもずっと、俺の行く末に近い。

 濡烏は何も急かさなかった。

 けれど待ってもいなかった。

 ただ、先に立っている。

 俺が来ることを当然のこととして、昼のつなぎ目の前に立っている。

 

 その薄く白い境目の向こうに、まだ見ぬ昼がある。


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