12
濡烏の背を追っているうちに、朝はだんだんと高くなっていった。
白かった空に薄い青が混ざり、その青がゆっくりと深くなる。
家々の窓は、もう完全に朝の顔をしていて、ベランダの手すりも、道路標識も、停められた車の屋根も、どれもひとつ残らず昼へ向かう光を受けはじめていた。
それなのに、俺の中では、朝は終わっていなかった。
朝のつなぎ目を越えてもなお、何かがずっと胸の奥に引っかかっている。
明るくなれば薄まると思っていた違和感が、薄まるどころか、形を変えて居座っていた。
夜は深く、朝は遠かった。
じゃあ、昼はどうなるのか。
その問いだけが、陽が高くなるほど、冷たくなっていく。
濡烏は、相変わらず、影のある方だけを選ぶように歩いていた。
朝よりも輪郭はさらに薄い。
けれど、消えそうには見えない。
黒が弱まっているのではなく、光の下でだけ別の濃さを持っているように見えた。
日の光を避けているのではない。
日の光の中で、影の方だけを本来の道として扱っている。
俺たちは駅前を外れ、商業施設と古いビルのあいだにある細長い通りへ入った。
表通りでは、もう人が普通に歩いている。
スーツ姿の男。
保育園へ急ぐ母親。
自転車を押しながらスマホを覗く学生。
昼に近づく町は、朝よりもさらに正しくなっていく。
正しくなればなるほど、俺はそこから外れていく。
朝にはまだ、眠りの名残がある。
人の顔にも、家々の空気にも、どこか柔らかい曖昧さが残っている。
しかし、昼へ向かう時間には、それがなくなっていく。
生活はそれぞれの速度で前へ出る。
人は自分の予定を持ち、行き先を持ち、今日というものを現実の形にしていく。
「……昼は、もっと現実の時間だろ」
思わず、そう口にしていた。
濡烏は、前を向いたまま答える。
「だからこそだ」
いつも通りの短い声だった。
「夜は深く、朝は遠い。
そして、昼は隠さん」
夜は何もかもを闇に混ぜる。
朝はまだ白さの中に、少し曖昧さを残してくれる。
けれど、昼は違う。
明るい。
明るいまま、見せる。
見える形のまま、お前はここにいてはいけないと告げてくる。
濡烏は、ビルの谷間みたいな細道を抜け、表通りの一歩手前で止まった。
そこは、ただの細い隙間に見えた。
左に自販機。
右に古いコンクリートの壁。
足元には、誰かが落としたレシートが一枚、風もないのに端だけをわずかに震わせている。
その先には、昼へ傾き始めている白い通りが見えていた。
車の光。
信号。
ガラス張りの店。
人の流れ。
何の変哲もない、昼の入口のはずだった。
だが、濡烏が立ち止まっている場所だけ、光の具合がおかしかった。
濃い影が、あるわけじゃない。
朝のつなぎ目みたいに、そこだけ暗いわけでもない。
むしろ、逆だった。
光が当たりすぎて、かえってそこだけ薄く削れて見えない。
白い。
白いのに空っぽだ。
昼へ向かう光が、その一点だけを洗いすぎて、輪郭の厚みを失わせていた。
見ていると、目の奥が、じわりと痛くなる。
「これが……昼のつなぎ目か」
俺が言うと、濡烏は少しだけ顎を引いた。
「昼へ入るためのつなぎ目ではない」
「じゃあ何だよ」
「昼から零れるためのつなぎ目だ」
昼から零れる。
夜に引かれるとか、朝に戻れないとか、そういうのとは違う冷たさがあった。
昼は人の世の中心に近い時間だ。
そこから零れるというのは、つまり──
「お前はもう、暗い方へ寄っているだけではない」
濡烏が言った。
「明るい方からも弾かれ始めている」
その言葉は、静かだった。
風が吹いた。
表通りから、乾いた熱のないぬくみみたいなものが、流れ込んでくる。
夏ではない。
それでも、昼へ近づく光は、それだけで世界の表面を薄くあたためはじめていた。
自販機の白が、朝よりさらに平らに見える。
缶コーヒーのラベルも、ペットボトルの色も、妙にはっきり見える。
見えるのに、そこへ手を伸ばす想像だけがうまく結べない。
手を伸ばしたところで、たぶん俺の指先は、あの「正しい昼の明るさ」にうまく届かない。
濡烏は、細道の壁に背を預けるでもなく、ただその場に立っていた。
昼の光が強まるほど、あの黒は夜のものとは違って見える。
けれど、消えることはない。
むしろ、明るさの中でだけ浮く傷痕のような黒さになっていた。
「……この先、どうなる」
訊くつもりはなかった。
でも、訊かずにはいられなかった。
濡烏は、すぐには答えない。
表通りの信号が変わり、人の流れが一度だけほどける。
白い日差しがビルの壁で跳ね返り、その照り返しが細道の入口まで入り込んできて、そこで止まった。
濡烏は、その止まった光を見て、ようやく口を開いた。
「先を欲しがるな」
「教えてくれよ」
少し、間が空く。
「お前は、こぼれた途中だ」
その言い方に、ぞっとした。
こぼれた途中。
完成も終わりもなく、何かの流れから外れて落ちたもの。
それが今の自分だと言われると、否定するものがどこにもなかった。
濡烏は、続ける。
「夜は歩ける。
朝には、戻れない。そして、昼からも外れはじめる」
黒い目が、こちらを見た。
「そこまで来たものには、先が二つしかない」
胸の奥がかすかに縮む。
その二つが何なのか、俺はもう完全には知らないわけではなかった。
「お前は、まだ“恐れている”」
「悪いのかよ」
「悪くはない」
濡烏は、淡々と言う。
「だが、その恐れも長くは保たん」
その一言に、心臓が、小さく嫌な打ち方をした。
「……どういう意味だ」
濡烏は、正面から答えない。
いつもそうだ。
先回りして全てを言わない。
ただ、あとから取り消せない輪郭だけを置いていく。
「恐れがあるうちは、お前はまだお前の側にいる」
昼の光が、自販機の角で白く滲んだ。
「だが、恐れは削れる。痛みも削れる。
名を失ったものは、やがて失うことそのものに馴れる」
そこで、濡烏は、僅かに間を置いた。
「そのとき、お前は今よりもっと遠くなる」
遠く。
その言葉は曖昧なのに、たまらなく恐ろしかった。
取り返しのつかない遠さということは、俺でさえ分かった。
今はまだ、朝の中で苦しいと思える。
駅へ向かう女子高生の背中を見て痛いと思える。
ガラスに映らない自分を見て寒いと思える。
そういう感覚が、もし薄れていったら。
それは、決して楽になることではなかった。
「……俺は、そうなるのか」
やっとそれだけを言う。
「気を抜けばな」
「気を抜くって、何だよ。
俺はもう、名前も無いし、戻る場所も無いんだぞ」
「だからだ」
濡烏が言う。
「戻れぬ者ほど、流されやすい。
寄る辺が無い者ほど、終わり方に意志を持たねばならん」
その言葉は、昼へ向かう光の中で、夜よりも硬く聞こえた。
意志。
そんなものが、まだ自分に残っているのか分からない。
死ぬ勇気すら最後まで無かった。
死んだあとも、名前が消えたことにすら気づけなかった。
濡烏に引かれて、やっとここまで来ただけだ。
それでも、こいつは俺に「意志を持て」と言う。
残酷だと思った。
だが、それ以外に残っているものが、本当に無いのかもしれなかった。
表通りの向こうで、信号待ちの子どもが、母親の手を引いて何かを指差していた。
昼に近づく町は、朝よりも影が短く、物の輪郭が白い光の中でくっきりしている。
それが嫌だった。
正しすぎる。
明るすぎる。
「昼は残酷だ」
濡烏が言った。
「夜は隠す。
朝は遠ざける。
昼は、照らし出したまま容赦しない」
独り言みたいな声だった。
「お前がこの先、何を失っていくのか。
何が削れていくのか。
昼は、その輪郭だけを先に見せる」
俺は、細道の向こうの白い通りを見た。
人がいる。
音がある。
ガラスが光る。
看板の文字が読める。
駅前へ流れていく足取りのひとつひとつが、しっかりと今日の中にある。
その眩しさの中に、自分の行く末の“形”だけが、もう先に置かれている気がした。
「……見たくないって言ったら」
濡烏は少しも間を置かなかった。
「それでも見る」
低い声が、細道の影に落ちる。
「昼は、お前の目を閉じさせたままでは済まさん」
それ以上は言わなかった。
沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙の中には何も無いわけじゃない。
言葉にならなかった予兆だけが、昼の光の手前で静かに息をしている。
濡烏が、つなぎ目へ一歩近づいた。
白い。
薄い。
浅いはずなのに、底が見えない。
濡烏は、振り返らずに言う。
「来い」
短い声だった。
「この先で、お前は昼の理を見る。
だが、まだ全部は知るな。
知りすぎれば、お前は今ここで折れる」
折れる。
昼のつなぎ目の先には、それほどのものがあるのか。
朝の遠さとは違う。
夜の不気味さとも違う。
もっと露骨で、もっと逃げ場のない何かが待っている。
俺は喉の奥に乾いたものを抱えたまま、濡烏の背を見た。
昼に押されながら、それでも消えない黒。
まるで、明るさの中に最後まで抜けない傷のようだった。
俺はまだ、その先の景色を見ていない。
見ていないのに、胸の奥のどこかではもう分かっていた。
たぶん、朝よりもずっと、俺の行く末に近い。
濡烏は何も急かさなかった。
けれど待ってもいなかった。
ただ、先に立っている。
俺が来ることを当然のこととして、昼のつなぎ目の前に立っている。
その薄く白い境目の向こうに、まだ見ぬ昼がある。




