11
最初の一歩では、何も起きなかったように思えた。
夜のつなぎ目を越えたときのような、あからさまな異様さはない。
段差もなければ、壁もない。
ただ、公園の入口の脇、掲示板の裏と植え込みのあいだに落ちた細い影へ、そっと足を差し入れただけだった。
けれど、二歩目で分かった。
朝の空気が、俺を受け止めない。
朝の冷たさは、たしかにある。
頬のそばを通り過ぎていくから。
だが、その冷えが肌に留まることはなかった。
刺さらず、沁みず、ただ俺の輪郭に沿って流れていく。
朝が、俺という形のまわりだけを避けながら通り過ぎていくみたいだった。
もう一歩、前へ出る。
足元の感覚が、わずかに遅れた。
沈むわけでも、浮くわけでもない。
ただ、自分の重さだけが半拍遅れて地面へ届く。
その小さなずれが、ひどく気味が悪い。
世界と自分のあいだに、見えない薄膜が一枚差し込まれたような感覚だった。
振り返りたくなる。
たった今までいた場所。
パン屋の灯り。
新聞配達の自転車。
公園の赤いスコップ。
もう一度見れば、何かひとつでも繋がる気がした。
「振り返るな」
濡烏の声が落ちてくる。
「朝は見返すための顔を持たん。戻ろうとすれば、お前の方が薄れる」
脅しではないと、すぐに分かった。
ここでは、先に理がある。
理が先にあって、そのあとから言葉が追いついてくる。
俺は前だけを見た。
影の薄膜を抜けた瞬間、朝の光が少しだけ質を変えた。
明るい。
明るいはずなのに、柔らかくない。
窓ガラスにも、道路標識にも、自転車の籠にも光は落ちている。
それなのに、それは“朝日”というより、夜の底に沈んでいた白さだけが先に浮かび上がってきた色だった。
空は、青くなりかけている。
だが、その青は昼へ向かう青ではないと思う。
薄く、乾いていて、息を吹けば消えそうな絵の具みたいに頼りない。
雲の輪郭は見えるのに、その外側にはまだ夜の名残が、ほどけずに貼りついている。
濡烏は、公園の脇を抜けて、住宅街へ入っていった。
朝の町だった。
ゴミ置き場に並ぶ透明な袋。
玄関先に立てかけられた濡れた傘。
ベランダの手すりに残されたままのタオル。
どの家にも、人が起きて今日へ向かうための痕跡がある。
誰かが眠りを脱いで、昨日の続きを手に取り、また一日を始めていく。
そういう気配が、家々の壁の向こうで静かに膨らんでいた。
その全てが、もう自分には届くことのない暮らしの標本みたいに見えた。
音も同じだった。
皿が触れ合う音。
炊飯器の蓋が跳ねるような小さな音。
鍵束の金属音。
どれも朝の音なのに、人の暮らしの中心からではなく、いくつもの壁と時間を通り抜けて届いてくる。
生活の“かたち”だけが、遠くで正しく鳴っていた。
「……同じ朝、なんだよな」
自分に言い聞かせるみたいにそう言う。
濡烏は振り返らない。
「同じだと思いたいか」
「違うのか」
「違うと思いたいか」
濡烏は、こちらの逃げ道になる言葉をわざと残さない。
「朝は朝だ。
人は起きる。
戸を開ける。
火を入れる。
何も変わっていない」
そこで、ほんの少しだけ顔をこちらへ向けた。
「変わったのは、お前の立つ側だけだ」
何度も聞かされたことだった。
名を失った。
人の側から外れた。
人の世へ留まる重さをなくした。
それでも、朝の中でその言葉を聞くと、夜より深く沈む。
夜なら町の方も少しおかしい。
影は深く、灯りは古く、現実そのものが少し揺らいでいる。
だが、朝は違う。
世界は、何事もなかったみたいに戻っている。
戻ったその中で、自分だけが戻れていない。
その差が、嫌になるほど見えてしまう。
道の先を、制服姿の女子高生が歩いていく。
髪をひとつに結び、片手に小さなコンビニ袋を下げて、イヤホンをつけたまま駅へ向かっている。
少し眠たそうに、瞼をこすっている。
けれど、その歩き方は、しっかりと今日へ続いていた。
世界が、その背中を拒まずに受け入れている歩き方だった。
俺は、つい、その背中を目で追ってしまう。
ああいう朝を、自分も持っていたはずだった。
寝不足のまま駅へ向かった朝。
缶コーヒーを片手に、講義に間に合うかだけ考えていた朝。
母さんに弁当を渡されて、適当な返事をして出ていった朝。
たしかに、あった。
あったはずなのに、今はその記憶の方が、朝の景色より遠い。
遠いくせに、痛みだけが妙に近い。
失ったものは、遠ざかるほど胸のすぐそばへ寄ってくるのだと、少しだけ分かった。
「見るな」
濡烏が言う。
「見たところでもう戻らん」
「……分かってる」
分かっている。
分かっているのに、見てしまう。
見れば苦しいと知っているのに、人の朝の中にいる背中を追ってしまう。
そのみっともなさが、心底嫌だった。
「お前は、まだ人の朝に未練がある顔をしている」
濡烏の声に、情を一切感じない。
「当然だろ」
思わずそう返す。
濡烏は歩いたまま、声だけを少し低くした。
「そうだ。当然だ。
罪人ほど、失ってから当たり前を惜しむ」
その一言で、また何も言えなくなる。
惜しい、のだと思う。
朝が。
パンの匂いが。
新聞の音が。
寝癖を押さえながら駅へ急ぐ、あのつまらなくて愛おしい時間が。
全部、もう一度だけでも自分のものであってほしいと思ってしまう。
けれど、その惜しさに浸る資格があるのかと問われれば、たぶん無い。
俺は奪った側なのだ。
疑わずに眠り、疑わずに目を覚ますはずだった誰かの時間を。
そう思うと、懐かしさのすぐ隣に、鈍い罪悪感が静かに座る。
住宅街を抜けると、少し広い通学路に出た。
横断歩道。
ガードレール。
向こうの角には、まだ閉まったままのクリーニング店。
ガラスには白んだ空だけが映っている。
そこに、俺の姿はない。
流石に慣れたはずだった。
映らないことにも、触れられないことにも。
でも、朝の中でそれを見ると、夜より冷たい。
朝は輪郭を戻したまま、俺だけを欠いた景色を突きつけてくる。
濡烏は、交差点の脇で足を止めた。
信号機の柱の根元。
植え込みとのあいだに、細い影が落ちている。
そこだけ、朝の白さが、上手く入りきっていない。
影というには、輪郭が曖昧で、ただ光が足りないだけにしては、妙に形がある。
見ていると、そこだけ朝が半歩遅れてやって来るみたいだった。
「ここを抜ける」
「……まだ先があるのか」
「朝のつなぎ目を一度で越えきれると思うな」
濡烏の声は、淡々としている。
「夜に層があるように、朝にも層がある。
お前はまだ、人の朝の表面しか見ていない」
これで終わりではない。
朝でさえ、一枚ではない。
戻れないことを知るだけで済まず、その戻れなさの中をさらに進まなければならない。
濡烏は先に、その細い影へ入っていく。
今度のつなぎ目は、夜のものよりずっと薄い。
それなのに、足を入れた瞬間の違和感は、さっきより鋭かった。
明るさは増す。
それなのに、足元の確かさは減る。
世界の輪郭がくっきりするほど、自分だけがその輪郭の外へ押し出されていく。
夜のつなぎ目は隠す。
朝のつなぎ目は隠さない。
見えるままの状態で、お前はここに混ざれないと、静かに言い渡してくる。
それが、たまらなく残酷だった。
影を抜けた先には、駅前へ続く少し広い通りがあった。
朝の景色だった。
通勤の車が一台、ゆっくり右へ曲がっていく。
前かごに買い物袋を入れた年配の女が、信号の変わる前に横断歩道を渡る。
コンビニのガラスは、白い光を返し、店内の棚は、朝の薄青い空気に溶けそうなくらい静かに並んでいる。
駅前のベンチには、まだ誰もいない。
それでも、もうすぐ誰かがそこに腰を下ろし、スマホを見ながら電車を待つのだろうと分かる。
全部、正しい朝だった。
だからこそ、遠かった。
人が動く。
店が開く。
駅の方から、扉が開く前の予鈴みたいな音が小さく届く。
そのどれもが、ちゃんと“今日”へ続いている。
朝の景色は、夜より静かに人を拒むのだと思った。
夜は怖い。
だからこそ、自分の異様さをどこかへ紛れ込ませられる。
だが、朝は違う。
正しい。
正しいまま、自分だけがその外へ余る。
その余り方が、夜よりずっと痛かった。
まるで世界の縁で、自分の名前だけがひとつ置き忘れられたままになっているみたいだった。
「……ここが、朝の裏か」
そう言うと、濡烏は、白みはじめた空を見もせずに答えた。
「裏と思うなら、それでいい」
「濁すなよ」
「濁しているのではない。
お前がまだ言葉に寄りかかりたがっているだけだ」
冷たい。
けれど、その冷たさが今は必要だった。
ここで哀れまれでもしたら、本当に立っていられなくなる。
「よく見ておけ」
濡烏が言う。
「これが、お前がもう混ざることを許されない朝だ」
通学の学生。
開きかける店。
新聞を抱えた家々。
ホームへ吸い寄せられる人の流れ。
全部が、ちゃんと誰かの今日を始めている。
俺だけが始まれない。
それを認めさせる場所が、朝のつなぎ目の先にはあった。
濡烏は、そこでようやく振り返った。
夜より薄く、けれどまだ確かに黒い。
朝に押されながら、それでも消えずに残っている輪郭。
まるで夜が最後に残した、ひとすじの傷跡みたいだった。
「次は昼だ」
それだけを言う。
短いのに、逃げ道のない言葉だった。
朝でこれなら、昼はもっと露骨だろう。
光の中心に近づくぶん、現実はさらに正しい顔をする。
その中で、自分がどれだけ外れているか、もっとはっきり見せつけられるに決まっていた。
そう思うと、少しだけ足が止まりそうになる。
濡烏は、それを待たない。
「立ち止まるな。朝の外で立ち尽くすのが、いちばん無様だ」
その言葉に、腹が立つより先に、納得してしまった自分がいた。
俺はまた、濡烏の背を追った。
駅前の朝は、少しずつ音を増やしていく。
車。
人の足音。
自動ドアの開閉。
アナウンスの切れ端。
それらは全部、今日というものの中で自然に続いている。
その流れのすぐ横を、俺は名もなく歩いていた。
朝の景色は明るい。
明るいのに、俺にはひどく遠い。
その遠さの中で、ようやく分かった。
夜に引かれることだけが異常なんじゃない。
朝に戻れないことの方が、もっと決定的なのだ。
濡烏の黒い背は、少し先の影を選んで進んでいった。
俺はそのあとを、ただ追うしかなかった。




