10
濡烏の背を追っているうちに、夜はゆっくり薄くなっていった。
いきなり明るくなるわけじゃない。
黒がほどけて、紺になって、その紺の底に白けた灰色が滲みはじめる。
空のいちばん低いところから、ほんのわずかに色が抜けていく。
町の輪郭が戻るというより、夜が持っていた深みだけを、朝が少しずつ取り返していくようだった。
川沿いの道を離れ、俺たちは古い団地の裏手を抜けていた。
植え込みは、朝露に濡れていた。濡れているはずなのに、その湿り気が俺には触れてこない。
駐輪場の屋根に、うっすら白んだ空の色が乗っている。
新聞受けの口はどれも閉じていて、玄関先に置かれた小さな鉢植えの土だけが、夜よりひとつ現実に近い色をしていた。
どこにでもある、朝の手前の景色だった。
それが、余計に息苦しかった。
朝は、何かを元へ戻す時間のはずだと思っていた。
夜に見たおかしなものも、眠れなかった不安も、朝になれば少なくとも“昨日の続き”として片づいていく。
子どもの頃から、ずっとそうだった。
怖い夢も、胸のざわつきも、明るくなれば、現実のほうへ押し戻された。
今は違う。
夜が退いていくのに、俺の中の異様さだけは取り残されたままだった。
むしろ空が白くなるほど、それが少しも薄れないことの方がはっきりしてくる。
濡烏は、何も言わずに、先を歩いていた。
夜のあいだは、あの黒い背は、暗がりと馴染みすぎて、輪郭すら曖昧だった。
けれど、朝が近づくと、今度は別の意味で見えにくくなる。
黒さは残っている。
だがその端から、少しずつ朝に押されて、ほどけかけていた。
肩の線が薄い。
裾は地面と混ざる前に、朝靄みたいにほどけかける。
目のあたりにあった鈍い光も、夜の中に浮く星みたいな鋭さではなく、濡れた石に残る冷えた反射に近くなっていた。
その姿を見て、ふと思った。
こいつもまた、朝の側には属していない。
濡烏は、夜を知っている。
夜の継ぎ目を渡る。
夜の理を語る。
でも、朝を持っていない。
そう思った瞬間、説明のつかない頼りなさが、胸に差した。
案内役ではある。
だが、朝の中まで導けるわけではないのかもしれない。
夜が終われば、俺はまた一人になるのかもしれない。
その一人が、もう名も無い一人だと考えると、喉の奥が細く冷えた。
「……朝になる」
自分でも情けないくらい薄い声だった。
濡烏は前を向いたまま答えた。
「見れば分かる」
そっけない返し方だった。
だが、そのそっけなさに少しだけ救われる。
濡烏が、妙に優しいことを言ったら、かえって俺の足元の方が崩れた気がした。
団地の裏を抜けると、狭い路地に出た。
先には小さなパン屋がある。
まだシャッターは閉まっている。
店先の横に青いゴミ箱。
その向こうには駅へ向かうゆるい坂。
知っている道のはずだった。
しかし、今目の前にあるそれは、知っているまま少しだけ違っていた。
空は白み、雲の形も見えはじめている。
なのに、電柱の影はまだ硬い。
路面の灰色は昼の乾き方をしていない。
信号の赤は妙に薄く、青だけが朝の冷たさを濃く持っている。
朝になりきる直前のほんの短いあいだ、町は昼にも夜にも決めきれずにいる。
「これも……継ぎ目か」
そう訊くと、濡烏は少しだけ歩みを緩めた。
「朝のつなぎ目だ」
声は低いままだった。
「夜が退き、人の世が戻る。
本来なら、そのあいだにお前は押し返される側だった」
「……本来なら?」
「名のある死者ならな」
名のある死者。
その響きの向こうに、自分ではない何かが見える気がした。
きちんと死んだ者。
きちんと弔われ、きちんと向こうへ行く者。
少なくとも、朝になれば夜の縁へ引っかかったままではいない者。
俺は、そのどちらでもない。
その事実は、夜の最中より、朝の手前の方がよく分かった。
「お前は、夜に引かれたまま朝を迎えている」
濡烏が言う。
「だから戻らん。戻るだけの重さが無い」
路地の向こうで、自転車のブレーキが軽く鳴った。
新聞配達だった。
前かごに束ねた新聞を積み、身体を少し折るようにしてペダルを踏んでくる。
前輪がアスファルトの小さな段差を越えるたび、かさ、と乾いた音がする。
俺は、反射的に道の端へ寄った。
寄ったのに、その配達員はこっちを見ない。
最初からそこに何も無かったみたいに、俺の前を抜けていく。
風だけが残る。
インクと朝の冷気の混ざった匂い。
それも、すぐにほどけて消えた。
俺はしばらく、去っていく背中を見ていた。
ちゃんと朝の中にいる人間の背中だと思った。
仕事へ向かう背中。
配るものがあって、届ける家があって、このあと駅前へ出て、別の路地へ曲がる予定がある背中。
俺はもう、ああいうふうには歩けない。
「見たか」
濡烏が言った。
「……何を」
「朝に混じるものの重さだ」
あまりにも冷たい答えで、一瞬言葉を失った。
「新聞を配る。
鍵を回す。
パンを焼く。
ゴミを出す。
人の世は、そういう繰り返しで朝へ戻る」
濡烏は、薄くなり始めた空を見上げもしない。
「お前には、その繰り返しへ下りる足場がもう無い」
路地の先のパン屋の奥で、灯りがひとつ点いた。
柔らかい黄色だった。
朝の灯りだ。
夜の街灯の黄ばみとは違う。
その灯りが、ガラス越しに滲んで、店先の黒いタイルを四角く照らしている。
俺はその灯りを見て、妙に胸が詰まった。
もうすぐ、パンを焼く匂いがするのだろう。
店主が奥で仕込みをして、鉄の天板が鳴って、シャッターの半分だけを上げて、常連客が一番に入ってくる。
そんな朝が、いま目の前で静かに動きはじめている。
そこへ、自分が一歩も入れない気がした。
入れないだけじゃない。
最初から、その順番の外へ押し出されている。
昨日から続いている今日の朝の中に、もう自分の居場所が無い。
「……朝って、こんなに遠かったか」
思わず、そうこぼすと、濡烏は少しだけ顔を向けた。
「遠くしたのはお前だ」
容赦のない声だった。
「夜を奪った者は、朝の側にも立てん。
人が疑わずに眠り、疑わずに目を覚ます。
その当たり前を削ったのなら、お前が当たり前の朝から外れるのは順当だ」
返す言葉がなかった。
順当。
その言い方が嫌だった。
嫌なのに、否定しきれない。
俺は自分の罪を、“金を取ったこと”だけで済ませようとしていたのかもしれない。
でも違った。
あのとき奪ったのは、夜の安心で、朝の軽さで、眠って起きれば昨日の続きを生きていけるという信頼だった。
そうだとしたら、今の俺が、朝に弾かれるのは、本当に順当なのかもしれなかった。
空がさらに白くなる。
建物の輪郭がくっきりしはじめる。
電線は細く黒く、向こうのマンションの窓は朝の色を平たく返していた。
夜の深さが引いていくぶん、今度は別の残酷さが前へ出る。
明るくなっても、何ひとつ戻らない。
夜のあいだは、町全体が少しおかしい。
だから自分だけがおかしいことを、どこかで紛らわせることができる。
でも、朝は違う。
光が増える。
輪郭が戻る。
人の世が“いつもの顔”を取り戻す。
その中で、自分だけが戻らない。
それがあまりにも露骨で、夜よりつらかった。
「……じゃあ、朝の継ぎ目って何なんだ」
濡烏は、道の真ん中ではなく、家々の影がまだ残る側を選んで歩きながら答えた。
「押し戻すための時間だ」
「押し戻す?」
「夜にほどけたものを、人の世の面へ戻す。
夢を夢へ、怪異を怪異へ、眠れなかった不安を昼の忙しさへ押し込む。
朝とはそういう継ぎ目だ」
そこで濡烏は、わずかに言葉を切った。
「だが、お前は戻されない」
その一言が、静かに沈んだ。
「お前はもう、人の側から名を呼ばれん。
だから、朝に押し返されない。
夜の気配を薄くしたまま、昼へ持ち越す」
俺は、自分の両手を見た。
見える。
指も、手の甲も、輪郭だけならまだ人間のものに見える。
でも、その手に“朝へ戻る重さ”が無いと言われると、たしかにそんな気がした。
この手はもう、パン屋のドアを押して中へ入るための手じゃない。
新聞を受け取る手でもない。
家の鍵を回す手でもない。
誰かに「おはよう」と言われて、同じ調子で返すための手でもない。
何のための手なのか、自分でもよく分からない。
その分からなさが、朝の白い光の中で、一層寒かった。
団地の角を曲がると、小さな公園が見えた。
ブランコが二つ、朝の風もないのに止まったまま並んでいる。
砂場の縁には、昨日のままらしい赤いスコップが刺さっていた。
誰かが遊んで、そのまま帰って、また今日のどこかで取りに来るのかもしれない。
そういうあとでまた使うものが、朝の公園には自然に置かれていた。
それを見た途端、どうしようもなく惨めな気持ちになった。
あのスコップには、持ち主がいる。
あのブランコには、午後になればまた座る子どもがいる。
あの公園には、昨日と今日が続いている。
俺には、それがない。
濡烏が、立ち止まる。
公園の柵の影が、まだ朝日の届ききらない地面へ細く伸びていた。
その影の端が、僅かに濃い。
「ここが朝のつなぎ目だ」
低い声が言う。
見ると、公園の入口の脇、掲示板の裏と植え込みのあいだに、わずかに色の違う薄さがあった。
夜の継ぎ目ほど深くはない。
むしろ、光が届き始める寸前の薄い膜みたいだった。
そこだけが、朝へ完全に染まりきっていない。
「夜の名残と、朝へ戻る理が擦れる場所だ」
濡烏は言った。
「名のある者には、ただの影にしか見えん。
お前には、ここが道となる」
朝のつなぎ目。
その響きは、柔らかいのに、実際に目の前にあるものは少しも優しくなかった。
ここを越えるということは、朝に救われず、それでも朝の裏面を歩くということだ。
“明るくなれば大丈夫”という、人の世の当然から、もう完全に外れるということだった。
濡烏が先に、その薄い影へ入っていく。
夜のときみたいな深さはない。
けれど、そのぶん残酷だった。
これは明るさの側の境界だ。
救いに見えるものに、救われないまま踏み込むためのつなぎ目だ。
「来い」
短い声だった。
「朝は夜より残酷だ。
目を開かせたまま、お前に戻れぬものを見せる」
俺は、しばらく動けなかった。
動けなかったが、行かないという選択ももう残っていない気がした。
朝の白は、少しずつ濃くなっていく。
パン屋の灯りは、そのまま店の中を照らしている。
遠くで始発らしい電車の音が、まだ眠気の残る空気を薄く震わせた。
誰かの今日が始まっていく。
俺の中には、その“始まり”がもう無い。
だからこそ、行くしかなかった。
俺は息を吸って、濡烏のあとを追った。
朝のつなぎ目へ、足を入れる。
その瞬間、夜の冷たさとは違う空虚さが、胸の奥へすっと差し込んだ。
明るいのに、救われない。
白いのに、何も戻らない。
朝とは、こんなにも容赦なく人の世の顔をしているのかと思った。
そして、その顔の外側を、俺は名もなく渡っていた。




