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 濡烏の背を追っているうちに、夜はゆっくり薄くなっていった。


 いきなり明るくなるわけじゃない。

 黒がほどけて、紺になって、その紺の底に白けた灰色が滲みはじめる。

 空のいちばん低いところから、ほんのわずかに色が抜けていく。

 町の輪郭が戻るというより、夜が持っていた深みだけを、朝が少しずつ取り返していくようだった。


 川沿いの道を離れ、俺たちは古い団地の裏手を抜けていた。

 植え込みは、朝露に濡れていた。濡れているはずなのに、その湿り気が俺には触れてこない。

 駐輪場の屋根に、うっすら白んだ空の色が乗っている。

 新聞受けの口はどれも閉じていて、玄関先に置かれた小さな鉢植えの土だけが、夜よりひとつ現実に近い色をしていた。


 どこにでもある、朝の手前の景色だった。

 それが、余計に息苦しかった。


 朝は、何かを元へ戻す時間のはずだと思っていた。

 夜に見たおかしなものも、眠れなかった不安も、朝になれば少なくとも“昨日の続き”として片づいていく。

 子どもの頃から、ずっとそうだった。

 怖い夢も、胸のざわつきも、明るくなれば、現実のほうへ押し戻された。

 今は違う。

 夜が退いていくのに、俺の中の異様さだけは取り残されたままだった。

 むしろ空が白くなるほど、それが少しも薄れないことの方がはっきりしてくる。


 濡烏は、何も言わずに、先を歩いていた。

 夜のあいだは、あの黒い背は、暗がりと馴染みすぎて、輪郭すら曖昧だった。

 けれど、朝が近づくと、今度は別の意味で見えにくくなる。

 黒さは残っている。

 だがその端から、少しずつ朝に押されて、ほどけかけていた。

 肩の線が薄い。

 裾は地面と混ざる前に、朝靄みたいにほどけかける。

 目のあたりにあった鈍い光も、夜の中に浮く星みたいな鋭さではなく、濡れた石に残る冷えた反射に近くなっていた。


 その姿を見て、ふと思った。

 こいつもまた、朝の側には属していない。

 濡烏は、夜を知っている。

 夜の継ぎ目を渡る。

 夜の理を語る。

 でも、朝を持っていない。

 そう思った瞬間、説明のつかない頼りなさが、胸に差した。

 案内役ではある。

 だが、朝の中まで導けるわけではないのかもしれない。

 夜が終われば、俺はまた一人になるのかもしれない。

 その一人が、もう名も無い一人だと考えると、喉の奥が細く冷えた。

「……朝になる」

 自分でも情けないくらい薄い声だった。

 濡烏は前を向いたまま答えた。

「見れば分かる」

 そっけない返し方だった。

 だが、そのそっけなさに少しだけ救われる。

 濡烏が、妙に優しいことを言ったら、かえって俺の足元の方が崩れた気がした。


 団地の裏を抜けると、狭い路地に出た。

 先には小さなパン屋がある。

 まだシャッターは閉まっている。

 店先の横に青いゴミ箱。

 その向こうには駅へ向かうゆるい坂。

 知っている道のはずだった。

 しかし、今目の前にあるそれは、知っているまま少しだけ違っていた。


 空は白み、雲の形も見えはじめている。

 なのに、電柱の影はまだ硬い。

 路面の灰色は昼の乾き方をしていない。

 信号の赤は妙に薄く、青だけが朝の冷たさを濃く持っている。

 朝になりきる直前のほんの短いあいだ、町は昼にも夜にも決めきれずにいる。

「これも……継ぎ目か」

 そう訊くと、濡烏は少しだけ歩みを緩めた。

「朝のつなぎ目だ」

 声は低いままだった。

「夜が退き、人の世が戻る。

 本来なら、そのあいだにお前は押し返される側だった」

「……本来なら?」

「名のある死者ならな」

 名のある死者。

 その響きの向こうに、自分ではない何かが見える気がした。

 きちんと死んだ者。

 きちんと弔われ、きちんと向こうへ行く者。

 少なくとも、朝になれば夜の縁へ引っかかったままではいない者。

 俺は、そのどちらでもない。

 その事実は、夜の最中より、朝の手前の方がよく分かった。

「お前は、夜に引かれたまま朝を迎えている」

 濡烏が言う。

「だから戻らん。戻るだけの重さが無い」


 路地の向こうで、自転車のブレーキが軽く鳴った。

 新聞配達だった。

 前かごに束ねた新聞を積み、身体を少し折るようにしてペダルを踏んでくる。

 前輪がアスファルトの小さな段差を越えるたび、かさ、と乾いた音がする。

 俺は、反射的に道の端へ寄った。

 寄ったのに、その配達員はこっちを見ない。

 最初からそこに何も無かったみたいに、俺の前を抜けていく。

 風だけが残る。

 インクと朝の冷気の混ざった匂い。

 それも、すぐにほどけて消えた。

 俺はしばらく、去っていく背中を見ていた。

 ちゃんと朝の中にいる人間の背中だと思った。

 仕事へ向かう背中。

 配るものがあって、届ける家があって、このあと駅前へ出て、別の路地へ曲がる予定がある背中。

 俺はもう、ああいうふうには歩けない。

「見たか」

 濡烏が言った。

「……何を」

「朝に混じるものの重さだ」

 あまりにも冷たい答えで、一瞬言葉を失った。

「新聞を配る。

 鍵を回す。

 パンを焼く。

 ゴミを出す。

 人の世は、そういう繰り返しで朝へ戻る」

 濡烏は、薄くなり始めた空を見上げもしない。

「お前には、その繰り返しへ下りる足場がもう無い」

 路地の先のパン屋の奥で、灯りがひとつ点いた。

 柔らかい黄色だった。

 朝の灯りだ。

 夜の街灯の黄ばみとは違う。

 その灯りが、ガラス越しに滲んで、店先の黒いタイルを四角く照らしている。

 俺はその灯りを見て、妙に胸が詰まった。

 もうすぐ、パンを焼く匂いがするのだろう。

 店主が奥で仕込みをして、鉄の天板が鳴って、シャッターの半分だけを上げて、常連客が一番に入ってくる。

 そんな朝が、いま目の前で静かに動きはじめている。

 そこへ、自分が一歩も入れない気がした。

 入れないだけじゃない。

 最初から、その順番の外へ押し出されている。

 昨日から続いている今日の朝の中に、もう自分の居場所が無い。

「……朝って、こんなに遠かったか」

 思わず、そうこぼすと、濡烏は少しだけ顔を向けた。

「遠くしたのはお前だ」

 容赦のない声だった。

「夜を奪った者は、朝の側にも立てん。

 人が疑わずに眠り、疑わずに目を覚ます。

 その当たり前を削ったのなら、お前が当たり前の朝から外れるのは順当だ」

 返す言葉がなかった。


 順当。

 その言い方が嫌だった。

 嫌なのに、否定しきれない。

 俺は自分の罪を、“金を取ったこと”だけで済ませようとしていたのかもしれない。

 でも違った。

 あのとき奪ったのは、夜の安心で、朝の軽さで、眠って起きれば昨日の続きを生きていけるという信頼だった。

 そうだとしたら、今の俺が、朝に弾かれるのは、本当に順当なのかもしれなかった。


 空がさらに白くなる。

 建物の輪郭がくっきりしはじめる。

 電線は細く黒く、向こうのマンションの窓は朝の色を平たく返していた。

 夜の深さが引いていくぶん、今度は別の残酷さが前へ出る。

 明るくなっても、何ひとつ戻らない。

 夜のあいだは、町全体が少しおかしい。

 だから自分だけがおかしいことを、どこかで紛らわせることができる。

 でも、朝は違う。

 光が増える。

 輪郭が戻る。

 人の世が“いつもの顔”を取り戻す。

 その中で、自分だけが戻らない。

 それがあまりにも露骨で、夜よりつらかった。

「……じゃあ、朝の継ぎ目って何なんだ」

 濡烏は、道の真ん中ではなく、家々の影がまだ残る側を選んで歩きながら答えた。

「押し戻すための時間だ」

「押し戻す?」

「夜にほどけたものを、人の世の面へ戻す。

 夢を夢へ、怪異を怪異へ、眠れなかった不安を昼の忙しさへ押し込む。

 朝とはそういう継ぎ目だ」

 そこで濡烏は、わずかに言葉を切った。

「だが、お前は戻されない」

 その一言が、静かに沈んだ。

「お前はもう、人の側から名を呼ばれん。

 だから、朝に押し返されない。

 夜の気配を薄くしたまま、昼へ持ち越す」

 俺は、自分の両手を見た。

 見える。

 指も、手の甲も、輪郭だけならまだ人間のものに見える。

 でも、その手に“朝へ戻る重さ”が無いと言われると、たしかにそんな気がした。

 この手はもう、パン屋のドアを押して中へ入るための手じゃない。

 新聞を受け取る手でもない。

 家の鍵を回す手でもない。

 誰かに「おはよう」と言われて、同じ調子で返すための手でもない。

 何のための手なのか、自分でもよく分からない。

 その分からなさが、朝の白い光の中で、一層寒かった。


 団地の角を曲がると、小さな公園が見えた。

 ブランコが二つ、朝の風もないのに止まったまま並んでいる。

 砂場の縁には、昨日のままらしい赤いスコップが刺さっていた。

 誰かが遊んで、そのまま帰って、また今日のどこかで取りに来るのかもしれない。

 そういうあとでまた使うものが、朝の公園には自然に置かれていた。

 それを見た途端、どうしようもなく惨めな気持ちになった。

 あのスコップには、持ち主がいる。

 あのブランコには、午後になればまた座る子どもがいる。

 あの公園には、昨日と今日が続いている。

 俺には、それがない。

 濡烏が、立ち止まる。

 公園の柵の影が、まだ朝日の届ききらない地面へ細く伸びていた。

 その影の端が、僅かに濃い。

「ここが朝のつなぎ目だ」

 低い声が言う。

 見ると、公園の入口の脇、掲示板の裏と植え込みのあいだに、わずかに色の違う薄さがあった。

 夜の継ぎ目ほど深くはない。

 むしろ、光が届き始める寸前の薄い膜みたいだった。

 そこだけが、朝へ完全に染まりきっていない。

「夜の名残と、朝へ戻る理が擦れる場所だ」

 濡烏は言った。

「名のある者には、ただの影にしか見えん。

 お前には、ここが道となる」

 朝のつなぎ目。

 その響きは、柔らかいのに、実際に目の前にあるものは少しも優しくなかった。

 ここを越えるということは、朝に救われず、それでも朝の裏面を歩くということだ。

 “明るくなれば大丈夫”という、人の世の当然から、もう完全に外れるということだった。


 濡烏が先に、その薄い影へ入っていく。

 夜のときみたいな深さはない。

 けれど、そのぶん残酷だった。

 これは明るさの側の境界だ。

 救いに見えるものに、救われないまま踏み込むためのつなぎ目だ。

「来い」

 短い声だった。

「朝は夜より残酷だ。

 目を開かせたまま、お前に戻れぬものを見せる」

 俺は、しばらく動けなかった。

 動けなかったが、行かないという選択ももう残っていない気がした。


 朝の白は、少しずつ濃くなっていく。

 パン屋の灯りは、そのまま店の中を照らしている。

 遠くで始発らしい電車の音が、まだ眠気の残る空気を薄く震わせた。

 誰かの今日が始まっていく。

 俺の中には、その“始まり”がもう無い。

 だからこそ、行くしかなかった。

 俺は息を吸って、濡烏のあとを追った。

 朝のつなぎ目へ、足を入れる。

 その瞬間、夜の冷たさとは違う空虚さが、胸の奥へすっと差し込んだ。

 明るいのに、救われない。

 白いのに、何も戻らない。

 朝とは、こんなにも容赦なく人の世の顔をしているのかと思った。

 そして、その顔の外側を、俺は名もなく渡っていた。

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