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雨の音が、ずっと誰かの足音に聞こえていた。
家の二階、子どもの頃から変わらない六畳の部屋。
壁際の机、教科書の山、ホームセンターで買った安い卓上ライト。
布団に潜り込んで目を閉じても、闇が落ち着きをくれることは無かった。暗いはずなのに、まぶたの裏だけが明るくざらついて、眠りの入口が見つからない。
奪った後に残ったものは、金じゃなかった。
階下で、食器が当たる小さな音がした。その音に、神経を尖らせる。
母さんが、夜更かしして、明日の弁当の準備でもしてるんだろう。
いつもの音のはずなのに、今日は、俺の嘘を確認する音に聞こえる。
冷蔵庫の開閉は、証拠を探してる音。
水道の流れは、洗い流せないものを洗ってる音。
スマホが震えた気がして、俺は飛び起きる。
画面は、真っ暗だ。通知は、何もない。なのに心臓だけが、鳴り続ける。
暗闇の中で、俺の親指だけが勝手に動く。
ロックを外して、ホーム画面を開いて、指が迷わず、あのアイコンに落ちた。
見たくない。見たくないのに、見ないともっと怖い。
読み込みの輪が回って、次の瞬間、画面の上に赤い帯が出た。
「お取引を一時保留しています」
俺は、息を止めた。
終わった。終わった。
疑わなくてよかったはずの時間。
安心して眠れたはずの夜。
それが、もう戻らない。その事実が、容赦なく俺にのしかかる。
赤い帯の下に、無機質な文字が並ぶ。
「確認のためご連絡します」
「必要に応じて、追加の情報をお願いする場合があります」
“連絡します”
その四文字が、変に具体的で、喉の奥を冷やした。
誰かが俺を見ている、という妄想が、手続きに変わることを意味していた。
音も匂いもないのに、書類の角みたいな硬さだけが、部屋に立つ。
家の電話が、鳴る。
知らない番号。
母さんが出る。
そういう映像が、勝手に組み上がって、胸が締め付けられる。
俺は、慌ててアプリを閉じた。
閉じても、赤い帯の文面だけが、まぶたの裏に残る。
耳の奥で、あの文面が、反復する。
「大丈夫ですか?」
「本当に増えるんですよね」
「お願いします、今月だけ……」
返した言葉は、決まって同じだった。
「絶対に大丈夫です」
「こっちで全部やります」
「今がチャンスです」
文字は、軽かった。指を滑らせるだけだった。
触れている感覚がない分、罪悪感が来るのも遅れた。遅れて、まとめて来た。
メモアプリを開いて、何かを書こうとして、やめる。証拠になる。消しても残る気がする。
明日の講義、出れるのか。
怖い。
捕まるのが怖いんじゃない、と言い切れない。
でも、それだけじゃない。もっと奥、理由のない恐怖がある。
俺は、起き上がって、カーテンの隙間から外を見る。
住宅街の街灯が、雨で滲んでいる。
誰もいない道。コンビニの看板だけが、煌々と照らしていた。
「……俺、何してんだ」
声は、余りにも小さくて、部屋に吸われた。
いつの間にか、夜が去り、朝が来ていた。
重い体を起こし、台所に降りると、味噌汁の匂いが、先に来る。
出汁の甘い匂い。湯気が眼鏡を曇らせる。
母さんは俺の顔を見て、いつもより少しだけ声を落とした。
「眠れなかった?」
それだけ。
「……うん、ちょっと」
俺が答えた瞬間、母さんは頷いて、何でもないみたいに箸を並べた。
俺の分の卵焼きを、一つだけ大きい方にしてくれる。いつもと同じ動作。いつもと同じ家。
それが怖い。
俺は、ここにいては、いけないのに。
俺がこの家の朝に混ざっていること自体が、罪のように思えてくる。
父さんは、新聞を読んでいた。
父さんの手は大きくて、爪は短く切られている。
指先がインクで少し黒い。仕事帰りの匂いがまだ残ってる。
父さんは、顔を上げないまま言った。
「大学、あんまり無理すんなよ」
その言葉の優しさが、俺の中で勝手に変換される。
“信じてるよ”に。
“お前は大丈夫だ”に。
“俺たちはお前の味方だ”に。
味方でいてくれることが、罰みたいだった。
俺は味噌汁を飲んだ。熱い。舌が少し痛い。
その痛みが、なぜか救いみたいに思える。
母さんが、弁当箱の蓋を閉めた。パチン、と小さく鳴る。
「これ、持ってって。今日は好きなの入れといた」
弁当袋を差し出す手。
手の甲に小さな火傷の跡。
俺が小さい頃、鍋を落としそうになった俺を庇ってできたやつだ。
俺は、袋を受け取る。受け取った瞬間、指先が冷える。
受け取る資格がないという感覚が、体の外側から貼りついてくる。
「ありがと」
言葉は出る。出るのに、その言葉は、虚構にすぎなかった。
俺の声だけが、空気をすり抜けて、床に着地しなかった。
母さんは笑った。小さく。
「ちゃんと食べるんだよ」
“ちゃんと”生きてきた人の口から出る“ちゃんと”。
俺が裏切った“ちゃんと”。
俺が壊した“ちゃんと”。
俺は、目を合わせないようにして、玄関へ行った。
靴を履く。紐を結ぶ指がもたつく。ほどけたら、全部ほどけてしまいそうで、結び目をきつくする。
背中に、母さんの視線を感じる。
振り返ると、母さんは台所の端に立っていて、俺のコートの襟を指で整えた。
「寒いから、これも」
マフラー。
いつも、俺が適当に丸めて放っておくマフラー。
今日はちゃんと洗って、ふわっとしてる。
洗剤の匂いがする。家の匂いだ。
首に巻かれた瞬間、息が詰まった。
優しさって、こういうことだ。
何も言わずに、相手の首元を守ること。
相手が気づかないところで、寒さを先に摘むこと。
俺は、それを何人から奪った?
母さんの指が離れる。
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
外に出た瞬間、冬の空気が刺さる。
刺さってくれて、ありがたいと思ってしまう。
門を出て少し歩いたところで、俺は立ち止まった。
ポケットの中に、弁当袋の角が、当たっている。
母さんが詰めた熱が、まだそこにある。
その熱が、俺の罪悪感を増幅させる。
あの人たちが、こんなふうに俺に温度を渡している間に、俺は他人の温度を冷やした。
背後から自転車が、通り過ぎる。
笑い声が、する。
普通の朝が、続いていく。
俺だけが、普通の中に混ざることを拒まれているみたいだった。
駅へ向かう足が、重い。
マフラーの温かさが、首を絞めるみたいだった。
それでも、巻いたまま歩く。
外せない。外したら、母さんの優しさまで捨てることになる。
もし、捨ててしまったら、俺は本当に、何も残らなくなる。
家の窓が遠ざかる。
ふと、カーテンの隙間から母さんがこちらを見ている気がして振り返った。
誰もいなかった。
いなかったのに、胸だけが痛い。
俺は、視線を前に戻して、息を吐いた。
胸が空っぽになる手前で、肩が落ちる。
俺は、歩き出した。
温かなマフラーの中で、喉が冷えていくのを感じながら。
ホームに立つと、電車の到着音が胸に刺さった。
大学の講義は、文字だけが先に流れていった。
板書の黒が、滲む。
ノートにペンを走らせても、書いているのが自分じゃないみたいだった。
スマホを机の中に入れているのに、振動だけが骨に伝わってくる気がする。
昼休み、友達が「飯行こうぜ」と笑った。
笑い声が眩しい。
俺は頷こうとして、遅れた。
「ごめん、ちょっと……用事」
口から出た言葉が軽い。軽いまま浮いて、誰の心にも触れない。
掲示板の前で、足が止まった。
学生課の貼り紙が増えている。
奨学金、アルバイト、落とし物。
その端に、注意喚起の紙が一枚だけ混じっていた。
詐欺に注意。
不審な連絡に注意。
相談窓口はこちら。
読めた。
読めてしまった。
紙の文字は、淡々としていたのに、俺の喉だけが、勝手に締まっていく。
帰りの電車で、知らない番号から着信が来た。
画面に表示された数字が、刃みたいに見えた。
出たら終わる。
そう思うのに、出ないで終わる未来も同時に見える。
出ないまま、相手が別の手段に回る未来。
郵便。家の固定電話。訪問。
選択肢が増えるほど、逃げ道が減っていく。
俺は着信を切って、スマホを、ポケットの奥に押し込んだ。
家に帰ると、母さんが「おかえり」と言った。
ただいま、と返す声がうまく出ない。
台所の匂いが優しすぎて、罪悪感が増える。
「今日、寒かったでしょ。あったかいの入れといたから」
母さんは、俺の弁当箱を洗いながら言う。
俺が持ち帰った空っぽの弁当箱は、俺の空っぽじゃない日常の証拠みたいで、見ていられなかった。
父さんが帰ってきて、玄関で靴を脱ぐ音がした。
その音にまで、神経が立つ。
父さんの足音は、いつもより重く聞こえる。
夕飯の席で、父さんが「最近、変な電話多いな」と言った。
母さんが「そうそう、知らない番号ばっかり」と笑って返す。
笑いながら言える怖さは、俺にはもう無い。
箸が止まった。
味噌汁の湯気が、目の前で揺れる。
俺は頷くふりをして、喉の奥に何も通さないようにした。
夜。
布団に入って、天井を見上げる。
眠れない。
スマホを見ない、と決めたはずなのに、親指が勝手に動く。
あのアプリのアイコンに指が落ちる瞬間、心臓が一段下がる。
読み込みの輪が回る。
回っている数秒が、永遠みたいに長い。
画面が切り替わった。
赤い帯が、そこにいた。
前からそこにいたみたいな顔で、そこにいた。
俺は、息を止めた。
このまま、家の電話が鳴る気がした。
母さんが、出る気がした。
父さんの声が、固くなる気がした。
その夜から、雨が続いた。
天気予報は、傘マークを並べるだけで、何も言わない。
翌日も、翌々日も、雨だった。
友達の笑い声が遠くなる。
家族の「おはよう」が痛くなる。
罪悪感は遅れて来るくせに、来たあとは帰らない。
恐怖は最初から全力で来るくせに、薄まらない。
押し潰される、ってこういうことなんだと思った。
身体が潰れるんじゃない。
笑うとか、眠るとか、息を吐くとか、そういう当たり前が、順番に壊れていく。
そして、そんなことが続いた夜。
雨の音が、ずっと誰かの足音に聞こえていた夜。
スマホの画面に出た赤い帯の文面が、まぶたの裏に貼りついたまま取れなかった。
「一部のお取引を一時保留しています」
「確認のためご連絡します」
家の電話が鳴る気がした。
俺は、布団から抜け出して、廊下に立った。
家族は、寝ている。
階下の明かりは消えていて、冷蔵庫の唸りだけが遠い。
この家の空気が優しすぎて、息ができなかった。
玄関の鍵を外すとき、金属が小さく鳴った。
その音が、やけに大きく感じた。
外は冷たかった。雨は細く、街灯の光を滲ませて落ちていた。
雨が頬に当たるたび、少しだけ現実になる。刺さる冷たさが、救いみたいだった。
俺は歩いた。行く当てなんかなかった。
逃げるって方向が分からないまま、足だけが勝手に前へ出る。
住宅街の角を曲がると、音が変わった。
アスファルトから、金属の床みたいな硬い音に。
濡れた匂いが濃い。手すりが冷える。
足元の白い線が、雨で薄く光っている。
俺は手すりに指先を置いた。冷たい。
冷たいのに、熱い。掌の内側だけが汗ばんでいる。
風が吹いた。
歩道橋の連絡通路は、風の通り道みたいに細くて、まっすぐで、逃げ場がない。
壁は金網と擦りガラスの組み合わせで、外の光だけが滲んで入ってくる。信号の赤、車のライト、コンビニの白。全部が雨で伸びて、線になって、目に刺さる。
床は、金属の板だった。
濡れて、黒く光っている。
白い滑り止めの線がところどころ剥がれて、そこだけ余計に冷たそうに見えた。
踏み出すたび、靴底が湿った音を返す。乾いた音じゃない。身体の中まで濡れていくみたいな音。
背中が押されるみたいに揺れる。
コートの裾が風に取られて、肩が勝手に前へ傾く。
手すりに触れると、冷たさが指の腹から心臓へ直行する。
俺は、前を見るのが怖くて、下を見た。
金網の隙間の向こう。
道路が、雨で濡れた川みたいに光っている。
車が通るたび、ヘッドライトが水面を切って、白い筋を引く。テールランプの赤が滲んで、信号の色と混ざる。
見た瞬間、胃がひっくり返りそうになって、視線を逸らした。
逸らしても、景色の残像だけがまぶたの裏に貼りつく。
喉の奥が冷えて、息が細くなる。
そして、思った。
ここで終わらせれば、って。
勝手に浮かんで、勝手に消えない言葉。
しかし、身体は、固まったまま動かなかった。
足がすくむ。息が浅くなる。
吸った空気が胸の上で止まって、吐いたはずの息が戻ってくる。
「死ぬ」って単語は頭に浮かぶのに、手足がそれを理解しない。
怖い。
痛いのが怖い。
怖いのに、怖いまま生きるのも嫌だ。
卑怯だ、と自分に言いかけて、言葉が喉で潰れた。
卑怯なのは、今さらだ。
人を騙して、金を取って、平気な顔して、帰って、母さんの卵焼きを食べて。
「行ってきます」って言って。
その全部が、卑怯だった。
それでも、死ぬ勇気だけは出ない。
出ない自分が、いちばん情けない。
通路の蛍光灯が、一度だけ瞬いた。
光が瞬くたび、世界が紙みたいに薄くなる。
俺はその薄さに耐えきれなくて、手すりから指を離した。
一歩だけ、後ろへ下がろうとした。
下がって、帰ろうとした。
帰って、布団に潜って、朝になって、また「普通」を演じようとした。
そうするしかないと思った。
その瞬間だった。
靴底が、ずる、と鳴った。
雨で濡れた金属の上で、踵が思ったより軽く滑った。
――違う。違う。嫌だ嫌だ。
頭ではそう叫んだのに、身体が先に傾いた。
視界が斜めになる。
白い線が遠ざかる。
手すりが、急に遠い。
手を伸ばした。手すりを掴むつもりで伸ばした。
けれど指先が、冷たい金属を掴む前に空を切った。
雨の膜だけが指を撫でて、何も掴めないまま滑っていく。
時間が伸びたみたいに遅くなる。
雨粒が一粒ずつ見える。粒が光を拾って、銀の針みたいに落ちてくる。
自分の息の音が遠くなる。耳の奥が詰まって、水の中にいるみたいな重さが来る。
スマホがポケットの中で、当たり前みたいに重い。
この重さのせいで、俺はずっと現実に繋がっている気がしていた。
しかし、繋がってなかった。
足が空を探す。どこにも床がない。
恐怖だけが、最後まで鮮明だった。
俺は、声を出そうとした。
「助けて」じゃない。
「ごめん」でもない。
ただ、母さんの名前を呼ぼうとした。
でも音にならなかった。
喉が、息を拒んだ。
叫びの代わりに、空気だけが胸の内側を擦って、痛い。
視界の端で、街灯の光が滲んで、白く広がった。
雨の音が、急に遠ざかる。
最後に残ったのは、ひどく情けない感覚だった。
死ぬ勇気は最後までなかったのに、
死ぬ方だけが、勝手に来た。
――俺は、何も選べなかった。




