『神官』
ジャンル:ホラー / ダークファンタジー / サスペンス
・本作には暴力的描写や流血表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
・宗教・神格・悪魔などを題材にしています。信条により不快に感じる可能性があります。
・心理描写や恐怖描写が強めです。ホラー表現に抵抗がある方は閲覧をお控えください。
小麦が焼ける香ばしい匂いで、男は目を見開き、身体を寝台の上で起き上がらせた。
途端、脳裏に過ぎる『黒い雑像』に、思わず目をこする。
「……なんだか、ひどい悪夢を見ていた、ような……」
昨晩はどうやって家路についたのか思い出せない。記憶は霧に覆われ、ひどくぼやけている心地だ。
自覚しない間に身体も汗で冷え切ってしまったらしい。なぜこんなに指が氷のように冷たいのか、なぜ――身体は小さく震えているのか。
額を押さえ、悪夢について反芻しようとするも上手くいかない。
(――思い出せないということは、きっと気にするようなことでもないのだろう)
それよりも、今は空腹だ。
パンが焼ける匂いに誘われ、階下で料理をしているであろう妻の元へと向かう。
「あら、おはよう、あなた」
「ああ、おはよう」
なんの変哲もない、変わらぬ日常。その事実に男はほっと息を吐く。
「朝食ならもう準備ができているわよ」
「はは、パンの良い香りが寝室にまで届いていたからね。早速いただくよ」
食卓に並ぶスープとパン、神殿で作られたチーズ。
この光景もいつもとなんら変わりない。
両手を組み、この恵みを齎してくれた神に祈りを捧げよう。
「唯一の神、ルシエル様。今日も私達に恵みを――、……?」
平生と変わらない祈りの言葉に詰まる。なぜか、感謝の言葉を続けることができなかった。
「あなた?」
「ああ、いや、すまない。喉でも傷めたかな……」
「まあ、それは大変。あとでお医者さまに蜂蜜をもらってきますね」
喉をさすり、首を傾げる。
なぜ祈りの言葉を最後まで続けられなかったのか。男は理解できなかったのだ。信心深い自分なのだ。いつもなら淀みなく言えるはずだのに。
神官としての仕事は多岐にわたる。
まずは日課の祈り。唯一神ルシエル様に対し、曇りなき祈りを捧げる。
信心こそ、ルシエル様の糧となる。一切の疑念も不敬も抱くことは許されない。神の糧は、常に完璧で一点の瑕疵すら許されないのだから。
――そこで、神官の男は次の違和を抱く。
祈りの言葉が上手く繋げられない。途切れ、途絶え、詰まる。
焦りから、純粋な信心が籠められない。
――いや、違う。信心の籠め方が『分からない』
混乱をきたす男に、同僚は嘲りと哀れみの視線を交えながら休息を勧めてくる。信心深く生きてきた男にとって、これはひどい屈辱に思えた。
瞬間的に、かっと頭が熱くなるも、神に選ばれた自分が感情を乱すことなどあってはならないと深く呼吸をする。
表面上の礼を言いながら、大人しく別室で休むことを選んだ。
「……悪夢を見たせいだろうか」
覚えていないが、きっと身体には疲れが溜まっていたのかもしれない。
そうでなければ、基本中の基本たる祈りが捧げられないという事態にはならないはずだ。今夜は早く家に帰り、じっくり身体を休めようと心に決める。
この後、民たちに奇跡を齎さなければならない。
今日は『ソウ』という男の、工房での事故でまったく動かなくなってしまった腕を治す必要がある。刃でばっさりと神経すら断たれてしまった腕は、優れた医師が縫い付けてもぴくりとも動かず。
もはや、ただの粘土の塊のような有様らしい。
神の奇跡は、あまねく信者たちに齎されるもの。無論、民草たちにも神は御慈悲を与える。自分はその媒介者の一人なのである。
だからこそ、医者も匙を投げた男の元へ、わざわざ向かうのだ。
「ああ、神官様……! お待ちしておりました……!」
「――よろしい。では奇跡を行使する前に、神への捧げものを」
ソウと名乗る職工は、利き腕だった右手をだらりと下げたまま自分を出迎えた。自身の世話すらろくに出来ないのだろう。髪はぼさぼさで、無精ひげが生えているソウの姿に、神官は僅かに眉間を寄せて手を差し出した。
神官の掌にいくらかの銀貨が落とされると、金属の冷えた感触が伝わる。
神の御業、奇跡を起こすには相応の対価が必要だ。それも、神に選ばれた我々ではなく、ただの民草ならば尚更のこと。ルシエル様の威光を表す白銀貨、或いは金貨が理想ではあるが、彼らにそれを要求するのは無慈悲というものだろう。
――指先に触れる重さが、心の臓にじんわりと重くのしかかるようだ。
「確かに」と握りしめると、掌に落とされた確かな重さと、金属の冷たい温度が伝わる。――瞬間、脳裏に黒い雑像が、赤い光がよぎる。あれは、悪――
どくん、と心の臓が跳ねた。
冷たい汗がこめかみを伝う。
指先が冷える感覚が、なにかと重なる。
「……? 神官様?」
怪訝そうな依頼人の前で、急速に現実へと引き戻された。
「い、いえ。なんでもありません。さあ、奇跡をここに齎しましょう」
その言葉に、職工の男の瞳に光が宿る。
己の手を、男の右腕に翳す。
胸元に揺れる、白い結晶が嵌められたペンダントを握る。
あとはもう、神への祈りの言葉を捧げれば良い。
自分は今まで、このような事態にいくらでも奇跡で対処してきた。
失敗なぞ、する訳がない。信仰には一点の曇りもない。
さあ、ルシエル様を讃え、救済を求める言葉を紡ぐのだ。
「――天にまします我らが唯一の神。御神の忠実な信徒たる『キョウ』が希う。この哀れな民の不浄を癒やしたまえ、救いたまえ、――ここにルシエル様の慈愛を齎したまえ」
なんだ、問題なく祈りの言葉を言えるじゃないか。
やはり朝の一件は疲れから来ていたのだろう。妻が言うように蜂蜜を舐め、早く眠るに限る。
あと少しすれば奇跡はここに発現し、職工の腕も元通り動くはずだ。
ルシエル様の御威光たる白い光が降り立ち、腕を包み。そして清浄な空気でこの場は満たされる。
その変わらぬ美しい慈愛に、私は御神への畏敬の念を深めるに違いない。
――けれど、待てども光は訪れない。
「し、神官さま……その、……腕がまったく動かんのですが……」
職工の言葉に、神官は大きく目を見開く。
「そ、そんなはずは……! 私の祈りの言葉は完璧だった……!」
「しかし腕が動かんのは事実で、」
「う、うるさい! 私は間違っていない!」
どうする。――どうすれば、どうしたら。
神官は、ひゅ、と浅く息を呑む。
続けて息を吐き出すも、息苦しさは変わらない。
ペンダントを握る指先が、氷のように冷え、血が逆流してどこかに消えていくような感覚に眩暈がした。
視界に映った怪訝そうな職工の姿がぼやけていく。
信仰が、信心が届かなかった。その事実は男の足元を揺らがせ、神官を崩れ落とさせる。
「あ、ありえない、ありえないんだ。私が、失敗するなんて、ぜったいに、」
「――失敗……? 失敗だって?! じゃあ俺は、対価を払ったのに一生この腕が動かないままだってのか?!」
「う、うるさい黙れ! そもそも貴様の信心が足りんせいかも知られんだろうがッ! 私のせいではないッ!」
騒ぎを聞きつけた人々が、徐々に集まりだす。
神官は目の前が白く飛ぶ。奇跡が失敗したことを露呈させる訳にはいかない。現実は容赦なく、その事実を広めようとしている。
まさか、ルシエル様は自分を見放したのか。
この最も信心深い私を、唯一神が――。
嘘だ。間違いだ、なにかの間違いであってくれ。
「あ、あぁあ……まさか、そんな、それとも――」
――神は『存在しない』とでもいうのか。
その答えに至りそうになり、神官が顔を上げた瞬間――。
――ごきり。
「え、――?」
どろりと目の前に零れ落ちる赤。理解が追い付かない。
次いで訪れる強烈な痛みと眩暈に、神官はその場に崩れ落ちる。
「ッお前が! お前が失敗したからだろうが! そのせいで! 俺はッ! 俺はァッ!」
職工の手に握られているのは重厚なハンマー。
ああ、こいつに殴られたのかと遅れて理解する。逃げようにも、身体は思うように動かない。
びく、びくっ、と神官の手足が痙攣する中、鈍器が頭蓋を狙う。
何度も、何度も、職工の利き手ではないはずの腕で振り下ろされる。
◆
騒ぎを聞きつけた群衆が目にしたのは、あまりに凄惨な光景だった。
「っおい、あれって! そんな! 神官様が!」
「きゃ、きゃああああッ!」
「嘘だろ、ソウが、そんなッ!」
血と肉の海で立つ職工の男と、その海に沈む――かつて『神官』だったなにか。
人々は動揺し、悲鳴をあげ、嘔吐し、失神し、怒声をあげる。この場は混乱で満ちている。
――恐らく、この後『聖騎士』が、この罪人を連行するだろう。この一件は、『信心が足りなかったため奇跡が発現されなかった職工が、逆恨みで神聖な神官を殺害した』ものとして処理されるに違いない。
悪魔――と昨夜評された男は、群衆の中で哀れな姿を見届けた。
「……まずは、一つ」
大きな亀裂を入れるために、まずは小さな傷を。
打ち込んだ欺瞞は、たったの一本。
この一本が、世界を壊すための鏑矢となるだろう。
――男の物語は、まだ、始まったばかりである。
〈続く〉
次回から本編が始まります。
主人公はどんな人間なのかを、楽しんで書いていきたい所存です。
なろうさんの操作にはまだ慣れていません。インターネット音痴かな??
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