『叱声』
ジャンル:ホラー / ダークファンタジー / サスペンス
・本作には暴力的描写や流血表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
・宗教・神格・悪魔などを題材にしています。信条により不快に感じる可能性があります。
・心理描写や恐怖描写が強めです。ホラー表現に抵抗がある方は閲覧をお控えください。
その日、カイの家には久々に『人』が訪れた。
そして――盛大な雷が落とされた。
「まっったく! アンタはいったいなにしてんだい! カビたパンを食べて腹を壊した?! しかもろくすっぽ寝ても食べてもいなかった?! バカ言ってんじゃないよ! アタシが来てなかったらどうするつもりだったんだい?!」
「お、おばさん……声……うるさ……」
埃くさいベッドの中で、カイはたまらず呻いた。
久々に開け放たれた窓からは、そよそよと風が吹き込んでいる。その度に、部屋に積もった埃や塵が舞い上がって――おばさんの目がますますつり上がった。
昔話でしか知らなかったはずの鬼が、そこにいる。しかも逆らったら完膚なきまで叩き潰してくるタイプの鬼だ。
それもこれも、俺がカビまみれのパンを食べてしまったからではあるのだが――。
◆
――数刻前のこと。
あれこれ垂れ流し状態だった俺を見て、おばさんが叫んだのも束の間。
彼女は急ぎ足で医者を呼びに走り、戻ると俺を部屋に運んだ。おかしいな、俺それなりに身長も伸びていたはずなんだけど、と首を傾げる間もなく布団を掛けられる。
呼ばれた医者は俺の状態を診て「睡眠不足と栄養失調、それから腹下し」だと判断したらしい。その結果におばさんが更に目を吊り上げたのは、言うまでもない。
今の俺に必要なのは、休息と栄養、そして水分補給だそうだ。
オマケにとんでもなく苦い薬が付けられてしまった。正直に言うとめちゃくちゃ飲みたくない。苦いものは嫌いだ。必要だろうがなんだろうが、飲みたくないものは飲みたくない。
俺が薬を前にうだうだしている間にも、どうやら家の中であれこれ機敏に動いていたらしい。温かな湯気が立つ器と、コップを持って俺の傍へとやってきた。
「ずーっと聞こえてたカンカン音が聞こえなくなったからって、ちょっと様子を見に来てみれば……本当にアンタはなにしてんだい。――ほら、パン粥と果実水。どっちもカビても腐ってもないから安心するんだね」
ふわ、と鼻をくすぐる甘い香り。これはミルクと蜂蜜の匂いだ。
それから、コップには柑橘の爽やかな匂いもする。
……なんだが、久々に感じる『人』の気配に、目の奥が知らずツンと痛む。
器を受け取ったまま黙り込む俺に、おばさんは深いため息を吐く。
その間にもすべすべとした木の器越しに、じんわり温かさが伝わってきて、俺は妙な居たたまれなさに一層身を縮こまらせた。
「アンタが昔からケンに憧れてたのは知ってるよ。でもね、それで身体壊してちゃ元も子もないだろう。いきなり一人になって困ってたってのはあるだろうけど、それなら周りに頼るなり孤児院に行くなりあるじゃないか」
その言葉に、唇を噛む。
周りに頼れって、どうやって?
孤児院なんて、神殿の息が掛かってる場所じゃないか。
父さんが残したお金も、できるだけ使いたくなかった。
――とまで考えて、この先自分が「どう生きるのか」がまったく分かっていなかったことに気付く。
人が生きるためには、金が必要だ。その金で食事や、身の回りに必要なものを買わないといけない。
――じゃあ、子供の俺がどうやって金を稼ぐ?
まともな鍛冶はできないと判断されて、でも鍛冶以外にできることもなくて。
「……わかんない」
「……カイ、アンタ……」
生きる術が、分からない。
やらなきゃいけないことはあるのに、どう進めばいいのか見えない。
ゴールは見えているのに、そこまでの道順があやふやで、目の前がぐるぐると歪んでいく。
「……とりあえず、粥をお食べ。まずはそこからだよ」
なにも言い返せずに、頷く。
木の器に入ったパン粥を、匙で少しだけ掬って――口に運ぶ。
じんわりと甘さが広がって、ちょっと懐かしい味がした。
◆
少し、また眠ってしまっていたらしい。
喉の渇きを覚えて、枕元にあったコップに口を付ける。
鼻に抜ける柑橘の香りと、ほんの少しの酸っぱさが今は心地が良かった。
「――おや、目が覚めたのかい」
「あ、おばさん……」
「鍛冶場は入られたくないだろうから、家だけ掃除しておいたよ。ダメになってる食材も、全部纏めて捨てておいたから安心おし」
「――。……ありがとう」
鍛冶場に入られていないことに、ひどく安堵した。
傍から見れば、ただのガラクタとしか思えないものだろうけれど、あそこにあるものは俺にとってどれも必要なものだからだ。
知らず詰めていた息を吐き出して、果実水に再び口を付ける。
喉だけじゃなくて、身体全体がカラカラに干乾びてしまっているようだ。少しずつ飲んでも飲んでも、まだ足りない気がする。
「あんまり慌てて飲むんじゃないよ。腹がびっくりして、またとんでもない目に遭うよ?」
「うぐ……。……わかった」
手にしていたコップから、口を離す。
両手でもぞもぞとコップをいじりながら、カイはちらりとおばさんに視線を移した。
恰幅のいい彼女は、昔から近所に住んでいるひとだ。
確か、旦那さんが父さんと仲が良かったはず。子供もいたらしいけど――カナエと同じく『神の御許』に選ばれたんだそうだ。
当時はなにも感じなかったけど、今となっては渋い気持ちになる。
……おばさん達からしたら、きっと良いことなんだろう。俺の感じ方が、ただ、違うだけだ。
「ちっとは落ち着いたかい?」
「……うん」
「それで、これからアンタはどうしたい? 子供――っていっても、もうすぐ成人だろうけど、それでも……アンタが一人で生きていくには中々辛いんじゃないかい?」
「それは、そうなんだけど……」
おばさんが言っていることは、正しい。
ひとりで生きていく力が、方法が、今の俺にはないからだ。
ひとりで生きていくことを、甘く考えすぎていた。
ぐ、と一度唇を噛んでから、顔を上げる。
ここで引いたら、なにもできなくなる気がしたからだ。
「……それでも、――それでも、俺は、この家で生きていたい」
俺の視線を受けて、おばさんは一度目を伏せる。
呆れているような表情に、コップを握る指先に力が入ってしまった。
怒られる? それとも孤児院に連れていかれる? 呆れられて放っておかれるのが、一番マシな気がする。
「――来週、包丁の研ぎとウチで荷運びをしな」
「……へ?」
「手伝いな、って言ってんだ。飯くらいなら食わせてやる。……でもね、サボリは許さないからね?」
思ってもみなかった言葉に、ぱち、ぱち、と瞬きを繰り返す。
「……いいの?」
「近所のガキンチョが野垂れ死にするなんて、いかにも目覚めが悪いだろう。ウチのとはもう話はできてるからね。あとは、アンタが頷くだけさ」
生活できる手段が得られるのは、とてもありがたくて。
でも、手伝いに出たら、炉の管理ができなくなる。
それは――父さんが残したあの場所が、無意味になるのと同じだった。
情けない気持ちと、むず痒い気持ちがぐるぐると渦巻く。
指先が、コップの表面を引っ搔いて、中の果実水が少し波打つ。
何度か口を開いて、閉じて――。
「……――あー……、すげぇ懐かしい夢見た……」
カイの生き方を選んだ日。
あの日、鍛冶場の炉は死んだのだ。
〈続く〉
カイが腹を壊している一方、私は気圧の変動でぺちゃんこになっておりました。最近の気候の変動エグいですね……。
因みに、カビたパンや食品を食べるとアナフィラキシーショックや全身の発疹諸々を起こして、最悪死に至ることもあるらしいです。
カイは色々な意味で運が良かった方ですね。




