『悪魔』
ジャンル:ホラー / ダークファンタジー / サスペンス
・本作には暴力的描写や流血表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
・宗教・神格・悪魔などを題材にしています。信条により不快に感じる可能性があります。
・心理描写や恐怖描写が強めです。ホラー表現に抵抗がある方は閲覧をお控えください。
これは、一人の男が世界に傷を打ち込む話だ。
白亜の大神殿を中心に広がった、宗教都市ルシエル。
神の光に愛された都と言えども、太陽が姿を隠してしまえば途端に闇に包まれる。
暗闇と静寂が街を支配する中、男は息を切らせながら駆けている。
真っ白なローブが足に絡み付きひどく走りにくい。だが、信心深いこの男がこのローブを脱ぎ捨てることなどできるはずもない。
「ッはあ、はぁ、なんだ、あの、男はッ」
喘鳴を交えながら振り返る。ここまで走れば、きっと大丈夫だ。
神は自分を見捨てるはずがない。悪魔の犠牲になるはずなど、絶対にあり得ない、と――そう信じて疑わなかった。
「神よッ、ルシエル様よっ、どうか、御慈悲を――!」
胸元の布地を握り、祈りを捧げる。
この祈りが届けば、神は哀れな自分をお救いになられるだろう。
慈愛の神、秩序を齎し民たちを救済する唯一の神よ。不変不朽の我が神よ、どうか信心深い私に救済を。
(どうして、なぜ私がこんな目に……ッ)
祈りながら、男は己に与えられた仕打ちを思い返す。
今日も祈りを恙無く終え、神に選ばれた栄誉ある民を神殿へと移動させた。ただそれだけの変わらぬ日常であるはずだったのだ。
だというのに、帰路につく己を襲った不可解な黒い影に追い詰められている。
あれは、そう。きっとルシエル様が打ち倒したと聞く恐ろしい悪魔に違いない。だからこそ、信心深い自分を狙っているのだろうと結論付けた。
そこからは必死に逃げ、神に救いを乞う。この祈りはきっと届くはずだと信じて疑わない。疑うなど、異端者のすることなのだから。
「ルシエル様っ、唯一の光たる御神よ、どうかあの悪魔から私をお救いください……!」
「――その祈りは届かない」
背後に冷えた感覚が伝った。
未知への恐怖に表情を歪ませて、男は瞬間的に振り返った。
「あ、あぁ……悪魔……!」
暗闇がゆらりと形を成す。血の涙を流す『闇そのもの』がその場に立っていた。聖典でしか知らなかった古代の悪魔が、確かに今、目の前にいる。
逃げ場は後方にない。唯一の道は悪魔に塞がれ、神の救いは未だ訪れない。
胸元の布を握る手が震える。神はかつてこんな恐ろしい悪魔を退けたのか――驚愕と畏敬の念が入り混じり、男は自分では太刀打ちできないのだと本能的に理解してしまった。
悪魔が握る鉄の槌、掌をも超える杭のようなそれ。救済がなければ、自分はあの杭を打ち込まれ、殺されるだろう。
(嫌だ、いやだ、いやだッ!)
信心深い己なら、きっと上位の神官となれるはずだ。
なのに、こんな自分が悪魔の手によって死ぬなど、断じて許されない。自分の喪失は、きっと神殿にとって大きな損失となるだろう。
――恐怖からか、男の思考から理性が剥がれ落ちていく。
至って平凡な神官たるこの男は、それでも「神は自分を見捨てたりはしない」と信じて疑わない。信心深さは誰よりも優れていると、信じて疑わない。
「哀れなことだ」
「――ひィッ!」
音もなく一瞬で距離を詰めてきた悪魔に、情けない悲鳴が漏れる。
一歩後ずさった瞬間、小石に足を取られ、そのまま後ろへと転げてしまった。ああ、なんてことだ。悪魔がこんな近くにいる。目元から流れる血涙の痕に怖気が走る。
闇を凝縮した悪魔の表情は分からない。ただ恐ろしい。光あふれる白の世界に一刻も早く戻りたい。しかし、戻れない。
歯の根が震え、かちかちと鳴る音がひどく耳障りだ。
指先が冷えて、痛みすら覚える。
神は――ルシエル様の御慈悲は、救済はまだなのか。言い知れぬ焦りと絶望がひたひたと男の胸を満たしていく。祈りは無意味なのか、神は自分を見捨てたのかと――思考が黒く染まっていく。
「――神は、救わない」
「う、うるさいッ! 悪魔ごときが我が神を騙るなど許さぬッ!」
男は必死に腕を振る。これ以上悪魔が近づくことは絶対に許されない。
悪魔の甘言にも耳を貸してはならない。救わない訳がない。
信心深い民を救わないのだとしたら、それはもう――神が『存在しない』と同義だ。
男の抗いも気に留めることなく、悪魔は一歩、また一歩距離を詰める。背後が狭くなり、男の逃げ道はゼロに近づいていく。
同時に、男の恐怖は高まっていく。視界がぼやける。心の臓がばくばくと音を立てる。脚に力が入らない。全身に冷たい汗が流れていく。口ははくはくと動くばかりで、もはや悪魔を罵ることも、神に祈りを捧げることもできない。
ぐいん――と悪魔の顔が男の顔を覗き込んだ。
ヒッ、と小さな悲鳴を上げようとした――が、口はもう動かなかった。
距離が、ぐっと詰められる。背後の空間が完全に、消えてしまった。
あまりの恐怖に僅かな間だけ、瞳がぐるりと上向きそうになる。
その手に握られているのは太く、長い杭。金属の重さが伝わってきそうだ。
ああなんて恐ろしい。この後自分に起こることを想像すらしたくない。
呼吸が浅くなる。
口の中がひどく乾いて、唾液を飲み込むこともできない。
指の感覚がなく。
一歩、また一歩と距離を詰められて――あまりの恐怖に瞳孔が大きく開いた。
ゆらりと、鉄杭が持ち上げられる。
ゆらりと、鉄槌が構えられる。
――ああ、神よ。
どうか、私をこの悪魔から御救いください――。
最期に目に焼き付いたのは、美しい神の姿ではない。
――恐ろしい悪魔の姿のみ。
〈続く〉
初めまして、猫島けいと申します。
こういう媒体に初めて掲載したので、割と操作であっぷあっぷしています。
オリジナル作品を連載することを楽しみながら、下記進めて参りますのでお付き合いいただけると幸いです。




