第8話:振動
揺れは一度きりだった。
それでも、その場の空気は一瞬で張りつめた。
「……建物の問題ではなさそうですね」
「外の様子を確認します」
研究員たちが一斉に席を立ち、窓辺や廊下へ散っていく。
紙の擦れる音も、器具の触れ合う音も止んでしまった。
「アルクくん」
ミロが振り向いて、魔物の死体を指さす。
さっきまでの軽い調子はそのままなのに、目だけが真剣だった。
「この“獣”が現れたとき、羅針盤はどう動いてたんだっけ?」
「えっと……針が急に揺れを止めて、
そのまま、追いかけるような感じで……」
「だよね」
ミロは、机の上の羅針盤に視線を落とした。
針はまた、かすかに震え始めていた。
さっきまでの乱雑な揺れとは違う。
どこか、迷いながら“何か”を探っているような動き。
「ローガン隊長」
ミロが短く呼びかける。
「この揺れ、偶然とは思えません。
――どこかで、また“何か”が起きている可能性が高い」
隊長は頷きかけたところで、扉が勢いよく開いた。
「失礼します!」
駆け込んできた若い研究員が、息を弾ませながら報告する。
「王都南門付近の塔で、最も大きな振動が観測されました!
周囲で、微弱な光も確認されたとのことです!」
「塔……?」
ローガンが眉をひそめる。
ミロは一度だけ手を打った。
「決まりだね。
――次の現場は、王都の中だ」
彼は楽しそうに、しかし瞳だけは鋭く光らせながら続けた。
「ローガン隊長。現地調査に、僕も同行していいかな?
それと……もちろん、アルクくんも」
「僕も……ですか?」
思わず声が裏返る。
ローガンは静かに頷いた。
「君ももう立派な調査員だよ。それに、その羅針盤なしでは、
我々は“異変”を追う手がかりを失うことになる」
胸元の羅針盤を握る。
針は、落ち着きなく、しかし確かに――
同じ方向へ揺れを寄せ始めていた。
◆ ◆ ◆
研究院を出てしばらく歩いたころだった。
ミロが唐突に、僕とローガンの間に割って入るように言葉を投げた。
「さっきの揺れだけどさ……偶然って感じじゃないんだよね」
ローガンが横目で見る。
「理由はあるのか?」
「理由“らしきもの”ならね」
ミロは歩きながら、指で空中に何かを書き描くような仕草をした。
「まず、獣――魔物って呼ぼうか。
あれの身体構造がそもそも一般的な生態系じゃ成立しない形をしてた。
で、アルクくんの羅針盤は“魔物”と“光”にだけ反応した。
さらに……光の裂け目には“色がなかった”」
僕は思わず飲み込んだ唾の音が聞こえそうだった。
「その三つが、同じ線で繋がるってことですか?」
「いや、まだ分からないよ?
でもね――全部“同じ種類の現象”だと考えてみたんだ」
ミロは人差し指を立てる。
「例えば、光の向こう側の“干渉”が、この世界の特定の場所でだけ起きている。
その干渉点に近づいたときだけ、羅針盤の構造が何かに引っ張られる、とか」
「そんなことが本当にあり得るのか?」
ローガンの声は落ち着いていたが、明らかに興味を引かれていた。
「あり得るかどうかは知らないよ。
僕らの常識で測れる話じゃないしさ。
でも――“羅針盤が向いた場所に何かが起きる”という事実は、もう観測されてる」
ミロの瞳は笑っているのに、瞳の奥は鋭かった。
「だから僕の仮説、今のところ筋が通ってると思うんだよね」
僕は胸元の羅針盤を握りしめた。
(仮説……でも、ミロが言うと真実みたいに聞こえる……)
馬車が準備されると、ミロはひょいっと荷台に飛び乗りながら僕に向かって笑った。
「アルクくん。羅針盤を手放さないでね。
“真相”に一番近い場所にいるのは、君だから」
その言い方は軽いのに――
背筋がぞくりとする重さがあった。




