第6話:船旅
甲板の上に立つと、潮風がすぐに頬を打った。
まだ日が昇りきらず、青とも灰ともつかない空が海と混じり合っている。
「アルク少年、こっちが君の荷物を置く場所だ」
隊長が指差した木箱のそばに、僕は持ってきた布袋を置いた。
ソルメアから王都に向かう船に乗るなんて滅多にないことだ。
外洋に出られる大型船は貴重で、この船も漁船の数倍はあろうかという大きさだ。
そのせいか、足元が少しふわふわする。
岸を見ると、町の人々はもう見えなかった。
リタは両手を振り、ラグ爺さんが帽子を掲げていた姿はしっかり目に焼き付けた。
(……本当に行くんだな、僕)
羅針盤は相も変わらず揺れっぱなしだった。
何かを示すのでもなく、ただ落ち着きなく震えている。
帆が風をはらみ、船が加速していくのを感じられた。
木材がきしむ音、鎖が引かれる音。
ソルメアの港がどんどんと遠ざかる。
兵士の一人が僕の隣に来て、何気ない口調で話しかけてきた。
「坊主、森での案内は大したもんだったな。
船にも慣れているのか?」
「漁船にはよく乗ってますけど……こんなに大きいのは初めてです」
「なら酔い止めでも飲んどきな。王都まで半日はかかるぞ」
親切に薬を一包手渡してくれたので、
ありがたく飲むことにした。
半日。
一昨日の夜、光が見えてから兵士が到着した速度を思えば、確かに近いのかもしれない。
けれど、ソルメアの人から見れば——
この王都行きの船を目にするのは年に一、二度ほどだ。
そのことを思うと、自分がとんでもない場所へ向かっているように感じた。
一息ついて海を眺めていると、隊長が隣に立った。
「緊張しているか?」
「……少し、です」
「無理もない。だが安心していい。王都といっても、恐れるところではない。
人が多い、建物が大きい……その程度の違いだ」
「研究院って、どんなところなんですか?」
隊長は少しだけ考え、言葉を選ぶように答えた。
「学者たちが集まる場所だ。
王国で起きた奇妙な現象、原因不明の事件……そういったものはすべて、彼らの手に渡る」
「……なんでも調べるんですね」
「調べるだけならいいが、手に負えないものも多い。
だからこそ、私たちのような調査隊が現地へ赴く必要がある」
隊長はそこで言葉を切った。
そして、僕の胸元へ視線を落とす。
「君の羅針盤……あれは、研究院が見れば喜ぶだろう」
「ただの母さんの形見なんですけどね——
ずっと壊れていると思っていたし……」
「壊れた道具が、魔物や光に反応すると思うか?」
その言葉に、返す言葉が詰まった。
(母さん……この羅針盤のこと、命を救ったお守りだって言ってたけど――
昔の詳しい話はいつも教えてくれなかったな。)
僕が黙り込むと、隊長は困らせて悪かったと苦笑した。
「なんにせよ、あんな魔物も光の裂け目も、私も初めての経験だった。
すべてを君に説明してくれという訳じゃないんだ。
むしろ糸口になりそうな君が一緒に来てくれて、とても助かるよ」
そう言って、隊長は片手を上げて甲板の先へ戻っていった。
時間がゆっくりと流れていく。
太陽が高くなり、船影が海の青に伸びる。
兵士たちは甲板の隅で軽い訓練をしていたり、
酒場の噂話のような軽口を交わしたりしていた。
僕は欄干にもたれ、海を眺めていた。
(……あの魔物も、光も。
母さんは何かを知っていたのかな?)
そんな考えが浮かび、胸がじくりと痛む。
母さんは流行り病で数年前に亡くなってしまったが、
身寄りのない町で僕を産み、女手一つで育て上げてくれた。
市場で働いて、決してな生活ではなかったが、
それでも海や森で食べられるものの探し方を教えてくれたり、
やけにサバイバルに強い母だった。
ソルメアには小舟で漂着したというし、
その理由すら僕は知らない。
我が母ながら謎が多い。
こんなことなら、もっと聞いておけばよかった。
(……ま、聞いても教えてくれなかったんだけどね)
揺れる羅針盤を軽く手で押さえても、
針はお構いなしにフラフラと揺れ続けていた。
夕刻に差し掛かった頃、隊長が前方を指した。
「見えてきたぞ。王都の港だ」
目を細めて見たその先——
海の灰色の向こうに、巨大な城壁と石造りの塔が並んでいた。
桟橋には信じられないほど多くの船が停泊していて、
帆の色、形、紋章。どれもソルメアにはないものばかりだ。
「……すごい……」
言葉が漏れた。
荷を運ぶ商人、叫ぶ船員、走り回る子ども。
色とりどりの衣をまとった人々が入り乱れて、
ソルメアの港とはまるで別世界だ。
「驚いたか?」
隊長が穏やかに笑った。
「ここが、王都エルディナ。
王国でもっとも賑わう街だ」
僕はただ、息を飲んだ。
やがて船が岸に近づき、ゆっくりと停まる。
船員の掛け声が響き、縄が投げられ、船が固定される。
見慣れているはずのその一連の動作すら、船のスケールが違うからか新鮮に感じる。
甲板から下りると、固い石畳が迎えてくれた。
海の上ではふわふわしていた足が、今はしっかり地面を踏んで心地よい。
荷下ろしをする若い兵士に混ざり、手伝うといったら歓迎された。
ずっしりとした荷物の重みに少しばかり後悔したが、幾分緊張がほぐれた気がした。




