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Boundary Compass ― 境界の羅針盤 ―  作者: 作者名未定


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第5話:帰還

森を抜ける頃には、僕たち第二隊の足取りは自然と早くなっていた。

すでに第一隊——負傷者と死体を運ぶ組は無事に町へたどり着いたようだった。


僕の胸元では、羅針盤の針が狂ったように揺れ続けていた。

さっきまで魔物や光へ引き寄せられるような動きをしていた針は、

今では逆に、何にも触れられずに暴れているように見える。


(……引き寄せるものが全部消えた、ってこと?)


元に戻っただけだ。

でも、異変がこれで全て終わったのかは、分からない。

森で見たものが結局なんだったのかも、何も分からないままだ。




港に近づくにつれ、ソルメアの一帯が緊張に包まれているのが分かった。


広場では人々が集まってざわついている。

その中心には、第一隊の兵士たちがいた。


包帯を巻かれた負傷兵を見て、町人たちは顔を青ざめさせていた。


「なぁ、あれ……森で何があったんだ?」


「熊にやられるような怪我じゃないよな……」


「アルクも一緒に行ったんだろう? まだ帰ってきてないのか?」


袋詰めにされた死体は、何が入っているのか町人には分からない。

けれど——“普通じゃない”ことくらいは、誰の目にも明らかだった。


人だかりに向かって隊長は堂々と歩き、短く告げた。


「森の奥で獰猛な獣の痕跡を確認した。

 明日、王都へ報告に戻る。

 詳細は控えるが、町の者は森へ近づかないように」


僕も姿を見せると、何人かが声をかけてきた。


「アルク、無事だったか!

 さっき怪我した兵の兄ちゃんが帰ってきてよ……お前も怪我してないかと心配してたんだぞ」


声をかけてきたのは、港でよく網の修理を教えてくれるラグ爺さんだ。


「う、うん……僕は大丈夫だよ」


「ならいいけどなぁ……けど、危ない目にあったんだろう?

 何があったか聞きてぇが……まぁ、言えねえこともあるだろうな」


隊長を一瞥したラグ爺さんは、ニカっと笑って、また今度教えてくれやと肩を叩いてくれた。

その穏やかな言い方に、少し胸が痛くなった。


あとからは、魚屋の娘リタも駆けてきた。


「アルク! あんたが一緒に森に行ったって聞いてびっくりしちゃった。

 お給金貰ったなら、今日はたくさん買ってもらうつもりだったのに……なにその顔」


「ちょっと、色々あってね……」


「……ふーん。あんたも詳細は控えるってこと?

 ま、今日は疲れてるでしょうし、あとでご飯でも食べに来なさいよ」


リタは目を細め、笑った。

母さんが亡くなってから、姉のように世話を焼いてくれる彼女には、いつも感謝している。


「助かるよ。ご飯、ごちそうになろうかな。

 おじさんにもありがとうって伝えといて」


じゃ、あとでねと言って去っていくリタに手を振った。


僕の胸元では、羅針盤がまだ揺れ続けている。

まるで僕の気持ちを代弁するみたいに落ち着かない。




リタの家で夕飯をごちそうになって、森でのことを色々聞かれたが、

隊長にも口止めをきつく言い渡されていたので、何とも気まずい食卓だった。


リタには、私にだけはこっそり教えなさいよと突っつかれたが、

見たこともない大きな熊が暴れていて、隊長が討伐したといってごまかした。

(リタは納得したような、していないような顔をしていた)



家に帰り日がすっかり暮れたあとも、羅針盤をずっと触っていた。

傾けても、向きを変えても、針はどこを指すともなく揺れ続ける。

熱を帯びることもないし、一昨日までの”壊れた羅針盤”状態にすっかり戻ってしまった。


もうお手上げだ――と机に突っ伏したところで、

扉が三度ノックされた。


「アルク少年、いるかな」


落ち着いた声。

玄関扉を開けると隊長が立っていた。


「今日の件について……ひとつ頼みがある」


その表情は、優しくも少し険しい。


「明日の朝、我々は王都へ戻る。

 そこでなんだが――君にも同行してほしい」


胸の奥がぎゅっと縮んだ。


「ぼ、僕も……ですか?」


隊長はゆっくり頷く。


「森で見たものについて、研究院は詳しい証言を欲しがるだろう。

 一つでも証言は多い方が良い。そして何より——」


隊長の視線が僕の胸元へ落ちた。

羅針盤は今も針を震わせている。


「その“羅針盤”だ。

 それがただの壊れた道具でないことは、私も分かっているつもりだ」


僕は無意識に羅針盤を握りしめていた。


「魔物にも、あの光にも反応した。

 今はどこか一つの方向を示しているわけではないようだが……

 あれの持ち主である君がいなければ、報告は不十分になる。

 それに、大切な母君の形見を取り上げる訳にもいかないしな。

 同行してくれ」


証言だけなら、僕は必須ではないはずだ。

でも——羅針盤の持ち主は、他にいない。

羅針盤を回収するのではなく、僕に一緒に来てくれというのは、隊長の優しさだと思う。

きっと、断ればそうもいかないのだろう。


無論、このまま謎を抱えるよりも、嬉しい誘いではある。

実のところ、今日見た魔物と光で頭の中はいっぱいだ。


喉が乾き、けれど心の奥が静かに熱を帯びた。


「……行きます」


隊長は、僕に隠すこともなく、心からほっとした顔で頷いた。


「恩に着るよ。明朝、港へ。出航は早い。

 悪いが、準備しておいてくれ」




そこから出航までの間、

僕はいつもより多くの人に声をかけられた。


市場のパン屋のサミアおばさんは、

焼きたてのパンを手渡しながら言った。


「アルク、王都に行くんだってねぇ。

 あんた真面目だし、どこへ行っても恥ずかしくないよ。

 向こうで変なもん食べて体壊すんじゃないよ」


漁船での雑用仲間のオーレは笑いながら背中を叩いてきた。


「王都か。お前、立派になっちまうなぁ。

 帰ってきても俺の相手してくれよ?」


そんな軽口を叩きながらも、

その目はどこか心配げだった。


リタは少し黙ったあと、

ぽつりと言った。


「……帰ってくるんでしょ?」


「もちろん」


「だったら、安心した。

 王都って広いんでしょ?

 迷わないようにね」


その言葉が、胸に沁みた。




甲板では兵士たちが準備を整え、

隊長が僕に手を振る。


「アルク少年! こちらだ」


霧が薄く漂い、夜明けの光がまだ海を染めきらない。

王国の軍船が静かに帆を上げていた。


僕は振り返った。

ソルメアの小さな家々。

波止場に立つ町人たちの人影。


リタが手を振っている。

ラグ爺さんもゆっくりと帽子を掲げた。


胸元の羅針盤は、

今も方向を示せずに揺れている。


(……母さん。僕、行ってくるよ)


船が岸を離れた。

皆に振り返す手が少し疲れてきたが、もう少しだけ目に焼き付けておきたかった。

だから、皆が豆粒になるまで手を振った。


潮風が一度だけ強く吹き抜け、

僕を乗せた船が王国へ向かって進んでいく。

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