第3話:影
倒木の影がわずかに揺れた。
そこだけ闇の濃さが違う。
森に満ちていた冷たい空気が、さらにひんやりと感じられる。
“それ”はゆっくりと立ち上がった。
最初は、ただの黒い塊に見えた。
けれど徐々に目がその輪郭を捉えてきた。
細い腕。
不自然な角度で曲がっている関節。
湿った土をこすったような黒い皮膚。
そして——
深く、深く裂けたような口。
光が吸い込まれるようなその空洞に、僕は呼吸を忘れた。
(……見たことない。なんだ、これ)
この森にこんな生き物はいない。
鹿でも熊でもない。
まして人でもない。
胸元の羅針盤が、針をまっすぐ“それ”へ向けたまま動かない。
——これが引っ張っていた。
そう確信した。
「…………全員、構えろ」
隊長の低い声が森に響く。
兵士たちが一斉に武器を構えた。
黒い影がひょいっと首を傾けた。
音もなく、こちらを見ているようだ。
次の瞬間、
最前列の兵士に飛びかかった。
「うわっ——!」
がしっ、と乾いた音。
兵士の腕に黒い影の顎が食らいつく。
骨がきしむような鈍い衝撃音がして、兵士が悲鳴をあげた。
「離れろッ!」
別の兵士が横から槍を突き込む。
黒い影は俊敏な動きで跳ね退き、木の影に滑り込んだ。
「アルク少年! 下がれ!」
隊長に腕を引かれ、僕は後方へ下がった。
胸が苦しいほど早く脈打っている。
(なんで……こんな魔物が……)
黒い影が再び飛び出す。
兵士の横腹をかすめるように走り抜け、
地面を浅く抉った。
爪や牙は見えない。
でも、動きだけで“普通じゃない”と分かる。
数人の兵士が傷を負い、じりじりと包囲が乱れる。
「囲いを崩すな! 三方向から押し込め!」
隊長の号令に、兵士たちは必死に動いた。
槍を構える者、盾で押し返す者、後方から弓を引く者。
黒い影はまた飛びかかろうとした。
その瞬間——
隊長が横から踏み込んだ。
「——ッ!」
鋭い風切り音が響く。
隊長の剣が、黒い影の胴を斜めに裂いた。
透明な液体が飛び散る。
影は短く痙攣し、地面に崩れた。
素早く身を翻した隊長が、短く叫ぶ。
「弓兵ッ!」
倒れた影に一斉に矢が突き刺さる。
動きが、止まった。
森に、重い沈黙が落ちる。
兵士たちが息をつきながら周囲を確認する。
「……死んだ、か?」
「動きませんね……」
「くそ……なんなんだ、こいつは……」
黒い影は、地面に倒れたままその姿を維持していた。
けれど、近づくと気づく。
体の表面が薄く波打っている。
まるで、この世界の生き物とは思えない。
「……軽い。」
倒れた魔物の腕を持ち上げようとした兵士が言う。
「中身が……ほとんど入ってないみたいだ」
鹿と同じだ。
体だけあって、中身が空っぽのよう。
僕は喉の奥がひりつくような感覚を覚えた。
(……これが、羅針盤を引き付けていた。)
胸の羅針盤が、音のしない鼓動を打つように、冷たく重く感じられた。
隊長が全員を見回し、短く命じた。
「負傷者を確認しろ。……死者は?」
「ありません、隊長。重傷は一名。腕を噛まれた兵士です」
「よし。では——隊を二つに分ける」
隊長の声は落ち着いていたが、その目は森の奥を刺していた。
「第一隊は負傷者と魔物の死体、そして首のない鹿を持ち帰れ。
第二隊はこのまま“光”の捜索を継続する」
そして、僕を見た。
「アルク少年。君は第二隊だ。
君が来ないと、この先の判断が難しい。
……頼りにしている」
「え……?」
「君の案内が必要だ。
そして——その羅針盤のことも教えてくれ」
僕は静かに頷いた。
羅針盤は、魔物の死体を指したままだった。
第一隊が森の外へ下がっていく。
負傷者の肩を支える者、魔物と鹿の死体を詰めた袋を抱える者。
僕は隊長たち二隊目とともに、さらに森の深部へと歩みを進めた。
第一隊と遠ざかるにつれて、羅針盤の針がゆっくりと反転し始める。
さっきまで魔物の死体を指していた針が、
森の奥と死体のほうを、行ったり来たりしている。
森の奥には、
まだ何かが待っている。
軽い風がひゅう、と吹き抜けた。
それは、まるで——
僕の背中を押すでも、引き留めるでもなく。
ただ、冷たく見守るような風だった。




