第2話:森の奥
港から出発してすぐ、調査隊の列は静かになった。
兵士たちの鎧が触れ合う音以外、誰も口を開かない。
僕は列の少し後ろを歩きながら、
胸元の羅針盤を気にしていた。
森に近づいても針はまだ不規則に揺れている。
けれど、その揺れには昨夜までとは違う雰囲気があった。
まるで、何かに吸い寄せられているような──
そんな動きをしている。
(何があるか分からないけど……少しずつ揺れが落ち着いてる?)
そう感じた。
横を歩いていた若い兵士が、ちらりと僕を見た。
「案内役が子どもってのは、どうにも頼りねえなぁ。
光の原因が何かもまだ分からねえし、獣に襲われるかもしれんぞ。本当に大丈夫か?」
少しきつい言い方だったが、悪意はなさそうだった。
その横で別の兵士が笑って肩を叩く。
「いいんだよ。ソルメアの連中は漁師ばっかりで森に詳しい奴は少ないって話だ。
お前が案内できるってなら、俺たちは助かる。それだけだ」
「はい……」
そう返しながら、僕たちは森の入口まで進んでいた。
森に足を踏み入れて10歩も行かないうちに、僕は思わず足を止めた。
「……静かだ」
朝の森なら、鳥の声が聞こえていいはずだ。
いつもなら、さまざまな鳴き声が木の上から降ってくる。
でも、今日はまるで音がなかった。
風すらも止まっているような、奇妙な静けさ。
「どうした、アルク少年?」
背後から隊長の声が飛ぶ。
「いえ……なんだか、いつもと違う気がして」
隊長は眉をひそめ、森の奥を睨んだ。
「気を引き締めろ。昨夜の光が本当に森の奥から出たのだとしたら、
何かが起きているのは間違いない」
“昨夜の光”。
そう、町の見張り台から見えたという、青白い揺らぎ。
その話が頭をよぎった瞬間──
羅針盤の針が、ピタリと止まった。
ほんの一瞬だけ。
けれど確かに、森の奥の一点を指した。
(えっ……?)
僕が胸元を見ると、針はすぐにまた揺れ出した。
けれど今度の揺れは、どこか“目的のある迷い”のように思えた。
(やっぱり……何かに引き寄せられているみたいだ。)
胸の奥がざわつく。
隊長が周囲を見回しながら、僕に尋ねる。
「アルク少年、深部へ向かうにはどのルートが安全だ?」
僕も改めて周りを見渡し、落ち葉の沈み方と、根の張り方を確認する。
「こっちです。
三叉路になりますけど、左は獣道で、右は倒木が多くて進みにくい。
真ん中が一番安全です。」
「了解した。その道は通ったことがあるか?」
「いつもはそんなに森の深いところまで入ることはないけど──
あっちを見てください。潮風の当たり方で、木の密度が全然違う。
あと、こっちの地面は、獣の爪跡が乾いた上に落ち葉が積もってる。
最近は獣も通ってない。安全な証拠です」
兵士が目を丸くする。
「本当に案内人だな……」
隊長が短く言う。
「よし。アルク少年、先頭の横についてくれ。道の判断は任せる」
僕は頷いた。
胸の奥が熱くなる。
“任された”という実感と、緊張が入り混じる。
その後しばらくは、順調に案内ができていたと思う。
どこか静かすぎる気は拭えなかったが、まったく動物がいない訳でもなく、
途中何度か木々の陰からこちらを警戒する様子の鹿が見えた。
森の中腹を超えたくらいで、僕が先に違和感に気づいた。
「止まって!」
思いがけず大きな声が出て、兵士たちに緊張が走る。
「どうした?」
「……地面の沈み方が変です。何かが通った跡がある。」
「ここに至るまでにも、足跡がまったく無かった訳ではないだろう」
「もちろんそうです。……でも、これは森の獣の足跡とは違う……
それに――あれを」
僕は指差した。
そこには、大きな鹿が倒れていた。
しかし、その死体には首がなかった。
残された体も異常に痩せており、軽そうに見える。
まるで、首から体の中身がすっぽり抜け落ちたようだった。
隊の空気が一気に重くなる。
「なんだこれは……」
誰かのつぶやきが、森に吸い込まれる。
僕は喉がひゅっと縮むのを感じながら、
胸元の羅針盤をそっと握った。
針は──
揺れていなかった。
真っすぐに、左斜め前方を指していた。
「…………っ」
思わず、息が零れた。
「今度はなんだ?」
兵士の一人が振り返る。
「……あの……こっち、かもしれません」
隊長が僕の手元に視線を向けた。
「それは……羅針盤か?」
僕は頷く。
隊長は一瞬怪訝な顔をしたが、迷うように短く息をつき、
小さく「……了解した、進む」と命じた。
兵士たちが警戒しながら前へ進み始める。
僕はその背中を追いかけながら、
胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
恐怖と、不思議な期待。
どちらともつかない気持ちが混ざり合う。
しばらく進んだ時だった。
ざり……。
何かが動く音がした。
隊長が腕を上げ、全員が立ち止まる。
耳を澄ますと、かすかな“咀嚼音”が聞こえた。
ぐちゃ……ぐちゃ……と、湿った音が。
森の奥、倒木の影。
そこだけ闇が濃く沈んで見える。
その暗がりの中で、
“何か”が動いた気配がした。
僕の心臓が、跳ねた。
——いる。
——これに引っ張られていた。
羅針盤の針が、まっすぐその影を指し示していた。
隊長が低く呟く。
「…………全員、構えろ」
その瞬間、森全体が凍りついたような静けさに包まれた。
そして、影がゆっくりと──立ち上がろうとした。




