第15話:揺らぎ
巨大な影が、色のない空の向こうでゆっくりと身じろぎした。
裂け目はまだ、閉じる気配を見せない。
足場の上で誰も動けずにいた。
先に声を出したのは、ローガン隊長だった。
「……周囲の封鎖を一段階上げろ。
倉庫の前は調査隊と兵だけでいい。見物人は全員遠ざけろ」
短く告げると、隊長は足場から地上へ降りていった。
硬い音を立てて地面に降り立つと、下で待機していた兵士たちが動き出す。
「封鎖線を広げる! 倉庫の南側にも回せ!」
「住民は路地一帯を立ち入り禁止! 広場側へ誘導しろ!」
鋭い声が重なり、倉庫の前はすぐに慌ただしくなる。
足場の上で、僕は喉の奥に残った息をやっと吐き出した。
(……森の魔物とも鳥型とも比較にならない)
羅針盤はまだ、裂け目の奥――あの巨大な影の方角を示し、ゆっくりと揺れていた。
◆ ◆ ◆
封鎖線が張り直され、倉庫の周囲は“輪”で囲まれた。
さっきまでは好奇心に駆られて近づいてきていた住民たちも、
兵士に促されて広場の方へ下がっていく。
遠くから、ひそひそ声だけがかすかに聞こえた。
「本当に、あの倉庫に何かいるのか……?」
「さっき、空が光ったように見えたぞ」
「見ちゃだめよ」
「巻き込まれたくないしね」
そんな声が、封鎖線の向こう側でざわめいている。
足場の上の空気は、逆に静かだった。
ミロが、じっと裂け目を見つめている。
「……動きは、さっきより遅くなってる、かな」
「分かるんですか?」
「うん。あの影の輪郭、最初はもう少し早く揺れてた。
今は……一歩ずつ“踏みしめてる”みたいな感じ」
言われてみると、確かにそうだった。
巨大な影は、ぼんやりとした黒い塊のまま、
ほんの少しずつ、少しずつ、こちら側へ近づいてきている。
速さだけでいえば、歩いている人間より遅いくらいだ。
それでも――距離があるはずなのに、近づいてきていることだけははっきり分かった。
◆ ◆ ◆
「……今、少し広がった」
ミロがぽつりと呟いた。
「え?」
「裂け目。ほら、上の角のところ。
境目に見えてた煉瓦がさっきと違う」
そう言いながら、ミロは腰に挟んでいた板と紙を取り出した。
紙には、昨日の簡単なスケッチに数値が書き加えられていた。
裂け目の高さと幅、倉庫の端から端までの距離、壁の焦げ跡の位置。
ずっと変な実験に夢中だと思ったのに、
いつのまにこんなに緻密な記録をしていたんだろう――
「昨日はここまでだった。
さっき、足場に登って最初に測った時も、この線で合ってた。
でも今測ると――ここまで来てる」
鉛筆の先が、紙の上で少しだけ外側をなぞる。
僕には、ほんの数ミリの違いにしか見えなかった。
でも、ミロの声には確信があった。
「少なくとも、さっき計った時からさらに15cmは広がってる」
「……また、広がってるってことですか」
「うん。
昨日から合わせると、30cm。
このペースが一定とは限らないけど――“広がり続けてる”のは確かだね」
事実だけを正確に伝えてくれるミロが少し怖い。
裂け目は生き物じゃない。
でも、じわじわと大きくなっている。
向こう側から滲み出ているみたいに。
◆ ◆ ◆
地上から、足場を駆け上がってくる足音が聞こえた。
「ローガン隊長からの伝令です!」
息を切らした若い兵士が、足場の揺れをものともせず上ってくる。
腕には巻かれた紙束が抱えられていた。
「王城への第一報は送られました。
隊長の判断で、当面はこの状態のまま、調査隊の観測を最優先するとのことです!」
「市民への指示は?」
リーシャさんが短く尋ねる。
「周辺地区の住民には“倉庫の近辺には近づかないように”との通達のみ。
避難命令はまだ出ていません」
(……やっぱり、まだ王城も判断できてないんだ)
巨大な影の正体も分からない。
裂け目の性質も分からない。
それでも、ここに“世界の外側”みたいなものが繋がっている。
そういう実感だけが、足場の上の全員を掴んで離さないでいた。
◆ ◆ ◆
ミロが、ふとこちらを振り返った。
目はいつも通りきらきらしているけれど、
その奥に張り詰めたものがある。
「ローガン隊長が戻ってくる前に、ひとつ提案していい?」
「……嫌な予感しかしませんが」
リーシャさんが、小さくため息をついた。
ミロはまったく気にせず、腰から縄を引っ張り出した。
「僕が、向こう側に入ってみるっていうのはどうかな?」
「本気ですか?」
思わず声が出た。
「いや、待ってくださいミロさん、それは――」
「見ての通り、あの影はすごく大きいけど……。
距離もかなりあるし、動きも遅い。
僕だけ裂け目の中に入って、景色や空気の状態を観測して、
何かあったらすぐに引き戻してもらえば……危険は最低限に抑えられると思うんだ」
言いながら、器用に縄を自分の腰に巻きつけていく。
「ほら、こうやって結べば――」
「却下だ」
ぴしゃりとした声が割り込んだ。
足場の梯子を登りきったローガン隊長が、眉ひとつ動かさずに言った。
「あちゃー! 遅かったかぁ~!」
「私がいない隙に、とんでもないことを提案するなよ……。
まだ向こう側は見えている以上のことは分からん。
あれの脅威もどの程度か不明だ、こんな状態で誰も中には入れんぞ」
隊長の視線が裂け目と、その奥の巨大な影を一度だけ鋭くなぞる。
「今分かっているのは、
“向こう側に何かがいる”ことと、
“裂け目が広がり続けている”ことだけだ。
それだけで十分すぎる」
リーシャさんも静かに続ける。
「……ミロ博士が中に入ったら、
その瞬間に“向こう側からの反応”が返ってくるかもしれません」
「観測者としては、入っちゃうのが手っ取り早いと思うんだけどねえ……」
ミロは未練たっぷりに縄をいじりつつ、
それでも素直に腰から外した。
「でも、隊長の言う通りだ。
僕が死んだら、誰がこの現象を解析するんだって話だしね」
「その自覚があるなら、最初から言わないでください」
リーシャさんがぼそっと突っ込む。
少しだけ、足場の空気が緩んだ。
でも、その緩さはすぐに消えることになる。
◆ ◆ ◆
ぐらり、と世界が傾いた。
「――っ!」
足場が大きく揺れた。
体が前に持っていかれる。
足元の板がぐん、と沈んだ気がした。
(なに――)
「地震だ!」
誰かが叫ぶ。
下からも悲鳴や怒号が上がる。
倉庫の壁がぎし、と音を立てて揺れた。
足場の柱がきしみ、
釘が嫌な音を立てる。
「アルク、掴まれ!」
隊長の声が飛ぶのと、
僕の足が板の端を踏み外すのはほぼ同時だった。
視界がぐるりと回り、
裂け目の光が真上――いや、目の前に迫る。
(落ちる――)
「アルク!」
鋭い声と同時に、足を引きちぎられるかと思うほどの衝撃が走った。
リーシャさんが、片膝をついた体勢から僕の足首を掴んでいた。
その体は足場の柱にしがみつきながら、全体重を僕の方へ傾けている。
「う、あ――っ」
僕の下半身はかろうじて足場の上に残っていたが、
上半身は完全に“裂け目側”へ落ち込んでいた。
目の前に、光の縁がある。
手を伸ばせば届きそうな距離。
いや――それは”向こう側”から見た光の縁だ。
無我夢中で空を掻いた手が、
何か固いものをつかんだ。
ざらり、とした感触。
指の間に砂のようなものが入り込む。
「アルク、力を抜くな! 引き上げる!」
隊長が背中側から僕の腰を抱え込む。
リーシャさんと隊長、二人が同時に力を込める。
胴が抜けるかと思うほど引っ張られ、
肺の空気が全部吐き出される。
次の瞬間――
僕は足場の上に転がっていた。
肩と背中に板の硬さを感じる。
視界が何度か揺れて、ようやく止まる。
「……いっ……た……」
全身が軋むように痛い。
でも、生きている。
「大丈夫か」
隊長の顔が覗き込んでくる。
額にはびっしょりと汗が浮かんでいた。
「は、はい……すみません」
声がうまく出ない。
喉が乾いているのに、呼吸だけは勝手に荒くなる。
リーシャさんは僕の服を掴んだまま、
裂け目に背を向けるように体をずらした。
「もう……前に出すぎです」
小さく呟く声が、少しだけ震えていた。
◆ ◆ ◆
右手に、何かを握っていることに気づいたのは、その後だった。
指を開くと、小さな石がひとつ、掌に転がり落ちる。
灰色の、どこにでもありそうな石。
少しだけ黒い筋が走っている。
(さっき、つかんだものだ……)
裂け目の向こう側で、
必死に掴んだ感触を思い出す。
「アルクくん、その石……」
ミロが、すぐさま顔を近づけてきた。
「向こう側の地面にあったの?」
「……分かりません。
でも、たぶん……そう、だと思います」
足場の板の上に石をそっと置く。
その表面に付いた細かな砂粒が、
かすかに光を反射した。
その瞬間――
砂粒が、じわりと動いた。
「……え?」
誰かの声が漏れた。
砂粒は石の表面を、滑るように移動していく。
まるで、目には見えない何かに引っ張られているように。
向かっている先は――
「裂け目の方だ」
ローガン隊長が低く言った。
石の上の砂粒は、
倉庫の壁に開いた裂け目の方向へ、
じわり、じわりと寄っていく。
石そのものは動かない。
でも表面に付いた砂だけが、
何かに吸い寄せられるように光の縁へ向かっていた。
胸元の羅針盤が、同じ方向を――
裂け目の奥を、静かに指し示している。
ミロが息を飲んだ。
「……これ、まさか」
「ミロさん?」
「この砂……いや、この石自体も。
もしかして、アルクくんの羅針盤に使われている素材と――同じものかもしれない」
足場の上の空気が、一段と重くなった気がした。
裂け目の向こうから持ち帰った、小さな石。
その表面を、砂が光の方へ這う。
羅針盤の針は、ずっと前からその先を指していた。
(……僕の羅針盤と、この石と、裂け目は――)
何かが一本に繋がっていく感覚だけが、
はっきりと胸の奥に残った。
裂け目はまだ、微かな揺らぎを纏ったまま、
そこに――開いていた。




