プロローグ:羅針盤
僕の住むソルメアの港町は、穏やかで、のんびりした場所だった。
朝になれば潮の匂いが町じゅうを満たし、夜になると酒場から笑い声がこぼれる。
白い石畳の通りと、潮風で色の落ちた木造家屋。
どこを見ても、平穏で変わらない、少しだけ退屈な日常だった。
僕はいつも通り、船の掃除やロープの修理を手伝っていた。
海の匂いや船の揺れ方で、数時間後の天気がわかる。
漁師の親父たちは、冗談半分に僕を“未来の船長”と呼んでいた。
手伝いが終われば、海辺を歩いて回り、森へ向かうのが日課だ。
他の人が見もしないような小さな貝を拾い、毒キノコと食べられるキノコを見極めていく。
母さんから教わった“生きるための知恵”であり、僕の好奇心を刺激するささやかな冒険だった。
首から下げた羅針盤のペンダント──
これだけは、母さんの温もりが残る大事な形見だ。
太陽の模様が埋め込まれた真鍮の蓋。
ただ一つの欠点は、
“羅針盤なのに、針が北を指さない”ことだった。
ただそれも、壊れているだけだと思っていた。
その日の午後、港で網を手伝っていた時だった。
胸元で、羅針盤がかすかに震えた。
最初は気のせいだと思った。
だが次第に、金属が触れる胸元に確かな温もりを感じた。
慌てて掴むと、これまでふらふらと頼りなかった針が──
まるで何かに引っ張られるように、森の方角を強く指し示していた。
初めての現象に、心臓が静かに跳ねた。
針はしばらく震え続け、
やがて嘘みたいに元の不規則な動きへ戻った。
けれど、かすかにブレながらも、
やはり同じ一点を向いている。
その時だった。
僕の世界が、音もなく静かに動き始めたのは。




