天国へのエレベーター
……おれは、死んだのか。
死の間際、目の前の景色がじわじわと霞み、視界はゆっくりと暗闇に閉ざされていった。意識が途切れた――と思った、その次の瞬間、まぶたの裏に光が差し込んだ。
おそるおそる目を開けると、そこには見渡す限りの白い雲の大地と、どこまでも突き抜けるような蒼穹が広がっていた。
ここが天国なのか――いや、たぶん、あれを上った先にあるのだろう。
目の前には、白く輝く巨大な螺旋階段がそびえ立っていた。塔のように果てしなく続いている。あれが世にいう天国への階段ってやつに違いない……ん?
「あれは……なんだ?」
螺旋階段のすぐ隣に、茶色い箱のようなものがあった。大きさは物置小屋ほどだろうか。気になって近づいてみると、金の装飾が施された扉の上に数字盤がついていた。これは……。
――チン。
軽やかな音が鳴るのとほぼ同時に、扉がゆっくりと開いた。やはり、エレベーターだった。
中には、真っ白な制服を着た女が立っていた。背筋をピンと伸ばし、両手を腹の前で組み、軽く会釈した。エレベーターガールのようだが、どこか神聖さを感じさせる。もしかすると、天使なのかもしれない。
「どうぞ、お乗りください」
女は柔らかく微笑んだ。おれは戸惑いながらも軽く会釈を返し、促されるままに中へ足を踏み入れた。
内装は赤いカーペットに木製の壁。どこか懐かしい香りが漂う造りだ。
「それでは、上へ参ります」
「あ、ああ、よろしく……あのー」
「本日は当エレベーターをご利用いただき、誠にありがとうございます。当機は百階の天国を目指して上昇いたします。今しばらくお待ちください」
「あ、おお……」
やはり、この先に天国があるらしい。おれはほっと息をついた。多少風情に欠ける気もするが、あの長ったらしい階段を上がらずに済むのはありがたい。天国も近代化が進んでいるようだ。
十階、十五階――扉の上に並ぶ数字が一定のリズムで点灯していく。エレベーターは静かに、しかし確実に上昇していた。この調子なら、あと一分とかからずに天国に着くだろう。
それにしても……おれが天国行きとはちょっと意外だ。まあ、自分を悪人だと思ったことはないが、天国の審査というものはもっと厳しいものだと思っていた。……いや、思ってるより、おれは善人だったのかもしれん。ああ、そうだ。なにせおれは、身を粉にして――
「ん、おお?」
五十階に到達した、その瞬間だった。エレベーターが急停止した。
思わず、女のほうを見やった。
「お、おい、どうしたんだ?」
「『浮気』のため、十五階降下します」
「は? ――うおっ!」
言うが早いか、エレベーターは急降下した。四十五、四十――数字盤が光りながら、みるみるうちに下降していく。
「三十五階です。再び上へ参ります」
「え、いや、ちょっと」
エレベーターは三十五階で停止したあと、何事もなかったかのように再び上昇を始めた。
なんだったんだ、今のは……。浮気? おれが? おれは浮気なんて……いや、確かに昔したことがあった。だが、妻には一度もバレなかったはずだ。
よくわからないまま、エレベーターは再び五十階を通過した。
「六十階です。『横領』のため、二十階降下します」
「えっ、また、ちょっと待て――うおおっ!」
エレベーターは再び凄まじい勢いで落下し始めた。おれは両足を広げて踏ん張り、必死で壁にしがみついた。
「四十階です。再び上へ参ります」
「ま、待て! いったいどういうことなんだ!」
「当機は、あなたの生前の悪行に応じて降下いたします」
「そ、それはなんとなくわかってる。だが、横領なんて……」
いや……確かにちょっとした“処理”をしたことはあった。だがあんなの、みんなやってることだ。
「五十階です。『虚言』により、五階降下します」
「六十階です。『脱税』により、十階降下します」
「五十五階です――」
上がっては落ち、落ちては上がり、六十階付近で足踏みするように、エレベーターは昇降を何度も繰り返した。死んでいるはずなのに、胃の奥が焼けるようにむかむかして、吐き気が込み上げてきた。
汗が滲み、膝が震え、呼吸が乱れる。耳鳴りがして、目の前が歪んだ。嫌なプレッシャーを感じる――そうか、ここはただのエレベーターじゃない。審問室なのだ。
「あ、あの……」おれは女を見上げ、声を絞り出した。「もし百階に着かなかったら、どうなるんだ……?」
「途中の階で降りていただき、そこから階段をご利用ください」
「あ、そ、そうか……」
安堵が胸に広がった。よかった。どうやら天国には行けるらしい。むしろ早くここから出て、階段で上がりたいくらいだ。
「ただし、階段は一階上がるのに十年かかります」
「十年!?」
ということは、一階からスタートしたら、千年もかかることになる。頂上にたどり着く頃には、どんな穢れた魂でもすっかりきれいに洗浄されていることだろう。 真っ白になって、何も考えられないくらいに。
九十階で降りたとしても、百年かかる。上っても上ってもたどり着かない階段。代わり映えのない景色。途中で降りることは許されない――それこそ、まるで地獄じゃないか。
頼む、できるだけ上の階で止まってくれ……!
おれは祈りながら数字盤を見つめた。やがて、エレベーターは八十階を過ぎた。
「九十五階です」
「お、おお……! もう、ここでいい。あとは歩いて上る!」
おれは女の腕を掴み、そう言った。女はゆっくりと振り返り、にこりと微笑んだ。
「『脱税』『虚言』『裏金』『浮気』『横領』により、九十階降下いたします」
「え、それはさっきも……まさか、合算じゃなくて個別に――あああっ!」
まるで隕石のように、エレベーターは急降下した。重力が消え、体が宙に浮いた。おれは悲鳴を上げながら壁を掴もうと必死にもがいたが、どうにもならない。天井に押しつけられ、背中がビキビキと悲鳴を上げた。
そして――エレベーターが止まった瞬間、おれは床に叩きつけられた。
「五階です」
「そんな……誤解だ。そう、誤解なんだよ。五階だけに……」
「四階です」
「いや、なんでだよ! まったく、それにしてもおれがどうして……国のために尽くしたというのに……」
「三階です」
「だあああ! 嘘じゃない! 政治家として任期を全うしたんだ。そりゃあ糾弾もされたが、議員を続けられたんだ。それはつまり潔白って証拠だろう!」
「二階です」
「……わかった、わかったよ。もうおとなしく降りる」
「ドアが開きます。足元にご注意ください」
「これだから女は……。いいよな。女はいくらでも嘘をつけて……あっ」
半ば開いたドアは再び閉まり、エレベーターは糸が切れたように急落下していった。




