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夏渡し

作者: 星賀勇一郎





蝉の声が一斉に鳴き出し、またぴたりと止んだ。


風はなかった。

宵山を控えた京都の空は茜に染まり、四条の路地裏にある古びた宿の壁を、熱と湿気がじわじわと這い上がっていた。

ひと月以上雨が降っていない。瓦屋根に積もった埃が、夕陽に照らされて浮き上がっている。


六畳の畳部屋。

木の丸いテーブルの上に、小さな写真立てが置かれていた。

中におさめられているのは、浴衣姿の女だった。

ふっくらとした輪郭に、笑うと吊り上がる目尻。

小さな団扇を手に、祇園祭の宵山で撮った一枚だ。


男はその写真の前に、湯呑をふたつ並べていた。

ひとつは自分の、もうひとつは……妻のため。


「約束通り、来たぞ」


声に出して言ってみた。

自分の言葉が、狭い部屋の壁にぶつかって、すぐに戻ってくる。

その響きが少し寂しかった。


また一緒に祇園に行こうね。

死ぬまでに、もう一度だけでええから。


そう言ったのは、まだ妻がベッドの上で喋れるうちだった。

肺癌だった。

発見された時には既に転移していて、抗癌剤も効かなかった。

覚悟はしていたとはいえ、妻がいなくなった世界に立つと、地面がぽっかり抜けたようだった。







「どうせ一人やねんから、祇園さんくらい付き合ってよ。うち、あれが一番好きやねん」


そう言った学生時代の妻に、男は本を棚から取りながら振り返る。


「何で一人ってわかるねん。俺だって女の一人や二人……」


男は負け惜しみの様にそう言った。


「わかるわ。いつも一人やし、絶対モテへん顔してるし。それに二人おったらアカンやろ……」


笑いながら妻は男の肩に顎を載せて来る。


静かな大学の図書館には妻の笑う声だけが響いていた。


「祇園さんは混むからなぁ……」


「ええやん。ええ女連れて祇園さんに行くのもステイタスって言う奴やで……」


妻は流行の様に使われる「ステイタス」という言葉を癖の様に口にする。


「ええ女か……」


男は本を棚に戻し、じっと妻の顔を見る。


「何よ……。此処まで誘ったってるのに……。もうええわ」


と妻は足早に静かな図書館を出て行った。

男はそれを慌てて追う。

そして図書館を出た所で捕まえた。


「わかった。わかったから、一緒に行こう」


妻は立ち止まり、ニヤリと笑った。






そして今、妻の遺影を連れて此処に来ている。

京都の祇園祭に、ふたりで。

     





妻と最初に来たのは三十五年前のことだ。

まだ結婚前で、学生だった。

男は神戸出身、妻は生粋の洛中の女だった。

鉾のこと、囃子のこと、妻は楽しそうに語り、男はひたすら相槌を打っていた。

山鉾巡行の道順、囃子の音の違い、鉾ごとの歴史、全てに意味があると妻は誇らしげだった。


「京都の祭りって、ちょっと違うやろ。うちらのんは、神様と町衆の約束事みたいなもんやねん」


その言葉の意味は、長い間、男にはよくわからなかった。






それから何度か茹だる様な暑さの中、この祇園祭には妻と一緒にやって来た。

結婚して京都を離れても、妻の祇園祭好きと京都弁は変わる事無く、行くと決める度に浴衣を引っ張り出し、「これが良いか、あれにしようか」とまだ夏の気配も無い時期から楽しんでいる様子だった。






再び宵山の祭囃子の音が近付き、男は宿を出た。


空は既に群青に沈み、通りには浴衣姿の若者たちが溢れていた。

山鉾の鉾町には提灯が吊され、遠くから囃子の音が近付いてくる。

人混みに紛れながら、男は鴨川沿いへと抜けた。

人波を避けるように、裏道を選んで歩く。


あれ……。 


川沿いの道で、男は一瞬、足を止めた。

群衆のなかに、見覚えのある浴衣の女がいた。

白地に水色の朝顔模様。

あの浴衣は、妻が最後に仕立てたモノだった。


その女が、ふとこちらを振り返るように見えた。


あいつか……。


心臓が跳ねた。

だが、次の瞬間には群衆の陰に消えていた。

男は人の合間を縫うようにして駆け出した。


「おい」


呼びかけた声が、喧騒にかき消える。

女は橋のたもとを曲がり、清滝方面へと抜けていった。


男はその後を追った。

足はもつれそうだったが、それでも目を凝らして探した。


けれど、女の姿はもう何処にもなかった。


夜風が、汗ばんだ男の首筋を撫でた。

祭囃子が、遠ざかっていく。


はっと我に返ると、男はゆっくり息を吐き、踵を返した。

     






「やっぱり、お前やったんか……」


宿に戻って、遺影の前で呟いた。


それからふたり分の湯を沸かし、小さな湯呑に茶を注ぐ。

音もなく蒸気が昇る。


「あの浴衣……、よう似てたわ。まさか……な」


男はそう言って笑った。


しかし心のどこかで、本当にあれが妻だったのではないかという思いが消えなかった。

幻だったのか、それとも、何かが渡ってきたのか。


夏渡し……。


ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。

祇園さんの日には、向こうとこちらの境が薄くなるという話を、どこかで聞いたことがあった。

     





翌日も男は町へ出た。


山鉾巡行の日。

正装の男たちが鉾を曳き、子供たちの笛の音が夏の空に響いていた。


男はゆっくりと歩きながら、四条通を抜けて行く。

すると、群衆の中でまた、あの浴衣が目に入った。

白地に水色の朝顔。


女は背を向けて歩いていた。

昨日とまったく同じように。


しかし男は、今度は追いかけなかった。


足が、自然と止まったのだ。

まるで、追わない方が良いと、誰かに言われたかように。


浴衣の女はやがて、細い路地へと吸い込まれるように姿を消した。


男は目を閉じた。

そして、妻の笑顔を思い出した。


おおきにな……。

ほんまに、来てくれて。

     





その日の夕暮れ、男は宿に戻った。


荷をまとめ、写真立てをタオルで包んでバッグに入れる。

もう話しかける言葉はなかった。

ただ、心の何処かが、静かに温かく満たされていた。


「渡れたんやな。ちゃんと」


誰に言うでもなく呟いた後、男は宿を後にした。


鴨川の橋の上で立ち止まり、ふと振り返る。

空は茜から群青へと変わり行き、蝉の声がまた一斉に鳴き出した。


鉾の音は遠く、もう届かない。


だが男の耳には、確かにあの祇園囃子が、風に乗って聴こえていた。








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