2-02 夏の墓標
夏の盆。
墓参りのために帰省した松下恭司は、帰ろうとしたときに幼馴染みであり、かつての交際相手でもある葉月優乃と再会する。
苦い青春の思い出と、手が離れて久しく別々の道の先を歩く現在と。
ふたりの道は、一夜だけ交差する。
車を降りた瞬間、蒸した空気が松下恭司の顔を思い切り叩いた。思わず息を詰まらせた恭司の耳には、 思い出したように蝉の声が飛び込んでくる。クーラーで快適だった車内から出た今、恭司は夏の只中にポツンと放り出された迷い子同然であった。首にかけたタオルで流れ出る汗を拭った恭司は、目の前に広がる風景を見る。
小高い山のなだらかな斜面に、黒光りする墓石が並んでいる。一応は寺の管理地ではありながらもほぼ手も入っていない墓地においては、遺族の訪れない墓石は土埃や泥に塗れた惨めな姿を曝すことになる。正月の帰省でも軽く掃除しておいたが、自分の向かう墓もそんな有り様になってやしないか。普段気にもかけていないのに、いざこうして墓参りに来るとそんな普段の心がけを反省したくなるような心地はどういうことなのかと自問する間に、目的の墓は見えてきた。
松下家之墓。
そう彫られた墓碑銘に雨風で吹き込んだらしい埃が溜まっているのを認めて面倒そうに顔を顰めながらも、恭司は持参した掃除用具を準備する。
木々に囲まれた墓地だからか、蝉の声が絶えず聞こえ続ける。そこに夏らしい趣を見出だすには今年の夏はあまりに暑く、思わず仰いだ青空に浮かぶ雲も決して雨の兆しを感じさせるものでもなかった。疎ましいほどの晴天から視線を落とし、墓の掃除を続ける。早く立ち去ってしまおうと掃除を急ぎ、そのまま手を合わせる。
墓石に水をかけ、気休め程度ではあるが子どもの頃からの習慣である近況報告も済ませる。尤も、ここ数年報告の内容など変わりようもないわけだが──心身を壊して会社を辞めてからバイトで食い繋ぎ、そのバイト先でうまくいかなければ次のバイト先を探し……といった調子である。
「今年も俺はプータローですよ、っと。来年も変わらねぇだろうが……」
履歴書に書く「卒業見込」から「見込」の部分が消えて早数年。報告とも言えない報告を適当に終えた恭司が、日常に埋没するように墓地を後にしようとしたとき。
「……恭司、……くん?」
「あ?」
「……っ、」
暑さに参りそうな頭で柄の悪い返事をすれば、どこかたじろいだような声。慌てて「あ、すんません」と謝りながら向き直った先には、上品な雰囲気のワンピースを着た女が立っていた。フリル袖から覗く細腕には恭司が持つのと同じく墓地に備え付けられた桶を持っていて、彼女の用事も誰かの墓参りだったのが窺える。
白いリボンで結ばれた黒髪が風に靡く様に思わず見惚れそうになり、慌てて目を逸らしたところで彼女の腕に気付く。そしてようやく目の前にいる女が誰なのかを察する──その変貌ぶりに驚きながら。
「お前、優乃か?」
「久しぶりだよね……。もう10年くらい経つのかな?」
葉月優乃。
恭司がまだこの街にいた頃恐らく誰よりも一緒に過ごし、ごく短い期間だけ恋人としても付き合っていた幼馴染みだった。
だが彼女の雰囲気は旧交を温めるには些か変わりすぎていて、恭司の胸に様々な思いが去来する。その中には恭司自身にも認めたくないようなものまで混ざっていて。
「そうだな」
恭司は、辛うじて一言だけ返した。
ふたりの間に訪れた沈黙を埋め合わせるように、蝉時雨は強くなっていく。恭司はただ、深い傷痕の残る腕を見つめることしかできず。俯いたまま時折こちらを窺ってくる優乃の視線からは、何を察するべきかわからなかった。
* * * * * * *
思い出すのは、どこにでもある夏の夕暮れの景色。
どこまでも澄んだ夏空の下、帰途に伸びる影のように自分たちの未来もまっすぐどこかへ向かうのだろうと根拠もなく信じていられた、少年の日々。
『恭司ー!』
『……、それで今日さ、俺んち親いねぇんだよ。だからみんな呼んでさ』
『恭司ってばー!』
『…………、てかお前ら来れそう?』
『むぅ、恭司!!』
『ぐえっ、』
後ろから聞こえていた幼馴染みの声を無視していたら、思い切り背中にタックルされてしまった。なんだよ、と不満げな声を上げながら、恭司は突撃してきた相手を振り返る。もちろん、相手が更に不満げだったのは言うまでもない。
『なんだよはこっちのセリフ! なんで僕のこと無視すんだよ~!』
『今男同士の大事な会議してんだよ』
『ふんだ、これでも僕カノジョだぞ? カノジョよりも男同士の話のが大事なわけ?』
『バッ、お前デカい声で言うなよそんなこと……!』
当時、恭司と優乃は付き合い始めて間もない時期だった。夏が始まろうかという梅雨の晴れ間に優乃から想いを告げられ、その思いがけない告白に半ば放心したような状態で頷いたことで、ふたりの関係は変わった。
恭司にとって女子との交際などというものは意識の外にあり、もし交際するとしても今後知り合う誰かに一目惚れをしたり、何かの思い出を一緒に作ったりして、だんだんと想いを通わせて付き合い始めるものだと思っていた。その相手も想像すらしていなかったが、優乃からの告白以来、なんとなく『優乃でもいいんじゃないか』などと思うようになっていた。そう思うようになってからというもの、だんだんと優乃のことを女子として見るようになってきている。
優乃は、幼い頃から──今連れ立って帰っている友人たちと知り合うよりも前から一緒にいた幼馴染みだ。明るく活発な性格の彼女に連れられて近所の川だったり雑木林で遊んだり、もう少し成長するとお互いに漫画を貸したり借りたりと様々な形で交流を続けていた。その中で時折身体の成長を感じる瞬間もないわけではなくて。言われてみれば、前から優乃のことを異性として意識していたような気もして。
気付けば恭司自身も、心から優乃を恋人として大事に思うようになっていた。とはいえ、もちろん接し方がいきなり変わるわけでもない。特に優乃は幼い頃からずっと活発な少女で、男友達と変わらない遊び方をしていたのだ。恋人同士になったからといっていきなり対応を変えるには、恭司は素直すぎたのである。
だから恋人とはいえキスやハグはまだまだ躊躇って実行には移せないし、“その先”についてもお互い意識はするものの、現実の物事として考えられるようなものではなかった。
『なんだよお前らやっと付き合ったのかよ~』
『いつまでもくっ付かないから勘違いかと思ってたよなぁ』
『~~~~!!』
いよいよ恭司は顔を赤くして、『じゃ、じゃあお前ら今夜来いよ!? とびっきりの用意してあんだからな!?』と言い残して自宅へと走り出した。後に残った友人たち、そして優乃がどんな顔をしていたのかもわからず、その後どんなやり取りがされたのかも、当然恭司にもわからなかった。
だから、次に優乃と出会ったとき、恭司は心底驚いたし、彼女に“配慮”したらしい友人たちにもその驚きのまま怒りをぶつけてしまっていた。
『おい、なんで優乃がここにいんだよ!? お前ら呼んだのか……!?』
『大丈夫だろ、優乃は俺たちと付き合い長くて男みたいなもんだし』
そんな問いに答えたのは、友人のひとりである坂城柳矢。柳矢は続けて『あんまり邪険にすんなよな。優乃落ち込んでたぞ』と小さく添えた。
そう言われると恭司もいよいよ何も言い返せない。柳矢と一緒に誘っていた小太り気味の友人・戌亥巽も『そうそう!』と頷く。泣きそうで大変だったんだぞなんて言われてしまえば、恭司としても『わかったよ』と返す他ない。
『でも、いいのかよ?』
『大丈夫でしょ、優乃だって僕たちと一緒につるんでる仲間なんだし。今更遠慮するような間柄でもないし』
恰幅のよい腹を揺らしながら笑う顔とは裏腹に、その目は少し血走っている──早く“とびっきりの”を見せろと言わんばかりである。さすがは学年一のスケベと名高いやつだ、と思わず舌を巻く。
そう、恭司の言った『男同士の大事な会議』というのは、いわゆる大人のビデオの鑑賞会だったのである。当時からスマートフォン自体はあったが、それが恭司たちのような子どもにまで普及するのはまだ少し先のこと。当時中学生だった彼らがその若く滾る欲望を発散させる娯楽は、精々高架下に捨て置かれたビニール本や、深夜帯に放送されていた所謂お色気バラエティくらいだった。
だが、その日は偶然にも恭司の両親が泊まりがけの仕事で家を空けることになっており、翌朝までは帰ってこないということになっていた。そこで恭司は、この時を待っていたとばかりに大人のビデオの鑑賞会を企画したのである。恭司自身はスマホやパソコンの類いを持っていないし、肝心の「大人のビデオ」も持っていなかったが、父の秘蔵のビデオの在処は既に突き止めていた。万が一それらが自分たちの趣味でないなら、父が家に置いているパソコンを使って検索だってできる。
柳矢や巽も二つ返事でその計画に乗り、後は当日当夜を迎えるばかりだったはずが……。
『いいか、自己責任だからな』
『う、うん……』
多勢に無勢というべきか、結局押しに負けた恭司は、優乃も交えて4人で「鑑賞会」を決行することにした。事情を話したときは面食らったようだったが、彼女自身も思うところがあったのだろう、初めて見る羞恥に染まった顔で頷いて、結局同行することになった。
何でこんなことになったんだか……!
嘆きたい気持ちと混乱する気持ちと奇妙な気恥ずかしさとに天を仰ぎながら、それでももう引き返せないと悟った恭司は。
『じゃあ、いくぞ』
一言告げて、DVDプレイヤーにディスクを挿入した。





