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episode 5




「じゃあ、また明日!」

「颯太、また明日な!」


 校門の前でマサとコウと別れて、土手沿いの道を歩く。桜の花びらが、狭い車道の両端を赤茶色に縁取っている。遠くの空でカラスが鳴いて、脳裏をよぎったのは校庭の、銀杏を飛び立つその姿だった。

 家に帰れば条がいる。朝から重かった胃が、更にずんと重さを増した気がする。

 

 学校から家まではたった十五分で、覚悟を決めるには到底時間が足りないように思えた。

 遠回りして帰るか。そう思い立って、いつもは右に曲がる道を行かず、左手にある土手の階段に足をかけた。土地勘なんてないけど、なんとかなるだろう。

 ひび割れたコンクリートの隙間から雑草が顔を出している。半分まで上ったところで息を止めて、一気に駆け上がった。土手の上についてから思いきり息を吸い込んだら、かすかに潮の香りがした。

 この街を縦断する川は幅が広く両岸には葦や雑草が生い茂っている。そこここに打ち捨てられたダンボールや空き缶、雨に濡れてほとんどなにが書いてあるか判別ができない雑誌なんかがべったりと浅瀬に貼り付いている。

 遠くで響いた船の汽笛が、青空の見えはじめた空に溶けた。

 

 勘だけを頼りにゆるゆると歩いて行くと、土手に立入禁止のフェンスが現れた。わきにある小さな階段を降りて、今は誰も住んでいないように見える寂れた集合住宅の敷地に足を踏み入れる。灰色の建物の隙間を縫うように進むと、細く背の低い枯れ草が広がる向こうに、午後の日差しを受けてきらきらと光る海が広がった。

 全身が潮の香りに包まれ、波音が耳たぶを撫でる。

 アスファルトが途切れ、さらさらとした砂を踏む。靴底はぽすぽすと軽い音をたて始めた。


「うおー、海でけぇ!」


 独り言にしては大きな声が出た。思わず辺りをきょろきょろと見回してみたけど、人の気配はなかった。すぐ近くに大きな流木を発見して、そこに座る。


 腰掛けた流木から投げ出した両足の、白いスニーカーが砂で汚れていることに気づく。まあいいやと呟いて立ち上がり、打ち寄せる波にむかって砂を蹴飛ばしたら、靴の中にも砂が入った。

 やけになって、何度も何度も砂を蹴る。そのうちになんだか妙に楽しくなって、そこらに転がっていた空き缶や、どこの国から流れ着いたのかわからない漂流物なんかも、どかどかと蹴って波に浮かべた。


「やべ、楽しい」


 たった一人でこんなことをやっている自分がひどく滑稽で、おかしくて笑う。同時に、昨日の母の「ばちがあたったに違いない」という声を思い出し、浮かれかけた気持ちがずんと重くなった。ひどく子どもじみた悔しさが、砂だらけになった靴の中から蛇のように這い出して、腹のあたりをぎゅっと締め付けてぶらさがる。その重さを振り払おうと空き缶を蹴飛ばして、バランスを崩して尻餅をついてしまった。

 母は笑っていた。

 母は泣いていた。

 なにもできない自分が、まだ頼りない子どもでしかない自分が悔しくて、両手に砂を握りしめて、波に向かって放り投げた。けれどそれは海風に煽られ、自分の髪や目や口元に勢いよく叩きつけられた。


「ぶえっ! ぶはっ!」


 思いがけない砂の逆襲に今度は怒りが込み上げて、海に投げてしまおうと両足の靴を脱いで持ち上げた。持ち上げた所で、冷静になる。靴がなかったら帰れない。


「ああああもう!!!」


 平野、将来の夢はないのか。頭の中で数学の岩尾の声が聞こえる。


「ねえよ! うるせぇ! わりいか!」


 条くんって言うの。今日からうちに住むから。母の声がする。


「うっせえ、ばーか! 勝手に決めんな!」


 ばちがあたったに違いない、きっと。また母の声がして、駅のホームで笑い合うあの男と母の姿。それから、家から出てきた、幸せそうに目線を合わせる二人がぐるぐると回る。


「もう、勝手にしろよ……。勝手にしてくれよ……」


 流木に座り靴の中の砂を掻き出して、ざらざらした靴を履いた。リュックを背負いゆっくりと立ち上がって、海岸をひたすら歩いた。風が冷たい。

 ぽす、ぽす、ぽす。軽い足音と、潮騒が混ざる。


 海の向こうで。

 海の向こうで条は、どんな気持ちで今日を待ったのだろう。たった一人の母親を亡くして、父親は他に家族がいて。たった十歳で目の前に叩きつけられた現実に、条はどれほど傷つけられたのだろう。

 俺が十歳の頃にたとえばそんなことがあったとしたら俺は、父を、母を、許せたのだろうか。


 ぼんやりとそんなことを考えながら歩いていたら砂浜が途切れてしまった。この先は大きな岩とテトラポットが行く手を阻んでいる。適当な海岸出口を見つけてアスファルトを踏むと、困ったことに気づいた。どうやら、迷子になったらしい。

 

 太陽は既に黄色から朱色にかわる寸前だ。不安定な足場を長く歩いていたせいで、ふくらはぎがじんわりと痛い。校門を出た頃には軽かったリュックが、やけに重く感じる。

 辺りを見回すと、小さな港のある入り江らしい。海沿いに防波堤が続き、古びた小さな商店が並んでいる。定食屋に、釣具店、文房具屋に、花屋まである。けれど人の気配はない。

 川沿いに海へ出て南にまっすぐ進んでいたはずだから、とにかく北を目指せばなんとかなるんじゃないか。商店のあいだに発見した小さなアーケードを進み、入り組んだ路地に出る。その辺りで右に曲がればいつか知った場所にたどり着くんじゃないかと思っていたけど、どうやらその先は袋小路になっているらしい。

 これはもう、また海に戻って砂浜を歩くしかないと覚悟を決めたそのとき、背後から聞き慣れた声がした。


「颯太。なんでこんなとこにいるの?」


 振り返ると、グレーのパーカーにジーンズというラフな出で立ちの、マサがいた。


挿絵(By みてみん)




「なにこれ、冗談?」


 思わず素っ頓狂な声が出る。マサはそんな俺を見てにっこりと笑い、祖父がこの辺りの大地主だったんだよ、と説明した。

 それにしたってでかい。どこまでも続く瓦の乗った塀。途切れた場所にあったのは、やくざ映画なんかに出てきそうな重厚な門扉だった。右手に『桜小路』と、これまた迫力のある書体で書かれた立派な表札が掲げてあった。

 マサがわきのインターホンを押すと、門は、ぎぎぎぎ、と、えらく重厚な音をたてて開いた。マサに促されて中に足を踏み入れると、松林が視界に飛び込んでくる。その向こうには岩で囲まれた立派な池があって、ご丁寧に錦鯉なんかが泳いでいる。

 飛び石を踏んでマサにおとなしくついていくと、やっと玄関が現れた。


「大地主ったって、こりゃ、すげえわ」

「おじいさまはね。すごい人だったみたいだよ。なんにもないけど、どうぞ」


 からからと引き戸を開けて中に入ると、俺の家のリビングくらいの三和土が目に飛び込んできた。何坪あるんだ、この家。

 綺麗に整えられ磨き上げられた玄関に、やたらと広い廊下。両側にはいくつもの襖が整然と並んでいる。まさにやくざ映画。思わず身震いしてマサを見上げたら、頭にはてなマークが浮かんでいるであろう表情で見下ろされた。


「お、お邪魔します」


 靴を脱ごうとして砂だらけだったことを思い出し、靴下も脱いで靴の中に突っ込んだ。よその家に行くときは替えの靴下を持って行きなさいと言っていた母の言葉の意味が今わかった。わかったけど、持っていない。ひんやりした廊下が、裸足の足裏に心地いい。


「どうぞ。そこの角の襖を開けたら僕の部屋だから、そこで適当に待ってて。今コーヒー淹れるからね。あ、コーヒー飲める?」

「飲める。飲めます。大丈夫です」

「あはは! なんでそんな堅くなってんの。じゃあ、すぐ淹れてくるね」

「お、お願いします」


 そこの角の部屋、と説明されたにもかかわらず、俺は違う部屋の襖を開けてしまったらしい。部屋の隅に置かれた重厚な甲冑と日本刀に身震いしてから襖を閉めると、庭の鹿威しの音が、かこーん、と響いた。なんだか俺、えらくまぬけだ。

 勉強机とリュックの置いてある部屋を発見してようやく一息つくと、マサがコーヒーをトレイに載せてきた。


「ほんとになにもないでしょ。遥樹(はるき)の部屋ならゲームとかあるんだけどね」

「遥樹?」


 机の上にトレイを載せて、押入れからちゃぶ台を取り出してからその上にコーヒーを並べる。香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。


「弟だよ。小五。顔以外は僕に全然似てなくて、とにかく悪さしかしない」

「へええ。弟がいたのか。ふうん……」

「今日は友達の家に行くって言ってたからまだ帰ってないけど」


 弟、というキーワードに、まだ顔も知らない条の姿がぼんやりと浮かぶ。どんな子なんだろう。俺に似てるのかな。片親とはいえ血が繋がってるわけだから、どっか似ててもおかしくはないはずだけど。そもそも兄弟ってどの程度似るもんなんだろう。遥樹はマサに似ているのだろうか。


「どうかした?」

「いや……、弟って、マサに似てんの?」


 考えていたことがそのまま口から出てきてしまった。言いながら、別にこんなこと聞かなくたっていいのに、と思ったけど、途中で止めるのもなんだし、と思い直して言い切った。マサは考える間もなく大きく頷いて、「目と鼻が似てるって、よく言われる。だいたい全部一緒だから、大きさが一緒なら見分けつかないって言われるよ」と笑う。

 マサによく似た、マサよりもサイズの小さな弟を想像しながら、つられて笑ってしまう。


「コーヒー、冷めないうちにどうぞ」

「そっか、いただきます」


 じつをいえばコーヒーなんてこれまでに数えるほどしか飲んだことはなかったし、毎度その苦さに辟易していた。覚えのある苦味を想像して覚悟を決めてから口に含むと、これまでに味わったことのない甘みとふくよかな香りが口に広がった。驚いて、思わずマサの顔を見た。


「ちょ、なにこれ! うまい!」

「でっしょー? 僕、コーヒーだけは得意なんだ!」


 知らない間にじっと見られていたらしい。息をつめていたらしいマサが、ぷはっ、と息を吐いて、大げさにほっとした顔を見せて笑った。


「すげえな、マサ。俺コーヒーなんか、缶かインスタントしか飲んだことないし」

「最近はインスタントもそれなりにおいしいんだけどね。やっぱりちゃんと淹れると甘みが出るからね」

「ふうん、そういうもんなのか」

「そういうもんだよ」


 マサは得意げに笑って、自分もカップを持ち上げた。


「で、颯太さ。なんであんなとこにいたの? リュック背負ったままだし、まだ家に帰ってないんでしょ?」

「え、まあ、そりゃお前……」


 うまい言い訳を考えようとしたけど、どうにも脳みそがうまく動いてくれない。条のことを言うべきか。でもそうしたら必然的にうちの複雑な事情も話さなきゃならなくなる。いや、そこは別に言わなくてもいいっちゃあいいのか。でも。

 黙りこんでコーヒーの底を睨むようにして見ていたら、マサは小さく声に出して笑った。


「僕はね、眼鏡買いに行ってたんだ。こんどの火曜にできるんだって。これなんだけど、似合うかなあ?」


 ポケットからがさがさと広告を取り出して、注文したらしい眼鏡を指さしてみせる。濃いグレーの細い縁どりで、何とも感想が出にくいほどごく普通の眼鏡だった。


「これ? ええと、わかんねえけど似合うんじゃね? てか目悪かったの」

「うん、入学前になんか見えにくいなあと思って眼科に行ったら少しだけ視力落ちててね。見えないことはないんだけど、この際だから作っちゃおうと思ってさ。颯太も眼鏡似合いそうだよね」


 なんだか今日のマサはよく喋る。学校では大人しいほうなのに。やっぱり自分の家だからだろうか。


「俺ぇ? 眼鏡なんかかけたことねえし。つか、勉強しねえから目めっちゃ良いよ」

「あはは。僕もそんなに勉強はしてないよ。遺伝だよ、遺伝。でもほんと、颯太顔だけはいいから似合いそうだよ」

「は!? だけってなんだよ!」

「冗談、冗談! たぶん他にもいいとこあるって!」

「たぶんて言うな!」


 それからマサと、学校のことや、今日話題に出ていた将来のことなんかを話した。マサは、本気で医者になりたいと思ったことはないけど、いろんな世界を見て医者もアリだなと思えばそっちに進むつもりだと言った。

 自分の将来を今から考えてるなんてすごいと言えば、目標なんて躍起になって探すものじゃなくて向こうからやってくるもんじゃないかなあ、と笑った。


 あれこれととりとめのない話をしていたら、いつの間にかすっかり日が暮れていた。俺が壁に掛けた時計を見上げてため息をつくと、マサは、ちょっと待ってて、と言い残して部屋を出ていった。すっ、と襖が動いて、とん、と閉まる。

 この家はやたら静かで、鹿威しの音だけが綺麗に響く。やっぱりこんな家で育った子どもは優秀になるのだろうか。自分の家を思い浮かべてため息がでた。


「お待たせ。じゃあ行こうか」

「え? 行くって……」

「いいから、まずこれ履いて、荷物持って」


 マサから新品の靴下を手渡されて、なんて気の利くやつなんだと感心した。マサはその間に押入れのハンガーから上着を取って羽織る。


「履いた?」

「うん、サンキュ」

「うん。ね、明日さ、放課後みんなで釣り行かない? 川釣り」

「え、あの川なんか釣れんの?」


 ローファーも綺麗になっている。いつの間に綺麗にしてくれたんだろう。他に誰かいるのか?そんなことを思いながら家の中を見回しても、やっぱり人の気配はなかった。


「そう。意外でしょ。この辺工場とかないから、水が綺麗なんだよね。ゴミは多いけど」

「うん、ゴミすごかった」

「あはは。釣り道具はうちのお父さんのがあるけど、どうする?」

「うーん、ちょい明日まで待って。まだどうなるかわかんねえから」

「おっけい」


 マサは笑いながらそう言って、入ってきたときと同じように、門のわきのボタンを押す。ぎぎぎ、と開いた門の向こうに、黒塗りの高級車が佇んでいた。


「うわっ」

「はい、乗って。送るから」

「ええっ! 悪いよ」

「今更なに言ってんの。ここから歩くと結構距離あるでしょ。佐々木(ささき)さん、三丁目……の、どの辺りだっけ」


 後部座席に俺を半ば無理やり押し込みながら、運転手の佐々木さんとやらに行き先を告げる。


「三丁目の……、楠公園の前……なんか悪いな」

「いいって、いいって。代わりにこんど家に遊びに行かせて」


 そう言って、にっ、と笑うと、ドアを閉めて手を振る。マサも乗ると思ってたんだけど。ほんの少し心細さを感じて窓を開けると、マサは俺を覗きこむようにして背を屈め、口を開く。


「僕はすぐそこまで遥樹を迎えに行くから。帰り道ちゃんと覚えて帰るんだよ、迷子さん」

「げ」


 いたずらっぽく笑ったマサに抗議しようと息を吸い込んだら、車がエンジン音もたてずに動きだした。


「知ってたのかよ……」


 呟くと、ルームミラー越しに目があった佐々木さんが、にっ、と笑った。


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