表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

episode 3




 家の玄関を開けると、ちょうどリビングから出てきた母と出くわした。ずぶ濡れの俺を見て苦笑いして、玄関のすぐ脇にある洗面所からタオルを持ってきて俺の頭をぐしゃぐしゃと拭く。


「ちょ、痛い」

「なんで傘持って行かないのー。今朝、天気予報で雨降るって言ってたじゃん」

「見てねえもん。つか、シャワー浴びていい?」

「はいよ。もうすぐお父さん帰ってくるよ」

「……ふうん」


 ”お父さん”と言っても、物心ついた頃にはもう家にいなかった。年に数えるほどしか家に帰らない父を、俺はずっと親戚のおじさんかなにかだと思っていた。母はそれじゃいけないと、俺に父の写真を見せては、お父さんだよ、と繰り返し教えた。何度顔を合わせてもちっとも懐かない俺に、父ははたして愛情を抱けたのだろうか。


 シャワーに頭から潜りこむと、暖かさがじんわりと身体中に広がる。水飛沫が浴室の床に落ちる音で、公園に降る雨と少年の歌声が脳裏に甦った。常緑樹の葉にさらさらと落ちる雨。そこに少年の優しい声がふわりと乗って、灰色の空に吸い込まれていくようだった。歌い終えた少年の横顔はなにかを思いつめたように苦しげで、真一文字に結んだ唇は、その意志の強さを窺わせていた。

 ついさっきのことなのに、一秒ごとに曖昧になっていく記憶が妙に腹立たしい。

 浴室を出る頃には既に、少年の歌声と、去っていく後ろ姿くらいしかはっきりと思い出せなくなっていた。


 頭からタオルを被って水滴を滴らせながらリビングへ向かうと、ドアの向こうから父の声が聞こえた。続いて母の、これまでに聞いたことがないようなヒステリックな声。

 ノブに運びかけた手が止まる。冷たい水滴が頬をつたって、裸足の足の甲にぽたりと落ちた。はっとして視線を下ろしたとき、父の「千枝(ちえ)」と母を呼ぶ声が聞こえた。


「なんでそういうことになるの!? 今まで私たちがどれほど寂しかったか、考えたことなかった!?」

「だから、すまないと思ってる。この通りだ、許してくれ」


 部屋に入ろうかどうしようか考えあぐねているうちに、がちゃりと派手な音をたてて母が出てきた。俺の姿を見ると、はっとして顔を背ける。手の甲で目元をごしごしと擦ってから、そそくさと洗面所にこもってしまった。


「……母さん、どうかした?」


 声をかけていいのか一瞬ためらったけど、できるだけ声をおさえてドア越しに呼びかけてみた。


「……きっと、ばちが当たったに違いない」


 ばしゃばしゃと顔を洗う音と一緒に、そう吐き捨てる涙声が聞こえた。

 

 恐る恐るリビングに入ると、窓際に置いたソファーで項垂れる父の姿があった。なにがあったのか推測しようとしてもなにも出てこない。あれこれと考えを巡らせてみるけど、真っ白な思考が糸になって頭の中でこんがらがっている気がする。目の前の重苦しい空気に、わけもわからず押しつぶされそうになった。

 ドアのすぐ横に置いてあるサイドボードの上、数少ない家族写真の中の一枚が白いフレームに収まってある。そこに肩が触れて、小さな音をたてた。息を呑む。

 それまで項垂れていた父がその音に気づいたからなのか、ゆっくりと顔を上げた。


「颯太、大きくなったな」


 ぎこちなく笑い、自分の隣をぽんぽんと叩いて、座るよう促した。だけどこの空気の重さに耐えかねて隣に座るのをためらった俺は、ローテーブルを挟んだ向かい側に置いたオットマンに、浅く腰を下ろした。


「どうだ颯太、中学は楽しいか?」

「……え? 中学? ……ああ、まあ、うん。……てかさ、母さん泣いてたけど。なにかあった?」


 父は深くため息をついて頭を垂れ、膝に置いた自分の両手を眺める。

 重い沈黙に耐えられず、挙動不審になってしまう。自分の家なのにきょろきょろと辺りを見回して、壁のカレンダーで、その必要もないのに今日の日付けを確認する。今更、スマホのパンフレット見るの忘れてたな、なんて考えた。


「お前にも話しておかなきゃな」


 父は以前会ったときよりも歳をとっていた。以前見た父はもっと生気に溢れていて、友達の父親たちよりも若く見えた。けれど今の父は。


「颯太、父さんな」


 父の話は、今の俺には到底理解できるものじゃなかった。

 

 父には、赴任先で愛する人ができた。

 父の部下であり、父と同じように日本から派遣された人で、名前はサチさんといった。サチさんは海外生活の心細さからか、ことあるごとに父を頼った。いや、心細かったのは自分のほうか。父はそう言って、自嘲気味にわらう。

 そのうちに二人は惹かれ合い、愛し合うようになった。サチさんは父に家庭があることを知っていたけれど、そのことには一切触れることはなかった。そして十年前。二人の間に子どもができた。サチさんは一人でも育てると言い張ったけれど、父は認知した。俺や母に申し訳なく思いながらも、俺や母と同じようにサチさんのことを大切に思っていた。

 サチさんはやがて男の子を産み、父と三人で一つ屋根の下、本当の家族のように過ごした。


「十年。一緒にいたんだ」


 やがて父の帰国が決まった。父はそのことをサチさんに打ち明ける機会を窺っていた。日本に帰って離れ離れになっても、これまでと同じように生活に必要な分だけの費用は負担するつもりだった。せめて息子が成人するまで、と決めて。

 やっとの思いで気持ちを固め、自宅近くのレストランに二人を呼び出した。改めて話したいことがある、と言うとサチさんは覚悟を決めたように、あなたには帰るところがあるんだから、もし私と息子を愛しているなら、私たちにくれたものよりもっと大きな愛情で、本当の家族を守ってね、と笑った。父はサチさんを愛してしまったことを後悔して、そして感謝した。

 父は会社に仕事を残していたため、そのままレストランで二人と別れた。父がサチさんの生きている姿を見たのは、それが最後だった。


 突然の事故だった。父と別れ、レストランの前を二人が歩いているとき、大型のトレーラーが歩道に突っ込んだ。息子をかばったサチさんはトレーラーに跳ね飛ばされ、即死した。


「……それ、で……?」


 声がうまく出せない。喉が乾いていた。心なしかふらつきながらキッチンに立って、コップに水を注いで飲んだ。ばりばりと、喉の奥が剥がれる音が聞こえた気がする。

 自分の感情をどこに置いたらいいのかわからない。怒っていいのか、同情すればいいのか、呆れ返ってここを去ってしまえばいいのか。どのみちこの悪夢は終わることはないんだと、どこかでわかっていたけれど。


「たった十歳の子どもを海の向こうに一人残して帰るなんて、できなかったんだ」


 それでどうするの、と言うセリフを飲み込んで父の言葉を待った。冷蔵庫が、氷を落とす音が響く。母はどうしたんだろう。まだ洗面所で泣いているんだろうか。


「颯太。父さんはな、決してお前たちを愛していない訳じゃない」

「……言い訳は聞きたくない」

「言い訳じゃない」

「母さんは!」


 キッチンのカウンターにコップを置きながら、思わず大きな声が出た。頭に血が上る。叫び声のような自分の声に戸惑いながら、こみ上げてくる言葉を抑えることができない。そうだ、怒ればいいんだ。頭の中で、脇目もふらず祖母の世話をしていた母を思い出す。

 寝たきりになってしまった祖母を見放せず、父についていくことができなかった。それでも母はいつだって愚痴一つこぼさなかった。

 小学校最後の運動会の日、祖母の容態が悪化して母は病院に駆け込んだ。運動会を見に来ることができなかった母は、通夜の席で俺を抱きしめて、ごめんね、ごめんねと繰り返した。俺はちっとも寂しくなんかなかったのに。


「母さんはずっとあんたを待ってたんだ! たった一人でばあちゃん介護して……毎日、毎日! だけど、ばあちゃんの葬式にだってあんたは帰って来なかった!」

「颯太……」

「母さんに味方してくれる人だっていなかった。なのにあんたは俺たちの知らない間に、……か、家族つくって幸せに暮らしてました!? ばかじゃねえの!?」


 言いたいことは山ほどあるはずなのに、ろくに言葉が出てこない。歯痒くて、カウンターに置いてあったテレビのリモコンを父に投げつけた。リモコンは父の手にあたって、落ちた。裏の蓋がはずれて、小さな電池が二つ、父の足元に転がった。父は一瞬顔をしかめて呻く。


「すまない……」

「俺はあんたがいなかったからって寂しいなんて思ったことはない。けど、母さんは違う」

「ああ……」

「愛していないわけじゃない、ってなに? それらしいこと言えば俺が納得するとでも思ったわけ?」

「颯太、それは違う」

「何が違うんだよ! 言ってみろよ!」


 冷静になれない。冷静になんかなれないはずなのに、ここにきて母の浮気を匂わせるようなことは言っちゃいけないと、頭のほんの片隅が冷たいままなのに驚く。心のどこかにいる冷静な自分が、母を庇う。たとえ母が道を外れたことをしていたとしても、それはこいつのせいなんだ、と。


「颯太、すまない」


 父の、喉の奥から絞り出すような声を聞きながら、リビングを出て自分の部屋にこもった。わけのわからない感情に羽交い絞めにされる。悪者は、誰なんだ。父さんか、母さんか。でも、こんなふうに母を庇う自分もきっと。


 大きな音をたてながら椅子に深く腰掛ける。古くなった金具がぎいぎいと音をたてた。スタンドの灯りをつけると、水滴の残る窓ガラスに、思っていたよりもずっと頼りない自分の顔が映った。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ