episode 2
夜のうちに降った雨が散りかけだった桜をほとんど散らしてしまった。葉桜も綺麗だけどちょっと寂しいね、なんて言って笑う母。朝食の席でパンをかじりながら、庭の雑草の上やフェンスにべったりとはりついた無数の花びらを眺めた。
「教科書、名前書いた? 初日から忘れ物しないでよ」
「しねえよ。あ、体操服いるんだった。あれほら、あの、アイロンでワッペンつけないとだめなんだって」
「なんでそういうことをもっと早く言わないの。さっさと体操服出して」
「いや、俺言ったし。こないだ言ったもん」
「ええ? そうだっけ」
「言った」
母は首をかしげながら、リビングを出て二階に向かった。ぎい、ぎいと一段上るたびに、踏み板が音を響かせる。そういえば、ここに越してきてすぐに築年数を調べたらゆうに四十年は経っていて驚いた。見た目には築浅にも見えないことはないんだけど。
「どこ置いたのー!?」
二階から母が声を張り上げる。どうも俺の部屋に入ったらしい。
「なんで部屋入るんだよ! あー……まあいいか、クローゼットに紙袋あるじゃん。あの中!」
「あったー!」
二階から降りてきた母は、アイロン台と体操服の入った紙袋を抱えていた。
「ワッペンも入ってる?」
「たぶん。てか時間ねえよ。俺あと十分で家出るよ」
「嘘、もうそんな時間!?」
時計の針は七時五十分を指している。八時には家を出ないと、八時二十分までに教室に入れない。初日から遅刻はテンションが下がる。
「待って。すぐ付けるから」
「あー、うん」
母がバタバタとアイロン台を広げているうちに食べ上げてしまった朝食の皿を下げて、二階にリュックを取りに上がる。
「あー、颯太ぁ」
急がなきゃいけないはずなのに、その焦りを少しも感じさせない間延びした母の声が聞こえた。
「なに。もうできた?」
「待って、もうちょっと」
「で、なに?」
「これ見てて。あと三十秒」
「え、ちょ、無理」
あて布をあてた体操服に押し付けたアイロンを指さしてその場を離れる母に抗議すると、「無理じゃない!」と一蹴された。仕方なくいち、にい、と数を数えていたら、二十三秒のとこで母が戻ってきた。手にはなにか薄いパンフレットらしき物を持っている。
「ありがとう、もういいんじゃない?」
「うん。なにそれ」
「あ、これ見ててね」
アイロンと入れ替わりに渡されたのは、スマートフォンのパンフレットだった。そういえば中学生になったら持たせてもらえる約束だった。最初は反対していた母も、日々の猛プッシュの末に折れた。
「言っておくけど、勉強しないようなら取り上げるからね」
「するする! まじで頑張るって。サンキュ。学校で見とく」
「よろしい。じゃあ気をつけて行ってきてね」
玄関に向かいながら体操服を入れたリュックを手渡す母にうん、うんと頷いてみせる。靴を履く時に何故か頭をぐりぐりと撫でられて、顔をしかめながら母を見上げたら、満面の笑みでデコピンされた。痛い。
「なにすんだよ!」
「颯太も大きくなったね。もう中学生なんて信じられない」
「なに言ってんだよ、時間ねえときに。じゃ、行ってきます!」
こういう話になると母は際限なく時間を使う。子どもの頃は体が弱かっただの、幼稚園の先生を本気で好きになったらしくて大変だっただの、そんな話を延々と俺に聞かせては、大きくなったねと涙ぐむ。
「行ってらっしゃい! 車に気をつけるんだよー!」
母ははっきり言って子煩悩だ。あまり母親の子煩悩というのは聞かないけど、たぶんうちの母はそうだ。過保護とは違う。どちらかと言うと放任主義だけど、必要な時だけこれでもかと手をかけてくれる。
この年になってくると時々それがうざったく感じることもあるけど、やっぱり内心どこか嬉しく感じる自分もいる。不器用で愛情表現があまり上手じゃないけど、体当たりの愛情を隙あらば見せてくれる。たとえそれが罪悪感の裏返しだったとしても、ほとんど片親で育った俺には、それがありがたかった。
***
「ええと、お前、平野だったよな?」
教室に入って自分の席につくなり、後ろの席のクラスメイトに話しかけられた。見た目はいかつい感じだけど、名前を呼んで俺を見上げた顔には愛嬌があった。名前は確か、山下とか言ったような。
「そういうお前は山下だっけ。ええと、山下……」
「山下航大。コウって呼んで!」
「コウ、ね。俺は颯太」
「颯太ね。よろしく!」
コウは目尻にギュッとシワをつくって、顔中で笑った。俺も笑い返そうと思ったけど、タイミング悪くチャイムが鳴って変な顔になっていたと思う。担任の先生が教室に入ってきて、日誌をぱらぱらとめくって今日の日直の名前を読み上げて号令を促した。
「な、颯太。お前さ」
「起立!」という声に素直に従いながらコウが俺の肩をたたく。振り向くと、満面の笑み。「礼!」の合図で聞き取れなかった言葉にもう一度耳を傾けると、コウは俺の耳元に顔を近づけて言った。
「お前、バンドやりたくねえ?」
昼休み、屋上に出た俺とコウと、コウの幼馴染で偶然同じクラスになったという、桜小路正樹。桜小路はたぶん、クラスで一番背が高い。顔もそれなりのイケメンで、愛想が良い。自己紹介すると、「マサって呼んで!」とにこにこしながら握手を求められた。
「バンドって、マサとコウはなんか楽器できるの?」
「できん!」
間髪を入れず答えたコウに苦笑いを返す。マサは屋上の入り口近くに置いた椅子に座って「うわあ、いい天気。あ、でも夕方から雨だっけ?」なんて言いながら空を見上げた。その隣に置いてあった机に腰を下ろすと、昨日の雨でフェンス近くにできた水たまりに、西の空から少しずつ近づく灰色の雲が見えた。
「いや、今出来なくてもさ。練習すれば何とかなるんじゃね? 俺ドラムやりてえんだけど、颯太は?」
「練習ねえ……、まあそう言われてみりゃ、何とかなるのかな。俺やるならギターとか……、でもボーカルもいいなあ」
「うん、お前雰囲気あるし、ボーカルいいと思う。ついでにギターもやっちゃえ。マサはベース弾けたよな」
「え? なに?」
コウはマサのマイペースに慣れているらしく、マサの質問に答えないままフェンスに駆けていって寄りかかる。
「風めっちゃ気持ちいい!」
屋上からは近くの海が見えて、遠くの水平線がくっきりと現れていた。校庭の日陰に植えられた桜がほんの少しだけ花を残して揺れて、やわらかな日差しに暖められた風が頬を撫でた。
「ベースとドラムと、ギターボーカルでー。あとなんかいるかな?」
マサは指折り数えながらそう言って、首を傾げる。「充分だろ」そう返事を返すと、マサが「だよね!」と得意げに笑った。
コウやマサと校門の前で別れて、家路をたどる。頭の中で小遣いをどのくらい貯めればギターが買えるのか計算しながら歩いていたら、いつの間にか家を通り過ぎていた。仕方なく、近道のために公園を横切ろうと、低い鉄の車止めを跨いだ。公園の桜はすっかり葉桜で、日陰になった地面が昨日の雨でぬかるんでいる。
買ったばかりの靴を汚さないようにそろそろと歩いて公園に入ると、小さな雨粒が頬にあたった。
「やべ。雨」
思わず空を見上げると、青空の半分に灰色の雲。雲の切れ間から太陽の光が射して、光の柱をつくる。ああ、これなんて言うんだっけ。
まだ俺が小さかった頃、母と電車に乗って海に行ったことがある。そう何度も行った記憶はないけど、大抵いつもこんな天気だった。晴れでもなく、雨でもなく、だからといって「曇り」という単語から連想するような空の色じゃない。綺麗な空に、灰色の雲。そしてその切れ間から射す光がいつも綺麗で、いつまでも飽きずに眺めていた。そのとき母が教えてくれたんだ。
「なんだったっけなあ……」
どうしても思い出せなくて、公園の中央にある楠の下で雨宿りしながら空を眺めた。眺めているうちに思い出せるかもしれないと思ったけれど、無理だった。本降りになってきた雨に、リュックを傘代わりにに家に帰ろうと一歩踏み出した、そのときだった。
雨宿りしていた楠の、反対側。細い、歌声が聴こえた。なんの歌かはわからない。けれど、とても綺麗な旋律だった。そっと息を殺して木の反対側の様子を窺うとそこには、自分よりだいぶ背の低い、あどけない少年が佇んでいた。
雨に濡れるのにも構わず、ゆっくりと、丁寧に歌う。どこかで聴いたようなその歌は、公園の草木を濡らす雨音にかき消されそうなほど、か細い。細く、でも優しい。
少年は歌い終えるとじっと前を見据え、自分に活を入れるようにぎゅっと目を閉じてから目を開け、強く頷くと、綺麗なスニーカーが汚れるのも構わない様子で、泥を跳ね上げながら公園を出ていった。少年の見ていた方向を確かめると、そこには俺の家があった。
「なに、俺んち? え、なんで? ……いや、偶然か」
少年の出ていったほうを見ると、もうどこにもその姿は見えない。公園の前を通り過ぎる車のエンジン音が、ただ響くだけだった。