episode 1
今思えば、あれは運命だったのかもしれない。
あの日満開の桜の下で、細い雨に打たれながら歌う君を見た。ただそれだけのことだった。けれど、ただそれだけのことが、あの日の自分を動かしたんじゃないのか。難しいことはちっともわからないけど、そんな些細なことを「運命」と呼ぶこともあるのかもしれない。
***
そこは海の見える街だった。どこにでもある、ほとんど特徴のないありふれた街。テレビなんかで街の景色が映し出されたとしても、きっとどこかよく似た場所に違いないと思ってしまうような。
俺は春休みの間に、そんな街に越してきた。春休み前に、海外に赴任していた父が突然日本に帰ってくると連絡があった。けれど長いこと父が不在だったわが家には既に父の居場所はなかった。いろんな意味で。
母は内心の焦りを隠しながら受話器越しの父に弾んだ声を聞かせて、俺に笑ってみせた。うまく笑い返せたかどうか自信がない。
一台の大きなトラックに積めるだけ荷物を積んで、母と狭い助手席に乗り込んだ。運転席のおじさんは時々世間話をしながら、俺と母を気遣った。母は、道すがらおじさんにコーヒーや昼食をご馳走したりしながら、目的の街までの旅路を楽しんでいるように見えた。
そんな母とおじさんの間に挟まれて右に左に視線を動かしながら、なにかただならぬ空気を感じていた。なにがただならぬのかその時の俺にはさっぱりわからなかったけれど。
引越しの荷物は、おじさんと母が次々に家の中に運んだ。手伝おうと手を出したら、おじさんから、怪我をすると危ないから君はここにいなさい、と穏やかな声で諭された。もう中学生だから荷物を運ぶくらいできる、と主張したけれど、おじさんは楽しそうに笑うだけだった。
仕方なく家の前にある満開の桜に囲まれた小さな公園のベンチから、あまり多くはない荷物が次々と家の中に運び込まれるのを眺めていた。おじさんは母を気遣い、母はおじさんを気遣っていた。二人は一緒に荷物を持つたびに一度目を合わせ、動くタイミングを図るように、うん、と頷き合う。運び込んだあとは、また楽しそうに笑いながら家の中から出てくる。やわらかい日差しに目を細めた二人は、夫婦よりも夫婦みたいだった。
なんだか見ていられなくなって、公園の向こう側にある自販機にジュースを買いに行った。ポケットの小銭がじゃらじゃらと軽い音をたてる。空は霞がかかっていて、今の俺の頭の中みたいにぼんやりしていた。
荷物を運び終えたおじさんは母となにかぼそぼそと話して、買ってきた缶コーヒーを受け取ると、一瞬だけ俺の目を見て申し訳なさそうに眉を下げて笑った。去ってゆくトラックの後ろ姿に、母はいつまでも頭を下げていた。
それまで海のない雑然とした街に住んでいた俺にとっては、家の窓から海を眺めて暮らすということに並々ならぬ憧れを感じていたけれど、この家のどの窓からも海は見えなかった。俺のささやかな夢を知っていた母は肩を竦め、ここはお父さんの会社の人がわざわざ用意してくれた家なんだから贅沢は言えないよね、と笑った。
やがて短い春休みが終わり、自宅となったその家から徒歩十五分のところにある中学校に入学した。
真新しいブレザーはなんだか着慣れなくて窮屈だった。
入学式を終えて新品の教科書をぎゅうぎゅうに詰めたリュックは重くなって、家に帰り着いた頃には肩がめちゃくちゃ痛くてどうしようもなかった。まだ一度も開いていない教科書たちを使い古した机の上に並べ、それぞれに自分の名前を書いていく。
「平野颯太」何度も何度も同じ名前を書いていくうちに瞼が重くなりかけて、眠気覚ましに部屋の空気でも入れ替えようと、机の前にある大きな窓を開けた。春の生暖かい風が、公園の桜の花びらを乗せてきた。思わずキャッチしようとして、空振りした。小さな桜の花びらは音も立てずに灰色の絨毯の上に落ちた。ばつの悪さを感じて、誰も見ていないのに苦笑いしてから深呼吸した。雨の匂いがする。
「颯太? お昼食べるでしょ?」
階下から母の声が聞こえて、お腹が空いていたことを思い出した。「食べる!」と大きな声で返事をしながら、窮屈だったブレザーをベッドの上に脱ぎ捨てた。
ぎいい、と錆びた音を響かせてドアを開け、ぎっ、ぎっ、と小さな音を立てながら階段を下りると、リビングの大きな窓の向こうに小さな庭が見える。庭は背の低い雑草だらけで、あちこちがはげてしまった芝生の半分は砂利を敷いて誤魔化してある。庭の真ん中に置いた物干し竿に薄いブルーのシーツがかかって、さっきより強くなった風に揺れている。その上に、裏の家の庭に植えてある桜の花びらがひらひらと舞い落ちた。
「家にはもう、電話はしないでって言わなかった? 旦那ももうすぐ帰ってくるし、息子もいるんだから……」
階段からは見えない所から、母のいつもより低く抑えた声が聞こえてくる。
「引っ越しは、本当に感謝してる。ありがとう。……会いたいけど、でも仕方ないじゃん……」
電話はキッチンとリビングを隔てるカウンターに設置されていた。あと二段下りると、母の姿が見えるはずだ。母からも、俺が見える。思わず足を止めると、タイミング悪く、足元の板が、ぎいいいっ、と威勢のいい音をたてた。心臓が跳ね上がった。
「あ、颯太。ご飯食べる?」
「うん、食べる。お昼ご飯なに? パスタ? すげえいい匂いするんだけど」
俺はなにも聞いてないよ、と伝わるようになるべく平静を装って、慌てて置いたであろう受話器の前を通り過ぎ、冷蔵庫を開けて牛乳を一気飲みした。
「ああもう、牛乳はパックから直に飲まないでって何度言ったら……」
「いいじゃん。もうほら、ちょっとしかねえし」
母が本気でうまく誤魔化せたと思ったのかどうかはわからない。だけど振り返った俺の目に映る母は、いつもの母だった。
母が浮気をしていると知ったのは、二年前のある夏の日だった。
クラスメイトたちと釣り道具を持って、駅を横切り釣り堀に向かっていた。改札が一つしかない小さな駅だったから、ホームにいるのが母だと、遠目でもわかった。クラスメイトたちももしかしたら気づいていたのかもしれない。母の隣には知らない男の人がいて、母とその人は手を握り合って笑っていた。とても幸せそうに、楽しそうに笑っていた。
俺は母のそんな笑顔は見たことがなかった。俺に見せる笑顔はいつもどこか寂しそうで、たった一瞬見たその笑顔で気づいたんだ。あれは、母の大切な人なんだ。そんなことが理解できてしまうくらいには、大人になっていた。そして、そんなことを簡単に受け入れてしまうくらい、子どもだった。
十七歳のときに俺を産んだ母は、ずっと孤独だった。俺が生まれた直後に海の向こうに行ってしまった父と、折り合いの悪い義母や義姉と。元々他人を寄せ付けない性格も手伝って、悩みを相談する相手もなく、いつもどこかで頼れる誰かを探していたのかもしれない。だからそのときの俺は、なんだか嬉しかったんだ。母をあんなふうに笑顔にしてくれる人がいてくれることが、嬉しかったんだ。
「入学式どうだった?」
「どうって。普通だよ」
「普通って、もっと他にあるでしょ。学校には馴染めそう?」
「まだそんなことわからんわ」
「うーん、まあそれもそうだね」
「そうだよ」
昨日まで母は入学式に出ると言い張っていたけど、なんだか気恥ずかしくて断った。もう中学生なのに母親についてきてもらうなんてかっこ悪いと思っていたけれど、式には大勢の保護者が出席していた。ちょっとだけ後悔しながらも、俺はもう親についてきてもらわなくても大丈夫なんだぞ、なんて心のなかで密かに胸を張ってみたりもした。本当は少し寂しかったけど。
「明日ね、お父さん帰ってくるんだって」
「へえ」
「気のない返事だねえ、嬉しくないの?」
「母さんは嬉しいの」
「え?」
聞かなくていいことを聞いてしまった。母は真顔になり、右手に持ったフォークの隙間から、短く残ったパスタが皿の上にするりと落ちた。
「嬉しいに決まってるじゃん。変なこと聞かないでよ」
「ああ……、そう」
母は「そうだよ」と言いながら落ちたパスタを掬い上げ、口の中に押し込んだ。
「母さん」
「ん? なに?」
さっきの電話の相手は、あの男の人なの。聞きたい言葉を飲み込んで、咳払いした。風が窓を揺らす音が、二人きりのリビングに響いた。
「洗濯物入れとかないと、……もうすぐ雨降りそうだし」
「そうか、そうだね。そうするね」
そう、の三段活用みたいな返事をしながらうん、うんと頷いて、食べたパスタの皿をカウンターに置いて庭に続く窓を開けた。強い風がリビングに吹き込んで、ローテーブルの上の雑誌がぱらぱらとめくれる。庭に出た母の、木製のサンダルがざりざりと音をたてた。