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めい亭

作者: 竹取 裕基

 酒井信二は、場末のバーでマスターと話し込んでいた。上品な白髪が目立つマスターと、うまい酒や料理について話をしていたら、ふと思い出したように、一枚の名刺をくれた。

 「めい亭」と書かれたその名刺には、奇妙な事に住所も電話番号も書かれていなかった。

「酒井さん、一度この店に行ってみてはどうですか。紹介がないと行けない店です」

 マスターは他の客に聞かれたくないのか、声をひそめて酒井にしきりに勧めた。興味を持ち、店の場所を訊くとマスターは手書きで地図と、店の電話番号を教えてくれた。マスターによれば、選ばれた人だけが行ける特別な店だという。店に行くには、この名刺が必要だとの事だ。そんな特別な店に、選ばれて行けるという事が酒井の自尊心をくすぐった。

「マスター、ありがとう。一度行ってみるよ」

 そう言って、バーを後にした。


 三日後、仕事帰りに、ある寂れた駅で降りた。こんなところに本当に店があるのか半信半疑だったが、マスターの地図どおりに歩くと大きな料亭のような店があった。暖簾には「めい亭」と書かれており「一見さんお断り」と大きく書かれた紙がドアに貼ってある。入るのがためらわれたが意を決して入ってみると、中から愛想の良い六十代ぐらいの禿げた主人と暗い表情の若い女が現れた。


「いらっしゃい! 名刺をお持ちですか?」と言うので、マスターにもらった名刺を見せると主人は大喜びで奥の座敷に案内してくれた。それにしても一見さんお断りとは、敷居が高い気がした。風情を凝らした部屋で古風な雰囲気の庭も見えた。しばらくして若い女がメニューを持ってきた。言葉遣いは丁寧だが、にこりともしない。ポニーテールをした童顔でなかなかの美人だが思いつめたような顔をしていた。主人の娘だろうか? 歳を考えるとそんな気がした。女に主人は父親なのか? と尋ねてみたら、いいえ、とだけ答えた。メニューにあった若鳥のロースト、神戸牛のシチュー、ビールなどを頼んだ。しばらくして運ばれてきた料理はどれも、今までこんなにうまい物がこの世にあったのか、と驚く程に美味だった。ビールも生まれて初めて味わうような、信じられない旨さで驚いた。

「凄く旨いね!」主人にそう伝えると、主人は大喜びだった。よかったらマッサージもいかがですか、と勧めるので料金を尋ねると、無料ですと言うので頼むと、あの女に別室に連れていかれ、ベッドの上で横になった酒井を女は一生懸命マッサージした。

 女のマッサージの腕も信じられないほどに上手で、数年来の頑固な肩こりも一気に治ったのには驚いた。女を褒めると、ありがとうございますと丁寧に言うが、笑顔は全く見せない。腕がいいので構わないだろう、そう思う事にした。マッサージを終えて部屋を出ると、客らしい見知らぬ一人の青年とすれ違ったが、ほとんど客が見当たらない事に気が付いた。こんなにサービスのいい店がなぜ流行らないのか不思議に思った。酒井が満足して勘定をすると、なんと千円でいいと言う。これでは経営が成り立たないだろう、と尋ねると、老後の趣味でやっている店で利益は度外視していると主人が言った。だが、せっかくだから、ほかに客を紹介してやろうか、と言うと、急に主人は愛想笑いを止め、それはいけません、そんな事をされては困ります、趣味の店ですから、と強い口調で言った。腑に落ちない気もしたが、趣味の店なのであまり人が来てもらっては困るのだろう。

 それから、酒井は「めい亭」に毎日のように通った。主人の作る料理は何を食べても絶品で、聞くところによると若い頃はある名門ホテルの料理長だったそうだ。女のマッサージも最高で、どれだけ飲んで食べてマッサージしても千円なので、つい足が向いた。いつしか体重は百キロを超えた。以前の服も着れず、これはまずいと思いながらも、つい来てしまう。今日も、座敷でたらふく食って飲み、マッサージも終わってから、いい気分で座敷にいた時の事である。突然女が、隣に座り微笑みながら甘えた口調でこう言った。

「よかったらこれ、飲んでみてください」

 女が差し出したのは、赤いルビーのような鮮紅色の錠剤だった。今まで一度も笑顔を見せた事のない女の微笑に、つい錠剤を飲んでしまった。すぐに心地よい眠気に襲われ、意識が遠のいていく。酒井はその場に崩れこみ、畳の上でだらしなく昏倒した。

「社長。出荷準備完了しました」

 事務的な女の声に、主人がニヤリと笑った。

「今回の出荷先は、ある政界の有名な人でね、若い雄の霜降り肉を、すき焼きにして食べてみたいとおっしゃる。この雄は若いし、よく太って、いい肉質だから、高く売れそうだね」

 主人は、昏倒する酒井をしり目に、スマホを取り出して、どこかに電話し始めた。

 女は酒井をみて満足げな微笑みを浮かべ、そっとその頬を撫でた。


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― 新着の感想 ―
[一言] ラストの展開にゾクッとしました。「うま過ぎる話しには裏がある。」ということを改めて実感させられました。
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