旅立ちの日
白銀の雪原に足を踏み出す音が好き。
曇りが多いけど眩しくない空が好き。
冷たい雪の上に寝そべるのが好き。
甘い桃が好き。
私は、この途中が大好きだ。
少女の名前は「モル・ミリー」
北の領土『ホトリ』を治めるミリー子爵の一人娘である。
広い領地ではあるがそのほとんどは農地であり、ミリー家はそこら一帯を取り纏める貴族である。
モルは、近くの低木から歪な黄桃を一つもぎ取る。
両の手に力を入れると黄桃の皮は簡単に剥け、中からよく熟れた橙を帯びた黄色い果肉が顕になる。モルはその果肉を一口頬張って呟く。
「…美味しい」
「お嬢様」
『悪さをしている』と自覚している時に誰かに呼ばれると反射的に肩が跳ねる。
「…タッセル、急に後ろに立たないで」
辺りを見回して今この場にいるのが自分とタッセル一人だと分かると、モルは安心してゴーグルを外す。
ゴーグルの下には美しいアイスブルーの『フレームアイ』が姿を現す。
「そんな視界でよくこんなところまで来れましたね…まさか成人した御令嬢がこんな夜中に桃泥棒をしているとは思いませんでした」
「食べたかったんだもの」
「その桃一つ作るのにどれだけこの村の人が努力しているかは分かっていますよね」
彼の名はタッセル。モルのただ一人の従者だ。
「明日にはこの土地を離れるのよ、少しくらい大目に見ても良いじゃない」
「それは俺もです。俺なんて結婚する訳でもないのに貴方に着いて行く羽目になったんですから」
「…嫌ね、この土地を離れるのは」
「はい」
貴族の女に生まれたからにはいつか家の為に結婚することになるだろうとは思っていた。
モルは明日この北の地を離れ、この国の中心。
遠い王都に嫁ぐことが決まっている。
両親はとても穏やかで、民からも慕われている。
そして、夫妻は土の魔法、水の魔法を使うことが出来、作物を育てる農家では重宝されている。
それに比べて『モルの魔法と言ったら』
「私の魔法が役に立つ日が来るなんて思わなかったわ」
「そうですね、俺はお嬢様は一生一人で寂しく生きていくと思っていました」
「こいつは本当に私の従者か?」と思うほどタッセルの言葉のあたりは強い。彼はモルから見て五歳ほど歳上で、モルが産まれる前から既に我が家にいた。モルにとっては従者と言うよりも兄に近い。
水を含んだ土色の髪の毛、冷ました紅茶のような赤い瞳。
タッセルは長い髪を掻き揚げて桃を一つ低木からもぎ取る。
「あっ、タッセル貴方も!」
「食べたかったもので」
モルは小さくため息をついてタッセルの桃を見やる。それはモルと同じく歪で売り物にはならない桃だった。
歪だからと言えど味が悪い訳では無い。
ホトリの外に出荷せず、ホトリの中で消費される特別な桃。
この土地を去るモルとタッセルはもう味わう事は出来ない。
モルもタッセルもこの『ホトリ』で取れる桃が大好きだった。
しばらくして先に桃を食べ終えたモルが口を開く。
「ふふ、桃泥棒は二人だけの秘密にしましょ」
「形のいい熟れた桃が食べたくないなら、黙っているべきでしょう」
モルとタッセルがこの土地を経つ時、きっとタッセルの方が別れを惜しまれるのだろう。
そんな分かりきったことすらとモルの心は痛む。
「私には民からの信頼も権力も財力もない…でも私には、この目があるわ」
少女は胸をとんと叩くと口の端に着いた果汁を拭った。
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