玄関先で、蕎麦食う女
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ある日、ふと思い立って蕎麦を食うことにした。
一キロ圏内にある蕎麦屋の出前を頼む。猛暑日のクソ暑い日の昼食。あっつい蕎麦。季節感もクソもないが、私は冷たい蕎麦が好きではないので仕方ない。
創業何十年のそこの蕎麦屋は、今時珍しい容器返却タイプの出前だった。
作業をしながら待っていると玄関のチャイムが鳴った。
それに「はいはい」なんて返事をしながら、私は小銭を持って踵を潰した靴を引っかける。
玄関扉を開けると、そこにはこのクソ暑い日に熱い蕎麦を運んできたであろう、配達員のお兄さんが立っていた。
昔ながらの鉄の桶から、どんぶりが見えて――それを受け取った私は、ふと思い立って蕎麦を食うことにした。
玄関先で、蕎麦を食うことにしたのだ。
猛暑日のクソ暑い日に熱い蕎麦を食ったからか、蕎麦の味はよく分からなかった。たぶん、美味かったはず。
私は湯気で曇った眼鏡のレンズ越しに、驚き呆然としている彼の顔を美味しく頂いた。
やっぱり、蕎麦の味はよく分からなかった。
そして、
言い忘れていた。
私は蕎麦が好きではない。
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俺がそのコラムを見つけたのは、本当に偶然だった。
『玄関先で、蕎麦食う女』
そのタイトルを見た時、最初に浮かんだのは出前先のおかしなお客のことだった。
俺は夜間学校に通う傍らで、昼間は蕎麦屋でバイトをしていた。創業何十年という昔ながらの蕎麦屋。
出前も扱っていて、俺はこの暑い真夏日に自転車を走らせて汗を流している。
そんな猛暑日に、あっつい蕎麦を頼む客がいた。
ここ何週間かの出来事だ。
その人は毎日、昼食に蕎麦をとる。あっつい蕎麦。
何考えてんだと思ったし、注文間違いかもと勘繰った。
けれど実際に出前に行くと、その人は気前よく蕎麦を受け取って食べた。
――どういうわけか、玄関先で。
玄関先で、蕎麦を食う女に俺は遭遇してしまった。
初遭遇時は、本当に驚いた。
人間驚くと咄嗟に声も出ないし、思考が停止するみたいだ。
例にもれず俺もそうなって、黙々と蕎麦を食う女をじっと見ていた。
彼女は眼鏡を曇らせて、あっつい蕎麦を啜っていた。
この猛暑日に、俺と同じく汗を流しながら。拷問に近い所業を平然と行っていることに、俺は眩暈を感じた。
きっと熱中症にでもなりかかっていたのだろう。
しかしそのお客はおかしな人ではなかった。
ちゃんと事前に俺に断りをいれてくれたからだ。
「三分待ってくれますか?」と。
俺はそれに頷いた。
金を取りに行くのかな、と思ったからだ。
けれど彼女はどんぶりを受け取ると、俺に小銭を渡して。その場で蕎麦を食い始めた。
そしてきっかり三分後に食べ終わると、「ごちそうさま」と言って、どんぶりを返してきた。
意味が分からなかった。
彼女は蕎麦を食い終わると、アパートの中に入っていった。
出前を終えた俺は戻ってもいいのに、どうしてか足が動かずしばらくそこに居たかもしれない。
白昼夢でも見ているのかと思ってしまった。
実際はそんなことはなく、俺は正気でそのお客がヘンだっただけ。
そんなことがあった次の日、また出前の注文を受けた。
昨日と同じお客さん。あっつい蕎麦。
二度目の――玄関先で、蕎麦食う女。
昨日と同じ展開だった。
あっつい蕎麦を、眼鏡を曇らせて食う。
俺はそれを三分待って、「ごちそうさま」と言われる。
やっぱり意味が分からなかった。
だから俺は思い切って聞いてみた。
どうしてあっつい蕎麦頼むんですか、と。
すると彼女は、「冷たいのは好きじゃないんだ」と答えた。
真っ当な答えに俺は、そうですかとしか言えなかった。
けれど、それを聞いたあと猛烈に後悔した。
どうしてあんなどうでもいいことを聞いてしまったのか。一番聞きたいことはあっつい蕎麦についてではなく。
「どうして玄関先で蕎麦食うんですか?」だろ!
あっつい蕎麦を頼むのは理由があるからまだ納得できる。
けれど、それを玄関先で食うのは、どんな理由があるのかさっぱり分からない。
いや……なんとなく予測は出来る。
どんぶりを取りに来させる手間を省くため、かもしれない。むしろそれしか理由が思い浮かばない。
ここ数週間の俺の頭の中は、あの人のことでいっぱいだった。
なんで玄関先で蕎麦を食うんだろう。どんな理由があってあんなことをするんだ?
考えだしたら止まらないし、そのくせ考えても答えが出てくることはない。
たぶん、だろう――で止まってしまう。
だから俺はある日、意を決して聞いてみた。もう我慢ならなかったのだ。
いつものようにあっつい蕎麦を届けて、眼鏡を曇らせて食っている姿に――聞いてしまった。
「あの、どうして玄関先で蕎麦食うんですか?」
尋ねると、彼女は手を止めて俺を見た。
曇り眼鏡のレンズ越しに見つめて、口の中を空にしてから彼女はこう答えた。
「三分過ぎるけどいい?」
「え?」
「これ、答えちゃうと三分過ぎちゃう。こっちは待ってもらっているから、あまり待たせると悪いよ」
「そっ、そんなの全然いいです! むしろこっちの方が大事なんで!」
食い気味で話すと、彼女は一つ頷いた。
「職業柄、他人と会って話すことがほとんどないんだ。だからってこの暑い中、外で誰かと会うのも嫌だったから」
だから、と続ける。
「最初、出前を頼んだときお兄さんを見て思いついちゃって。蕎麦食ってる時に話し相手になってくれないかなあと、思っちゃったんだよね」
「……話し相手?」
彼女の答えに俺は狼狽えた。
だって、話し相手というがこの人と話したのはこないだと今の二度しかない。
あっつい蕎麦を頼み始めて、もう十日は以上は経っている。その間の会話、二度。
「対話は言葉だけでするものでもないしね」
俺の心が読めているのか。
蕎麦の人はにっこりと笑った。
「お兄さんの驚いた顔とか、面白かった。この人何してんだって顔に書いてあるんだもん」
「う――うわっ!」
それを指摘された瞬間、俺はどうしてか赤面してしまった。
片手で顔を隠して、視線を遮る。
目を逸らしながら、俺は思った。
この人、性格悪い人だって。
「ごちそうさま」
俺が見ていない間に、蕎麦は綺麗に平らげられていた。
どんぶりを受け取って、彼女は微笑むとアパートの中に戻っていく。
俺はまた、しばらくその場から動けなかった。
その話をされた後も、あっつい蕎麦の出前は続いた。
彼女の話を聞いて、俺はぽつぽつと話すようになった。
話題はその時で色々。
けれど俺はそんなに話の引き出しが多くはない。けれど俺なりに結構頑張って話題を考えて昼の出前に臨んでいた。
最初はヘンな人だとか。おかしな人だって思っていたのに、いつの間にかそんな気持ちは消えてしまっていた。
むしろ少し興味が湧いてきた。
こうして毎日出前を届けるたびに会うけど、俺はまだ彼女の名前を知らない。アパートの表札には部屋番号だけ。
もちろん、面と向かって聞けるわけはなく……。
「お姉さんは何の仕事をしてるんですか?」
毎度、誤魔化すように話題を振る。
それに彼女は、いつものように曇った眼鏡越しに俺を見て答えるんだ。
「秘密かなあ」
「いいじゃないっすか。教えてくださいよ」
「守秘義務はないけど、知られると恥ずかしいよ」
はにかんだ顔を見て、俺は思考を止める。
――知られると恥ずかしい仕事?
脳内はピンクい想像で満たされる。頭を振って、慌ててそれを消すと俺の目の前にいたお姉さんはにやりと悪い笑みを浮かべた。
「いま、なに考えてた?」
「えっ!? な、なにも!」
「お兄さん、分かりやすいんだよ。すぐに顔に出ちゃうから」
からかうように笑われて、俺は彼女の顔を見れなくなった。
恥ずかしい。とっても恥ずかしい。穴があったら入りたい。
「ねえ、お兄さんの時給っていくら?」
「え? ……千五百円くらいかな」
「分換算だと……五分で自販機ジュース1本か」
そう言って彼女は俺に食べかけの蕎麦が入ったどんぶりを預けると、一度アパートの中に戻った。
しばらくして、現れた彼女の手には冷えたペットボトルのジュース一本。
「これ、私からのお給料です」
「え!? いいんすか?」
「三分超えること多くなったし、今の時間帯はきっと昼休憩でしょ? この暑さで倒れたら大変だから」
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
渡されたスポーツ飲料を、カチッと開けて上を向いて飲む。
喉が渇いていたからありがたい。
すべて飲み終わるのにそんなに時間は掛からなかった。
俺が潤いを補充していると、お姉さんはいつの間にか蕎麦を食べ終わっていた。
俺の飲み終わりを待っていたのか。空になったペットボトルを潰すと同時に、「ごちそうさま」と声が聞こえてくる。
「午後からも頑張ってね」
にこやかに笑った顔に、俺はどうしてか目を逸らせなかった。
――冒頭に戻る。
俺は偶然にもそのコラムを発見してしまった。
『玄関先で、蕎麦食う女』
著者名は……南酉 蛍
「ペンネームかな」
コラムが載っている雑誌を見つけたのは美容院の本棚に入っているのを偶然手に取ったから。
それは最新版ではなくて、二号古いものだった。
本棚を漁って、俺は初回の次のコラムを見つける。
「あった」
ページを開いて目を通す。
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『玄関先で、蕎麦食う女』
著者:南酉 蛍
クソ熱い蕎麦の早食いをしている。
制限時間は三分。
もはや味わうどころの話ではない。けれどどういうわけか。楽しくなってくる。
おかげで私の舌はでろでろに溶けてしまった。いつもひり付いて仕方ない。それでも楽しさの方が上回っているのが不思議なものだ。
早食い蕎麦の出前を届けてくれるお兄さんは、少し面白い人だった。
先日、同じようにクソ熱い蕎麦を頼んで、玄関先で食っていると彼が尋ねてきた。
曰く――どうして玄関先で蕎麦を食うのか、と。
私は今更それを聞くのかと面食らってしまった。
何度同じ注文をしていると思っているのか。私だったら最初の一回目で我慢できなくて聞いている。
しかしあまりにも聞きたそうにしているので、私は眼鏡を曇らせたまま答えた。
「話し相手が欲しい」
理由を聞いた彼は、なんだか釈然としない顔をしていたと思う。
どうしてか。
私が彼と会話らしい会話をするのは、これで二回目だからだ。もう何度も蕎麦を頼んでいるというのに、たった二回の会話だけ。
きっと私が彼の立場でも同じことを思って、同じ気持ちになった。
人間とは考える葦である。
偉大な先人、哲学者パスカルの言葉だ。
私はこの言葉が好きだ。人間であるから、こんなどうでもいいことを徒然と考える。
だから、私にはこのお兄さんの思っていることが分かってしまうのだ。
どうにも蕎麦を食っていたら、テレパスでも使えるようになったらしい。
というのは冗談で、
彼がなんとも分かりやすい顔をしているだけだ。
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「これって……俺のこと、だよな?」
コラムを読んで、俺は固まっていた。
内容にとても既視感を覚える。
というか、あの人……舌火傷しながら食ってたのか。
猫舌なのかな、なんて思いながら俺は雑誌を閉じた。
そもそも、このコラムの内容。突っ込みどころが満載だ。
火傷云々もそうだけど、第一回目のコラム。
「あの人、蕎麦好きじゃないんだ……」
ついでに、みたいなニュアンスで書かれていたが一番大事なところのように思う。
そもそも何で蕎麦が好きじゃないのに毎回蕎麦を頼むんだろうか。しかも舌火傷してまで。
「意味わかんねえ……」
美容院の待合室のソファで、俺は頭を抱えてしまった。
コラムだし、これがあの人のすべてであるとは言えない。冗談だって混じっているかも。
けれど、あの澄ました顔で蕎麦を食べている人が、こんなことを考えているとは。
人は見かけによらないという良い例だ。
しかも、ちょっと口が悪い。
「あの顔でクソとか……」
想像したらなんだか笑えてきて、お客がまばらな待合室で俺は笑いをこらえるのに必死だった。
次の日も出前があった。
あっつい蕎麦の出前。
俺はそれを運びながらどうしようかと悶々としていた。
――あのコラムのこと、聞いてみようかな。
浮かんだ考えに、俺は頭を振って考え直す。
もしあの人がこのことを知れば、この時間に何を考えているのか。知れなくなってしまうんじゃないか!?
ただでさえ何を考えているのか分からない人だ。
そんなあの人の内面を知れるチャンスでもある。これをみすみす逃す手はない!
アパートのインターホンを鳴らしたところで、俺はその結論に至った。
と同時に、決定的な事実に気付く。
――いつの間にか、この時間を楽しみにしている自分が居る、と。
「お待ちどうさまです」
「いつもありがとう」
彼女は嬉しそうな顔をして俺の手からどんぶりを受け取った。
これから舌を火傷する人とは思えない顔をする。
そんなことを考えながら、俺は彼女に質問した。
「今日は山菜蕎麦なんすね」
「うん。たまにはいいかなと思って」
器を持つ左手にミトンを付けて、割り箸を口に挟む。
玄関先で蕎麦を食うから、必然的に立ち食いになる。
熱いどんぶりなんてずっとは持てないから、こうして蕎麦を食う時はミトンをするんだ。
もう慣れた光景。それに俺は何の疑問も抱かず当たり前だと受け入れている。
「山菜といえば、俺のじいちゃんの話してもいいすか?」
「うん。食べながら聞くね」
彼女はそう断って、蕎麦を啜り始めた。
眼鏡を曇らせて蕎麦を食う人を目の前に、俺はひとり話し出す。
「俺のじいちゃん、山に山菜取りに行くんですよ。んで、いつだったか。遭難しちまって。そういう話はよく聞くから気を付けろとは家族みんな言ってたんですけど、まさか実際にそうなるとはなあ。まあ、いつかやるとは思ってましたけどね」
「ふ――っ、んふふ」
突然、彼女は笑い出した。
どんぶりを持つ手が震えて、肩も震えている。
俺はそれを呆然と見つめていた。
何に笑われたのか、分からなかったからだ。
黙って見つめていると、彼女は眼鏡を曇らせながら顔を上げた。
「い、いまの。おもしろいね。いつかやると思ってたって、家族が言っていい言葉じゃないところが面白い」
笑いのツボを的確に説明してくれる。
俺はそれに、妙に納得してしまった。
「じいちゃん、自由人だったから。自業自得ってやつだと思いますよ。いや、そりゃ心配はしてたけど」
「山菜って人を魅了しちゃうんだろうね」
「あれ、ただの草ですよ?」
「おいしい草だ。人を死に至らしめる、悪魔の珍味だね」
――悪魔の珍味。
これまたおかしなことを言う。
普通聞かない言い回しだ。
おいしいけど、悪魔って名づけるのは奇妙だな、なんて考えていると彼女はハッとした顔をした。
「ああ、三分過ぎちゃったね。はじめて食べきれなかった」
「こだわりでもあるんすか?」
「ううん。ないよ。でも始めたら抜け出せなくなっちゃったんだ」
そう言って、残りの蕎麦を掻き込むと彼女は空になったどんぶりを渡してくる。
それを受け取って、鉄桶にしまっていると俺の視界の端でお姉さんは眼鏡をはずした。
初めて見る混じり気のない素顔に俺は固まる。
そんな俺の前で、手に嵌めていたミトンで眼鏡のレンズを拭きながら、
彼女は――
「これ、蕎麦だけの話じゃないからね」
なんて言う。
一瞬、何のことを言っているのか分からなかった。
少ししてさっきの話の続きかと理解する。
でも話の脈が分かったところで、それが何を意味するのか。俺にはやっぱり分からなかった。
――どういう意味ですか。
なんて尋ねる前に、
「ごちそうさま。これ、今日のお駄賃ね」
準備していたのか。
冷えたジュースを玄関の隙間から取り出して、俺に押し付けると彼女は薄く笑ってアパートの中に消えていった。
その姿が俺の視界から消えた後に、気づいてしまった。
さっきの言葉の意味。
「うっ――わ」
こんな猛暑日に外を歩いたせいか。
俺はくらりと眩暈がしてしゃがみ込む。
額に冷たいペットボトルを押し当てて、どうにもならなくなって小さく呻く。
たぶん、顔なんて真っ赤になっているはずだ。
「そーいうこと……」
俺の自意識過剰じゃなければ、さっきのあれは俺と話している時間のことを言っている、はず。
これで全然違っていたら恥ずかしい、なんてもんじゃないけど……どうにも期待してしまう。
「……やばい、好きかも」
蚊の鳴くような声で呟く。
自覚するまでもなくそうだ。
最初はおかしな人だな、と気になって……気づいたらこれだ。
でも俺にはこの気持ちを伝える度胸はない。
ただ蕎麦を届けて、少し話すだけの関係。そこに恋愛云々の気持ちなんて、相手は持っていないはず。
「ま、それが当たり前――」
自分を慰めるように呟いた直後、ふとある物が目に入った。
冷えたペットボトルのラベル。そこに紙きれが挟まっている。
水滴で濡れてしまったそれを取ってみると、そこには綺麗な文字が並んでいた。
『仕事が終わったらお話しませんか? この場所で待っています』
書かれている文字を理解するのに数秒かかった。
「こ、これって……」
つまり、あの人も俺に少し気があるってこと!?
しゃがみ込んだまま、同じことを延々と考える。
もちろん、これを断る理由はない。
「よっしゃ――っ、ああ!?」
ガッツポーズをしようとして腕を上げた時、俺は大事なことを思い出した。
今日は仕事が終わった後は夜間学校の講義があったんだ。
「タイミング悪すぎんだろ……」
しょんぼりと肩を落としそうになって、俺は顔を上げる。
いや、ここで諦めてなるものか。予定が合わないなら、どうするか。
ごくりを唾を飲み込んで、俺は目の前にある扉を睨みつけた。
みっともなく震える指先で、インターホンのスイッチを押し込む。
なんて切り出そうか。
考えがまとまらないまま、玄関のドアがゆっくりと開いた――。
恋愛ジャンルは滅多に書かないけど楽しんでかけました。
反応もらえたら続き書こうかなあ