私ってわがまま傲慢令嬢なんですか?
メアリ・ハミルトンには、特に盗み聞きの趣味があるわけではない。
だから、中庭で男性二人の何やら不穏な会話を耳に入れてしまったのは、故意のことではない。学園に住み着く三毛猫を追って中庭付近に足を踏み入れたとき、たまたま彼らがそこで話をしていたということに過ぎず、つまりは全くの偶然だった。
「……正直、うまくやっていける気がしないよ。わがままで傲慢。常識もない。今は婚約者という立場だからまだ良好な関係が築けているけれど、結婚後はどうなることやら」
聞こえてきた男性の声は、うんざりしたような雰囲気をまるで隠していなかった。思わずぴたりと足を止めたメアリは、その声に注意を向ける。目を離した隙に追いかけていた猫はどこかに走り去ってしまった。
メアリは会話の主たちに見つからないように身をかがめて生垣の陰に隠れ、息を殺して話し声がよく聞こえる位置まで忍び寄った。
繰り返すが、メアリには特に人の話を盗み聞きする趣味があるわけではない。通常であれば、通りすがりの人間が話す婚約者の愚痴程度気にも留めずに通り過ぎていただろう。そうできなかった事情。それは、そこで婚約者に対する不満を漏らしている男が、彼女と現在婚約しているアラン・シェラード伯爵令息だという事実にある。
つまりはおそらく、というか間違いなく、彼の言っている「わがままで傲慢かつ非常識な」婚約者というのはメアリ自身のことなのである。
耳をすましていると、別の男性の声が聞こえてきた。
「お前がそこまで言うって相当なんだろうな……。でもだからって態度には出すなよ? いずれは結婚するんだし、内心どう思っていようとそれなりの関係を保ってないと面倒だからな」
「そんなことは当然だろう。それなりに上手くやってるさ、少なくとも表面上は。それでも堪えきれないからこうして君に話してるんじゃないか」
いつも穏やかな笑みを浮かべている普段の姿からは想像できない、強い口調の彼に驚きながらも、どこか納得もしていた。
──やっぱり彼は、私との婚約が不満だったのだわ。
そもそもアランとの婚約は、完全に政略的なものだった。
アランの家であるシェラード伯爵家の領地が災害に見舞われ、伯爵と学生時代からの友人であったハミルトン男爵、すなわちメアリの父が支援を申し出た。そうして結ばれた婚約。当然のことながら、メアリたちの意思など介在する余地はなかった。婚約者が決まったと父に言われたときも、降って湧いたような話にただ困惑していたのを覚えている。
とはいえ、特に不満があるわけではなかった。いずれ婿を取ることは決まっていたし、別に好いた相手がいるわけでもない。父が選んだ相手ならばそうおかしな人ではないはずだという信頼もあった。
そして実際に会って話し、この男の子と婚約者であることが嬉しいと思うようになった。将来夫婦になれる日を心待ちにしていた。
けれど、彼はそうじゃなかったんだろう。
初めて顔を合わせた時から、アランはとんでもない美形だった。最初に目が合った時、比喩でなく一瞬息が止まったほどに。柔らかそうな金の髪に、澄んだ青空のような瞳。その完璧な愛らしさを持つ造形はいつか見た絵画の天使を思い起こさせた。
伯爵家で行われた顔合わせの際、初めて自身の婚約者の姿を目の当たりにして声も出せず固まるメアリに、彼はその美しい顔でにこりと笑いかけた。
「初めまして、メアリ・ハミルトンと申します……」
のぼせあがって立ち尽くしたまま真っ赤になるだけのメアリは、その場にいた父に促され、ようやく心ここに在らずのおぼつかない自己紹介を返した。今思い返せば失礼極まりない。
自分に見惚れてぼんやりしているメアリを見て内心どう思ったのかはわからないが、アランは優雅な仕草でメアリにすっと手を差し出した。
「可愛らしい僕の婚約者さん、よければ伯爵家の庭を案内させてもらえませんか? ちょうど赤い薔薇が見頃なんですよ」
やはりろくに返事もできず顔を赤くしたままこくこくと頷いたメアリに、アランは優しく笑いかけた。
流石にずっとまともに受け答えができないままということはなく、アランが気遣って色々話しかけてくれたこともあり、それなりに打ち解けて話すことができるようになったと思う。
アランはとにかく紳士だった。まだ幼いながらも常に優しく気遣いに溢れていて、自分の容姿を鼻にもかけない。「完璧」と形容するにふさわしい人がいるとすれば彼だと思った。
今日に至るまでその印象は変わらない。
婚約者同士仲を深めるために、と設定された週に一度のお茶会でも、アランはいつも穏やかな笑みを浮かべていた。優しく親切なだけでなく、メアリを楽しませようと色々な話をしてくれるし、メアリの話も興味深そうに聞いてくれる。まさに婚約者として理想的な振る舞いだった。
けれどどこか壁を感じていた。なんの話をしていてもどことなくよそよそしく、踏み込ませようとしない。
何が原因なのだろうかとこれまで密かに思い悩んでいたが、これではっきりした。
当然だろう。金髪碧眼で輝くような美貌の彼に対し、メアリの外見は平凡そのものだ。髪と瞳の色合いも地味な茶色でなんの面白みもない。そして際立って優れたアランと平凡なメアリという構図は見た目に限ったものではなく、あらゆる面においてそうだった。アランは学園においても優秀な成績を修め、貴族としてのマナー、振る舞いも完璧でいつも人に囲まれている。対してメアリは学業においても平凡極まりなく、新興男爵家の娘ということもあって貴族としては珍しいほどのびのび育てられたため、所作も周囲の貴族たちほど洗練されていない。
それに加えて、どうやらアランはメアリのことを傲慢かつわがままな人間だと思っていたらしい。外見も平凡、中身も醜悪だなんて最低ではないか。不満を持たない方がおかしい。メアリとしてはむしろ、そんな人間相手に理想的な婚約者として振る舞ってきた彼の我慢強さ、精神力に感嘆するばかりだった。
メアリが一人で納得して頷いている間にも、彼らはメアリについての会話を続けていた。
「うーん、まあお前の不満は分かったけどさ、そもそもなんでそんな子と婚約することになったわけ? その口ぶりからしてお前が望んだわけじゃないんだろ」
「……婚約は、彼女のわがままで結ばれたものだと聞いているよ。どこかで僕を見かけて一目惚れした彼女が父親にねだったのだと」
「それは……断れなかったわけ? 爵位はお前の家の方が上だろ」
「当時うちは経済的に困窮していて、この婚約によって男爵家から支援を得ることができたらしい」
「ああ、男爵家は資産家だもんな……。じゃあ、婚約を解消するのは難しいってことか」
「おそらくは」
彼らは深刻そうな口調で言葉を交わす。
それを隠れて聞いていたメアリの脳内では疑問が渦を巻いていた。
──彼との婚約が私のわがままで結ばれたって……完全に初耳なのだけど?
そもそも、アランとは婚約者として顔合わせをしたあの日が初対面だったのだ。それまで彼の姿を見たことはおろか、名前すら知らなかった。知らない人間との婚約を望むはずがない。
いったい、アランはなぜそのような誤解をしているのだろう?
「だけどわがままで傲慢っていうのは、具体的にどういうことがあったわけ? 実家が支援を受けているとは言っても、その行動次第では流石に解消も視野に入れなきゃならなくなるかもしれない」
それは気になる。
先ほどからアランに「わがままで傲慢」だと評されているが、他者からそのような評価を受けたことは、記憶の限りではほとんどない。けれども他人からそのような印象を持たれているのであれば、原因は知っておかなければならないし、内容次第では今後の振る舞いも見直すべきだろう。今更行動を少しばかり変えたところですでにメアリに対してかなりの悪印象を抱いているらしいアランとの関係改善がなされるかは怪しいが、それはそれとして、だ。
耳を澄ませていると、アランは友人に向かって、メアリに感じている不満について話し始めた。
「……まずはさっきも言ったように、この婚約からして彼女が男爵にねだったことをきっかけとして結ばれたものだ」
「それは、伯爵に聞いた話?」
「ああ。それに加えて、婚約者として接する中でも彼女の傲慢さに辟易する場面は多くあった」
そう、そこが具体的に聞きたい。メアリはゴクリと唾を飲んだ。
婚約が成立した経緯について誤解が生じた原因は後で確認するとして、とにかく気になるのは、アランのいうメアリの「傲慢なふるまい」とやらのことだ。気づかないうちに一体何をしてしまったのだろう?
「たとえば、そうだな……パーティーで彼女をエスコートする機会があったんだが、その時彼女にドレスが似合っていると言ったら、あなたと私じゃ釣り合わないから隣にいるのが恥ずかしい、と返されたんだ。確かに彼女の着ているドレスは誰が見てもわかる高級品で、それと比べれば僕の着ているスーツなど安物に見えただろう。隣に並べば見劣りもしたかもしれない。だが、恥ずかしいと言われるほど見窄らしい服装ではなかったはずだ」
ええ、そんなふうに捉えられてたの?
確かにドレスを褒められた時、釣り合わなくて恥ずかしい、とは言った。言ったけれど、それは見目麗しいあなたの隣に平凡極まりない私が並ぶのが恥ずかしい、という意味だったのに。
いや、その時も何か変だとは思ったのだ。普段ならメアリの自虐を「そんなことないよ」と優しく否定しそうなところを、一瞬固まった後、まるで聞こえなかったかのようにふるまっていたから。
「僕だけでなく、他の女子生徒にも嫌味を言っているところを見かけたことがある。学園の制服が質素で見窄らしいと文句を言っている女子生徒に、彼女は『でもあなたにはよく似合っていると思うわ』と」
それも言った。言ったけど! 別にあれは嫌味のつもりではなくて、美人なあなたにはどんな服装でも似合うのだからいいでしょう、と宥めるつもりだったのだ。言った瞬間空気が凍りついて初めて自分の言葉が嫌味にしか聞こえないことに気がついたっけ。
「それに、学園では常に複数の男を侍らせているし……」
侍らせ……!?
学園に仲のいい男子生徒はいるけれど、全員ただの友人だ。一緒に行動したり話したりする事もあるが、そういう時は大抵女子の友達も一緒にいるし、やましいことなんて何もないのに。
というか男性側も、婚約者のいる地味な女にあえて手を出そうとはしないと思う。なぜ「侍らせている」などと誤解されたのか謎だ。
「そしてこれが極め付けだが、彼女は何か失敗をした時、誤魔化すようにこちらを見てへらっと笑うのだ! うっかりつまずいたり、話す途中でかんだり、失言をしたときなんかに! 一度笑顔を向ければ私は頭が真っ白になって何も言えなくなるとわかってやっているのだ、まったくたちの悪い!」
それまで淡々と話していたアランが急に口調を強めたので、びくりと体が跳ねた。こんな風に感情的な彼は初めて見る。
なんだか……よくわからないところもあったけれど、つまり何か失敗してもヘラヘラしている態度が気に入らないってことみたいだ。そういえば、母にも「都合が悪くなったとき笑って誤魔化そうとするのはやめなさい」とよく注意されていたっけ、とメアリは思い出した。
この件に関しては完全に自分が悪い。笑って誤魔化す癖は早急に直そう。メアリはそう決意した。
これまでのふるまいについて思い返して反省していると、アランの友人のやや困惑したような声が聞こえてきた。どうやら、彼の話に違和感があったようだった。
「えっと、それって本当にお前の婚約者のメアリ・ハミルトンの話か? なんかイメージと違うっていうか、お前の言うことを疑うわけじゃないけど、何か誤解とか行き違いとか、あったりするんじゃ……」
「ふん、まあ慰めてくれるのはありがたいけど」
「いや慰めてるとかじゃ……」
「どうせ彼女とは結婚することになるんだから、ふるまいがどうあれなんとかうまくやっていかなきゃいけないってことはわかってるよ。単に愚痴を吐き出したかっただけだから、あまり気にしないでくれ」
アランの語るメアリ像に疑問を抱いた様子の友人は慎重な意見を口にしたが、彼はその言葉を遮り、キッパリと言い切った。すると友人も「まあお前がそう言うならいいか」ととりあえずは納得し、その話題はそこで終わりになった。
生垣に身を隠したメアリは、試験対策に話題が移った二人の会話を背後に、先ほど聞いたあれこれについてぐるぐると思考を巡らせていた。
その日寮に帰ってから、メアリは父に向けて手紙を書いた。もちろん聞いた話を全て正直に書いたりはせず、婚約が結ばれた経緯について何か誤解がありそうだということをやんわり知らせる内容にとどめた。
けれど、一週間後にきた父からの返答は、メアリが書かなかった事情まで見通したかのようなものだった。
まず、父が伯爵家に確認したところによると、アランの誤解の原因は伯爵家当主、つまりアランの父にあったらしい。
伯爵はアランの婚約を整えた後、当人にそのことを伝えたそうだ。するとアランはこの婚約にはどういう意図があるのかと尋ねた。きっと賢いアランのことだから、当時ぼけーっと生きていたメアリと違って、家の利益や自分の立ち位置などをすでに意識しており、しっかり把握しようとしていたのだろう。
そこで、伯爵は考えたそうだ。婚約の理由は伯爵家の財政難ではあるものの、それを正直に伝えて「家のために売られた」と悲しむことになってはあまりに不憫だ。自分の立場に引け目を感じて欲しくはない。それゆえに、こう伝えてしまった。「婚約は、相手の令嬢の強い希望によって結ばれたものだ」と。のちに本当のことを伝えたものの、なぜか領地の支援を盾に婚約を強いられたかのように曲解されて受け取られてしまっていた。
ここまで読んだだけでも父の静かな怒りが伝わってきた。父と伯爵とは学生時代の友人で、爵位は違えど気の置けない仲であるらしいが、伯爵の嘘によって娘がまるで悪役のごとく扱われたことは腹に据えかねたのだろう。
そして、父は手紙の最後にこのように書いていた。
伯爵家の立て直しは既にすんでいる。また、伯爵家と男爵家とのビジネス面での提携については今後も継続していくことで話がついており、婚約を解消することによる男爵家へのデメリットはほぼないと言っていい。仮に婚約を解消したとしても好条件の男を次の相手として見つけてくるので、その点についても心配しなくていい。婚約者との今の婚約を継続したいかどうか自分で考えて決めるように、と。
「なんてこと……」
手紙を読み終えて、暫し呆然とした。
まさか婚約解消にまで話が発展するとは思わなかったのだ。父は婚約者がメアリの愚痴を言っていたことは知らないはずだ。書いていないのだから。しかしメアリの手紙から伝わってくるニュアンスや伯爵に聞いた話から、何があったのか大体察してしまったのだろう。そしてすごく怒っている。こんなつもりではなかった。
そして、この事態にとんでもなく動揺している自分自身に困惑した。今まで義務的な関わりしかなかった婚約者だ。それに最近知ったことだが、向こうは自分のことを嫌っている。それなのに、婚約解消の話を出された瞬間、こんなに焦りを覚えるなんて。
けれど……考えたこともなかったのだ。アラン以外と夫婦になる未来など。
自分で自分の気持ちがわからなかった。
──私は、アラン様との婚約を解消したいのだろうか?
◇
領地の屋敷に呼び戻され、そこで聞かされた話は、驚天動地の衝撃をアランに与えた。父の前だというのに言葉も表情も普段のようにうまく繕うことができず、狼狽をあらわにしてしまった。信じられなかった。まさか、メアリとの婚約が純粋に政略的なものだったなんて。メアリの望みではなかったなんて。
──アランはずっと、メアリが自分との婚約を望んだという、その事実を心の支えにしていたというのに。
当時12歳のメアリに初めて会った時、滑らかな栗色の髪と、同色の潤んだ瞳に一瞬で目を奪われた。
自分より2歳年下のとても可愛らしい少女。彼女は人見知りなのか挨拶もおぼつかず顔を真っ赤にして固まっていたが、アランが彼女に庭を案内したり、色々と話したりしているうちに段々と緊張を解いてくれた。どうやらアランの容姿は女性に好かれるものらしく、こうした反応は珍しいものではなかったし、対応にも慣れていた。
庭の薔薇を眺めながら二人でお茶をした。アランが言った軽い冗談にメアリがにこっと笑う。ふと、彼女の茶色の瞳は髪色よりもほんの少しだけ色素が薄いこと、光が差すと金色に輝くことに気づく。
その瞬間、アランは恋というものを唐突に理解した。
アランは彼女に心を囚われてしまった。
けれども、アランは恋に溺れるわけにはいかない。その時すでに、伯爵家の経済事情が芳しくないことは両親や屋敷の様子から察していた。息子である自分が愚かな行動で伯爵家に損害を与えるわけにはいかなかった。
メアリは危険だと思った。一緒にいると、自分が自分でなくなりそうになる。彼女のためならなんだってする、馬鹿な男に成り下がってしまいそうな、そんな気がするのだ。
だからアランは、どれだけメアリの笑顔が可愛かろうと、夢中になりすぎないようにと壁を作り、必死に自分を律していた。この婚約が伯爵領の支援を盾にして叶えられた彼女のわがままであったと父に聞いてからは、精神的に彼女に屈服するのは危険だという確信がさらに強くなった。
婚約者として誠実であろうとしていたし、贈り物をしたり、失礼ではない程度に交流を図ってはいたが、「仲の良い婚約者」とは言い難い関係であったと自覚はしている。
途中までは、それでうまくやれていた。
けれどメアリが学園に入学してからアランの苦悩が始まったのだ。
メアリの魅力は多くの人間を惹きつけた。当然ながら、彼女に引き寄せられた人間の中には男子生徒も含まれる。
学園での彼女は、アランという婚約者がありながら多くの男子生徒に囲まれて悪びれもせず、それどころかアランの前では見せたことのない無防備な笑みを浮かべて楽しそうにしていた。アランがどんな気持ちでその光景を眺めているかなど、きっと気にもかけていないのだろう。彼女を他の男から引き剥がしたいという衝動を歯を食いしばって抑えていることなど、知りもしないのだろう。
それでも。どれだけ彼女が美しく人の心を惑わしても、信奉者を抱えていても、婚姻を望んだのは自分とだと思っていた。「彼女が自分を望んだ」と、そう思うことで自分を保つことができた。堂々と彼女の婚約者として立っていられた。
けれど結局それは自分の勘違いで、しかも彼女を貶していたところを聞かれてしまった。誠実な婚約者であろうと努めていたつもりだし、彼女を悪く言ったことはそれまで一度としてなかった。なのに、よりによってつい友人に愚痴をこぼしたその瞬間に、ちょうど彼女が居合わせていただなんて。
メアリに好かれてもなかった上に、これまで義務的な関わりしか持たずろくに関係性も築いてこなかった。
自分は彼女を引き止めるものなど何も持たない。
婚約解消になる覚悟はしておくように、と父には言われた。伯爵家としては、領地の経営状態が持ち直した今、婚約が解消になること自体は特に問題ではないのかもしれない。
こんなことになるならもっと彼女を見つめて、言葉を交わして、多くの時間を共に過ごせばよかった。何を頑なになっていたのだろうか。こんな風に後悔するくらいなら恋に溺れて醜態をさらしたとしてもそちらの方がよほどよかった。
もう、彼女と自分の人生が交わることは二度とないのだろうか。
久々に帰ってきた伯爵家の自室で、アランは一人ぼんやりと部屋の壁を見つめていた。
◇
アランとの婚約について、真面目に考えてみた。
父の意向はともかく、メアリとしては積極的に婚約を解消したいというわけではない。だってアラン以外の男性と結婚する、ということがうまく想像できないし、それにアランを嫌いなわけでもない。
誤解があったりだとか、陰口を聞いてしまったりだとか色々あったけれど、アランが何か悪いことをしたというわけでもないのだ。嫌われていたと知った時は悲しかったけれど、アランの父が原因の誤解もあったし、人間には相性ってものがあるから、仕方ないことだと思う。怒ってもいない。
だからおそらく問題は、過去のトラブルとかではなくて、これから二人がうまくやっていけるかどうかなのだ。
アランはあんなに素敵で優秀な人だから、もし婚約を解消しても次の相手は引く手数多だろう。メアリにしてもおそらく父がそれなりの相手を見繕ってくるはずだし、何も困らない。アランと結婚しなくとも。
だからこそ──きっと、話し合うべきなのだ。
アランは今もメアリを嫌っているだろうか。メアリはアランに引け目を感じず隣に立っていけるだろうか。この人と結婚生活を送りたいという意思を、お互いに持てるだろうか。
思えば、メアリはアランについて何も知らない。ろくに話してこなかったのだから、当然のことだ。
一度、きちんと話をしよう。メアリは決意した。
いい香りのする紅茶と、小さくて可愛らしいケーキが二人分。
食堂に併設されているカフェのテラス席からは、美しく整えられた庭がよく見える。貴族たちが学ぶ学園だからこそ作ることができる贅沢かつ優雅な設備だ。
「お久しぶりです……いえ、そんなに久しぶりでもないでしょうか?」
「いや、ずいぶん顔を見ていなかったような気がするよ」
にこりとアランに笑いかけたが、彼の表情は硬い。
アランが伯爵領から戻ってきてからも顔を合わせる機会がしばらくなかった。まだ十日ほどしか経っていないので、実際には最後に会ってからそれほど時間が空いたわけではない。しかし、なんだか彼は以前よりもやつれてしまったように見えた。
「今日は来ていただいてありがとうございます」
父から手紙が返ってきて、メアリは一度きちんとした話し合いの機会を持ちたいということを、人を介してアランに伝えた。
そして、テラス席でのお茶会という形で話し合いの場が設けられることになったのだった。
「それで話したいことというのは、私たちの婚約についてなのですが」
そう切り出すと、アランはほんの少し、体をびくりと震わせる。そして、メアリの目を真っ直ぐ見て「申し訳なかった」と謝罪した。
「え?」
予想外の言葉に目をぱちくりさせ、首を傾げる。
アランは思い詰めたように目を伏せ、けれどもはっきりとした口調でこう続けた。
「僕は今まで、君の婚約者という立場にあぐらをかいていたのだと思う。自分が婚約者なのだから、望まれているのは自分なのだからと慢心し、気持ちを繋ぎ止める努力もしなかった。それどころか、君のことを誤解したまま陰口を叩き、自分から手を離すような真似をしてしまった。きっと君ほどの美貌なら次の婚約者として名乗りをあげる男は星の数ほどいるだろうに」
「ん?」
「僕を見放すのも仕方がないことだと思う。それでも、諦められないんだ。今更遅いと思うかもしれないが、今度こそ君と向き合いたいし、誠実でありたい。君を傷つけることは決してしないと誓う。だからもう一度婚約者としてやり直してくれないだろうか」
断罪を待つ罪人のように沈痛な面持ちのアラン。メアリはちょっと考え、
「……ええと。そうですね、まず、私はアラン様に謝って欲しいとは思っておりません」
そう答えた。
顔色を悪くするアランに慌てて弁明する。
「いえ、謝罪を受ける気にもならないとかではなくてですね。私、アラン様に怒ってません。だってアラン様は何も悪いことをしていないじゃありませんか。もちろん陰口はいいことではありませんけど、婚約者の愚痴くらい誰でも言っていることですわ。そんなにご自分を責めないでください」
「誰でもとは……君も?」
「いえ私は、違いますけど。だって、アラン様ほど完璧な婚約者はいませんもの。愚痴なんて言おうものなら逆に説教されてしまいます。それはそうと、あの、聞き間違いかもわからないのですが」
「うん」
「美貌、とかおっしゃいました? 今」
そう問いかけると、アランは不思議そうな顔をした。
やはり言っていなさそうだ。おそらく脂肪とか微分とかを聞き間違えたのだろう。なんだか恥ずかしい勘違いをしてしまったなと思っていると、アランが腑に落ちたように「ああ」と頷いた。
「なるほど、確かに美貌なんて言葉で片付けてしまうのは失礼かもしれないね。けれど、僕は君の美しさを完璧に表せる言葉を持ち合わせていないんだ」
「んん?」
メアリは90度くらいまでぐいんと首を捻って考え込んだ。アランの顔には困惑の表情が浮かんでいる。どうやら皮肉を言っているわけではなさそうだ。とすると。
「失礼ですけど、アラン様ってものすごく視力が悪かったりしませんか?」
「は? いや、特別目が悪いということはないけど」
唐突に話題を変えられたことで怪訝そうな顔をしながらも、彼ははっきりと否定した。
そこでメアリは顔の横で指を2本だし「これは何本に見えますか?」と聞いてみた。
「2本だろう?」
メアリは椅子から立ち上がり、2メートルほど後ろに下がった。今度は指を3本付き出す。
「これはどうですか?」
「3本」
さらに2メートルほど後ろに下がり、今度は握り拳を顔の横に掲げた。
「では、これは?」
「ゼロ。さっきも言ったけど、別に視力は悪くないよ」
なるほど。メアリは納得した。
──アラン様は視力が悪いのではなく、感性がおかしかったのだ!
衝撃の事実。アランとは何か根本的なところで認識の齟齬があるような気はしていたが、なんとなく、今までの違和感が回収されたように思った。
「アランと釣り合わない」という自虐がアランを貶めているように解釈されたのも、異性の友達といるのを「侍らせている」と表現されたのも、メアリの容姿を異様に高く見積もっていることが背景にあったのだろう。
ぼんやりとこれまでの違和感を思い返していたメアリは、アランに「あの、大丈夫?」と声をかけられてはっと我に返った。
「あ……確かにアラン様の視力は正常なようです。失礼しました」
「なんだかよくわからないけど、君の中で納得がいったようでよかったよ」
こほん、とアランが咳払いをする。
「それで……婚約解消の件は、考え直してもらえるんだろうか?」
「そうでしたわね。実は私、今日はアラン様に婚約解消の意志があるかどうか確認しようと思っていたんです。けれど、アラン様が先に意思表示をしてくださったので、その点についてはもうすんでしまいました。私もアラン様が婚約の継続を望んでくださるのであればそれに否やはありません。ですが、その」
「なんだろうか」
「蒸し返すようで申し訳ないのですが、アラン様は私に色々と不満がおありだったのでは? もしも無理をしていらっしゃるなら……」
アランが家のことを考えて、嫌いなメアリとの結婚生活に耐えるつもりでいるとしたら、そんなのはメアリの望むところではなかった。それならいっそ婚約解消をした方がいい。父が娘を傷つけられた報復として伯爵家に損害を与えるようなことは……多分ないとは思うが、もしそのつもりだったとしてもメアリはなんとか説得して考えなおしてもらうつもりでいた。
アランは気まずげに苦笑した。
「いや、あれは本当に僕が悪かった。先入観のせいで君の行動をことごとく悪く捉えてしまっていたんだ。今は君のことをわがままだとか傲慢だとか思ってはいないよ」
ただ、とアランが言い淀んだ。
思うところがあるなら正直に言ってほしいと促すと、アランは「他の男ともう少しだけ距離をとってほしかった」と話した。単なる友人としか思っていないとは分かっていても、どうしても心配になってしまうのだと。
メアリは大いに反省した。自分たちはそれなりに顔を合わせる機会もあったし言葉も交わしてきたはずなのに、全く分かり合えていなかったらしい。そう気づいたからだ。
男子生徒との距離感には今後気をつけると伝え、アランに今まで不快な思いをさせたことを謝罪した。
「いいや、君が悪いわけじゃない。ただ僕が勝手に不安になってしまうだけなんだ。君があまりに魅力的だから」
真面目な顔で冗談のような言葉を吐くアランに、メアリは無言で笑みを浮かべた。
──アラン様は完全無欠を具現化した存在のように思っていたけれど、まさかこんな「欠点」があったなんてね。びっくりだわ……。
あとで機を見てこの誤解は訂正しよう。メアリは決意した。
平凡極まりないメアリが、よりによってきらきらしい美貌のアランに容姿を褒め称えられるなど恥ずかしすぎる。
メアリはすっかり冷めた紅茶を一口啜った。
「……ともかく、これからも婚約者として、よろしくお願いしますね。アラン様」
メアリはもう一度、アランににっこりと笑いかけた。
おまけ
アランは美的感覚が少しおかしい。
それが完璧に見える彼の唯一の「欠点」だと思っていたのだが、どうやら違うらしいということが最近わかってきた。
「ですから……私、そんなに男性に人気のある見た目ではないんです。特別美しいわけではありません。不細工というわけでもないと思っていますが、平凡です。ものすごく、平凡なんです」
婚約を継続することが決まって以来、アランとは週に一度ほどお茶をしている。アランが学園に入ってから消えてしまった習慣を復活させたような形だ。
雰囲気は悪くないと思う。お互いに相手ともう少し話をすべきだったと実感して、踏み込んだ話もするようになった。アランは話が上手いので楽しいし、美しい婚約者を存分に眺められるので目の保養になる。メアリはこのお茶の時間を気に入っていた。
けれどこの話題になった時だけは、メアリの心は穏やかではいられない。
「メアリ、君は自分の魅力を全くわかっていないんだね……でもそういうところも可愛いよ」
「アラン様……」
顔が熱い。
メアリは真っ赤になって顔を伏せた。近頃のアランは頻繁に恥ずかしげもなく甘い言葉を吐く。いくらメアリが自分はモテないのだと真実を伝えようとしても、この調子なのでメアリの方がどうしようもなく照れてしまい、いつも有耶無耶になってしまう。最近の悩みの種だった。
──周りの人に言われても、信じないらしいし。
この前、アランの友人であるポール(アランがメアリの愚痴を言っていた相手だ)と話す機会があった。その時彼に聞いた話によれば、アランの友人や周囲の女の子が、メアリの容姿を地味だと評したことは幾度もあった。けれど、アランはそのどれをも「目が極端に悪いか、美的感覚が変わっているんじゃないか?」の一言で一蹴していたらしい。なんというか……うん。
流石にメアリも察した。
アランは美的感覚がおかしいだけでなく、やや思い込みが激しいのだと。
「メアリ、これは前にも言ったけどね。もしも仮にメアリの容姿が他の人から見ればそれほど美しいものではなかったとしても、僕にとっては誰よりも可愛くて素敵な女性なんだ。だから平凡だとか美しくないとか、そんなふうに言わないで?」
そう言って、アランはメアリの髪を優しく撫でた。
こういう風に言ってくれるから、訂正する気力も失せてしまう。自分のことを不美人だと強弁するのも地味に精神的負荷がかかるし。その度アランに容姿をほめられるのも恥ずかしい。
「ありがとうございます。……私も、もし他の人が私の容姿を褒めてくれたとしても、アラン様に可愛いって言われるのが一番嬉しいです」
顔を伏せたまま小声でそう伝えると、ガタンと音を立てて立ち上がったアランに抱きしめられた。
「嬉しい、メアリ」
つまりはこんな風に、この話題はいつも流れてしまうのだった。
でもまあいいかな、とメアリは思う。だって今、とても幸せなのだから。