1. 悪役王女ティアナ
ぽたりと冷たい感触が頬をつたり微睡んでいた意識がはっきりしてくる。
ここはどこだろうと記憶を手繰り寄せてみるが、覚えていることは全身にすごい衝撃を受けたということだけだった。
目の前に見える綺麗な新緑色の瞳からぽろぽろと流れる涙。
先ほど頬を伝ったのは彼のものだったのだと理解する。
何故知らない外国人に号泣されているのだろうか。
ん?ちょっと待って。
この人、知ってる気がする。
そう、最近ハマっていた"白薔薇王子は月夜に愛を奏でる"という漫画。
アラサー女子の私にとって、購入にいささか躊躇してしまうような題名だが、それに出てくる白薔薇王子の父ノーティス王に瓜二つなのだ。
本当に彼ならば、どんなことがあっても無表情を貫く。
そんな設定だったはずなのに何故こんなにも泣いているのか。
違和感を覚えながら何度か瞬きをしてみる。
「ティアナ!」
「?」
「…良かった。君まで私を置いて遠くに行ってしまうのかと思ったよ。」
震える腕で優しく抱き込まれ、何度もそう言ったノーティスは相当心配していたようだ。
推していた人物に抱きしめられるなど、嬉しいことこの上ない状況なのだが、彼がいうティアナという名前に思い浮かんだ人物にまさかと思い浮かべる。
ティアナ・ティル・オルカトラ
白薔薇王子であるノア・アルト・オルカトラの妹であり、作中でヒロインと兄の関係に嫉妬し幾度となく悪行をして困らせてくる厄介な少女だった。
王女故に悪行を咎める者がおらず、それを上手く交わしながら二人は逢瀬を繰り返すという作品なのだが、物語の最後には兄のノアによってノーティスに告げられ、罰として塔に幽閉される。
泣き叫びながら連れられていくその姿は、漫画とはいえ痛々しく印象に残っていた。
これは推しに会えたと喜んでいる場合ではない。
正直転生なんて信じるような柄ではないが、この状況を否定できるほど明確な理由もないのだ。
ティアナに転生したのであれば漫画の内容を事細かに思い出す必要がある。
このシーンもどこかで見たことがあるはずだ。
ティアナについて説明が記載されたページ。
幼少期の彼女は故ティターニア王妃の病弱な身体を受け継ぎ、何度か生死を彷徨ったとか。
それ故に父であるノーティスは勿論兄のノアや周りから過保護に育てられた。
それにより我が儘に成長してしまったという。
この回想が現在進行形で起きているということはまだヒロインと出会う前だろう。
ならばこれから先、我が儘に育たなければ悪役王女として幽閉されることなく幸せな人生を送れるはずだ。
そもそも、私は推しであるノーティスと仲良く幸せに暮らすことができるのであれば、王子とヒロインがどうなろうと興味もない。
親子という関係は多少残念なところはあるが、最初から愛されている娘という立場はオイシイ立ち位置である。
ファザコンでも亡き妻以外と結婚する気はないと宣言していた彼の妨げにはならないだろう。
さり気なくノーティスに抱きつきながらこんなことを考えている娘はありなのかと考えながらもバレなければ何の問題ないと勝手に判断してこの状況を楽しむことにした。
あれから暫くティアナを堪能していた彼だが、王というだけあって忙しいようで名残惜しそうに去っていく姿を見送れば、見計らったように入ってきたメイドによって裸にされ、綺麗に身体を拭かれていく。
幼い身体でも中身はアラサー女子。
正直恥ずかしい気持ちが沸き上がってくるが、彼女達は手慣れているようであっという間に新しいネグリジェに着替えさせられるとすぐに暖かいベッドに寝かされた。
とはいえ今しがた起きたばかりで眠気など全く無い。
まずは彼女たちの話を聞いて自分の仮説を立証したかったのだが、用を終えるとすぐに部屋から居なくなってしまいタイミングを逃してしまったようだ。
シーンと静まり返った部屋を見てやっと動き出せると広いベッドから這い出て床へと足をおろせば、足元に置かれたルームシューズにはうさ耳が付いており可愛らしい。
ふかふかのそれに足を入れ歩いてみるとまだ幼い身体だけあって重心が安定しないため、歩きづらいが姿見で彼女を確認してみようと移動する。
この部屋は思っていた以上に広いようですぐそこに見えたはずなのに意外と時間がかかってしまった。
それはこの身体が病弱というのが大きく関わっているのだろう。
少し歩いただけだというのに息苦しく、視界が歪む感覚に転生前の健康体が恋しいとため息が出る。
しかし、今はそんなことを考えている暇はない。
何度か深呼吸して整えようと頑張ってみたが、すぐに無駄なことを理解し諦めた。
このままいけば遅かれ早かれ倒れるのは病気について無知な私ですら想像できる。
だがここで諦めるにはいかない。
ぐっと手を握りゆっくりと姿見の前に立てば、父親譲りのブロンドの髪に深い紫の瞳。
5歳くらいだろうか?
まだまだ幼い顔つきだが、すでに完成された容姿端麗な姿。
私の仮説に間違いはなかったようだ。
そんなことを考えながら傾いた身体に抵抗することなく、今から来るであろう衝撃に備える。
「ティアナ!」
聞き慣れない声の主に抱きとめられ、床に倒れ込むことは避けられたようだ。
誰だろうと視線を動かしてみたが、すでに意識の混濁している状態では確認することも出来ない。
そのまま抵抗することなく、意識を深く沈めていった。
あれから何度か微睡んだ意識が戻ることはあったが、異様に熱を帯びた身体では何もすることが出来ず、そのまま眠りに落ちるを繰り返していた。
やっと意識がはっきりしてきた頃には人の気配はなくなり、静まり返っている。
漫画で見る病弱キャラ。
見る分には可愛い設定なのだが、実際自分がなると思い通りに動けないことにため息しか出ない。
だが、このままずっと寝て過ごす幼少期など私は求めてはいないのだ。
多少無理してでも新たな人生を謳歌するためにまずは身体を起こしてみる。
想像していたよりすんなりと起き上がれたことに安堵しながら扉の外に人の気配がないか耳を澄ませてみた。
よし。
これならしばらく誰も戻ってこないだろうとベッドから這い出て床にあるはずのうさ耳ルームシューズを探してみるがどこにも見当たらない。
素足で歩くのは憚られるが、仕方ないと床に足を下ろし部屋の配置を確認してみる。
姿見までの距離は意識を失ってしまうことは理解できた。
ならばもう少し短い距離にしてみよう。
ベッドから見て左手にある片開きの扉。
右手にある廊下に続く観音扉とは別の何かのようで気になっていたのだ。
とりあえず恐る恐る歩みを進めてみれば問題なく扉へとたどり着いた。
そっとドアノブに手を掛けゆっくり開けるとそこには身体に不釣り合いな椅子に座って本を読む少年が見える。
白銀の髪と新緑色の瞳に見覚えのある横顔。
白薔薇王子の幼少期だろう。
彼が白薔薇と称される所以である透明度の高い白い肌に、遠くから見てもわかるほど整った顔立ちは精巧な人形のようで、動いていなければ生身の人間だと思わない程だ。
しばらく眺めていたが、彼と話す心の準備はまだできていないと音を立てないように扉を閉めよう。
そう思って動いたはずだったが、病弱なティアナの身体をすっかり失念しており、後ろに下がった足に力が入らずそのまま尻もちを付いてしまった。
大きな音は出なかったはずだが彼の視線がこちらに向いたのが見え、その瞳は見開かれている。
「ティアナ!」
椅子から飛び降りるようにしてこちらへ向かって走ってきた彼。
準備とかそんなこと言っている場合ではない。
確かティアナは兄であるノアのことをお兄様と呼んで慕っていたと記憶している。
ヒロインとの関係を邪魔する気はないが、あからさまに兄である彼を避けるのはおかしいだろう。
とりあえず何か話さなくてはと口を開こうとしたが、いきなりの浮遊感に言葉を飲み込んだ。
「まだ動いてはダメだよ。僕につかまって。」
その言葉に彼に抱き上げられたのだと理解した。
子供とはいえ兄というだけあって軽々と抱き上げるところは流石である。
しっかりとした足取りでベッドへと運ばれていく。
「大丈夫?痛いところはない?」
「だ、大丈夫…です。」
近すぎる距離で綺麗な瞳に覗き込まれたことで顔に熱が集まるのを感じた。
なるほど。
この言動がティアナをブラコンにする原因か。
確かにこれだけ容姿端麗な兄が自分にだけ優しくしてくれるのであれば、勘違いしてしまってもおかしくはない。
だが、ティアナの中身はアラサー女子。
転生前が恋愛経験豊富だったというわけではないが、目的を忘れたりはしない。
とりあえず彼とは近付き過ぎず離れ過ぎずのちょうどよい関係を保てるように努力しよう。
そんなことを考えているとベッドに寝かされ、ブランケットに包まれる。
「そう、それならよかった。でもいつもなら声を掛けてくれるのにどうしたの?」
心配そうな表情を濃くした彼にしまったと思いながらも、ティアナがどのように接しているか漫画に描かれていたとはいえ詳細まで覚えているはずもない。
悪役王女である彼女は所謂サブキャラであり、ヒロインを中心に展開される物語では多く取り上げられていなかったのだ。
ただ、幼少期からすでに我が儘の頭角を現していた描写があった記憶もあるのでその辺りを軌道修正していこうと心に決める。
「お兄様のお邪魔になるかと…。」
「ティアナが邪魔になるはずない。ただ、まだあまり動いてはいけないとお医者様が言っていたからね。僕が毎日ここに来るよ。」
「お兄様が…ですか?」
「うん。もうすぐお茶の時間だから父上も来ると思うよ。」
「お父様も来られるのですね。それは楽しみです。」
推しのノーティスが来るのは大歓迎だ。
嬉しさのあまり自然と口元に笑みが浮かんでいたようで、ノアが不機嫌そうな表情が見える。
「どうかされましたか?」
「父上が来る方が嬉しそうだね…。僕は邪魔かな…。」
「い、いえ。そんなことはありません!お二人とも来て下さるのでとても嬉しいです。」
流石に大人げなかったと反省してすぐさま否定すれば彼から満足げな表情が見えた。
兄のノアと険悪な関係になるのは悪役王女以前の問題だ。
これから先どうなっていくのか現段階では何もわからないが、転生前の知識と経験を頼りに楽しみながら生きていこう。
そう考えるのだった。