昔語り【中編】
その日その時その瞬間まで、僕の意識は曖昧模糊としていた。
ひどく頼りなく、不安定。まるで寄せては返す波のよう。
――『彼女』という存在そのものが、僕を形作ってくれたんだ。
***
「お代わりをねだる彼女に嬉しくなって、僕は懸命に体を揺らした。ぽとぽとぽとぽと、林檎は落ちた。彼女は大喜びでそれを拾い、芯だけ残して全て綺麗に平らげた……」
うっとりと頬を染め、初代さんは悩ましげな吐息をつく。精霊の実の大樹が、呼応するようにさらさら揺れた。
初代さんは両眼を覆う黒の丸ガラスを少しだけずらすと、荒っぽく目元をこすった。すばやくガラスを戻し、しゅんと鼻をすする。
「……僕は、彼女に伝えたかった。また君のために実を付けるから食べてくれ、と。けれど当時の僕は、声の出し方など知らなかった。言葉など知らなかった。……だって僕は、ありふれた林檎の木に過ぎなかったのだから……」
ガイウス陛下がごくんと唾を飲み込んだ。
「精霊では……なかったのですか?」
掠れ声での問い掛けに、初代さんは唇をきつく引き結ぶ。無視してそっぽを向き、「それからすぐ」と声を荒げた。
「彼女はここを安住の地と定めたのさ。僕の木を中心として、新たな集落を作ってくれたんだ」
それまで別々に暮らしていた種族が、ひとつになった瞬間だった。
結界の内側は作物が豊かに実る楽園で、獣人達は種の隔たりもなく力を合わせた。
獅子の獣人も蛇の獣人も、猫の獣人も熊の獣人も。やがて集落はランダールという名の国となり、フィオナは王と呼ばれるようになった。
震える手を隠すように握り込んだ初代さんが、どっしりと根を張る大樹を見上げる。その細い背中は切なげで、ひどく物悲しい。
「初代さ――」
「しいっ、リリアーナ。邪魔しちゃ駄目」
伸ばしかけた手を突然掴まれて、頬をやわらかな何かがくすぐった。一体いつの間に現れたのか、至近距離からコハクが私を見上げている。
目を丸くする私に、うさぎ耳をふるふる揺らしてかぶりを振った。
「彼が気分を害したら、ここで話が終わることもあるらしいんだ。せっかくなら最後まで聞きたいでしょう?」
琥珀色の真剣な瞳を向けられ、私も慌てて頷いた。唇にしっかりと人差し指を押し当てたところで、隣のガイウス陛下が挙手して口を開こうとする。
泡を食って彼に抱き着いた。
「リリアーナ?」
「あのね、ガイウス陛下。今、コハクが来てるんだけどね――」
小声で今しがたのコハクの言葉を繰り返すと、ガイウス陛下も大慌てで口を塞いだ。こくこくと勢いよく首を上下させる。
ほっとして彼から体を離した――その瞬間。
「そうよ。これからが本番なのよ」
「そうよ。彼がフラれる下りは絶対に聞くべきだわ」
「そうよ。青春大失恋物語なのよ」
鈴を鳴らすような可愛らしい声が響き渡り、初代さんの背中が目に見えて強ばっていく。
かちんと凍りつく私を、ガイウス陛下が不思議そうに見下ろした。コハクはあっちゃあとうさぎ耳を抱え込む。
私達の周囲を飛び回るのは、若草色のワンピースを身に着けた蝶の羽の小人さん。婚姻の儀式で、私に金の鱗粉を振りかけてくれた女の子達だ。
彼女達は開けっぴろげに笑いながら、歌うように囁き合う。
「せっかく彼女のために精霊になったのにね」
「もう彼女には他に好きな男がいたのよね」
「仕方ないわ。恋愛ってタイミングなのよ」
「お前達いいいいいっ!!」
初代さんが大喝した途端、彼女達はきゃあっと叫んで飛び去った。ガイウス陛下がぎょっとして目を剥く。
「しょ、初代殿? 突然どうなさったのです」
ひとり状況に付いていけていないガイウス陛下に説明してあげたいが、初代さんの怒りに油を注ぐことになりそうだ。
陛下の腕にきつく抱き着いて、「後でね」としかめっ面を作る。
ぜえはあと肩で息をした初代さんが、虫でも追い払うように手を振り回した。
「忌々しいおしゃべり共め……! これだから精霊は嫌いなんだっ」
「や、あなたも精霊でしょう……?」
苦笑する私をひと睨みして、初代さんは荒々しく地面に座り込む。あぐらをかいて、大きく舌打ちした。
「話を戻すぞ。――彼女は僕の林檎で命を繋いだと、大層な恩義を感じてくれた。まだ若木だった僕を囲むようにして壁を巡らせ、ランダール王家聖域の箱庭としたんだ」
「……っ。それって……!」
ガイウス陛下と二人して、せわしなく箱庭を見回した。ぐるりと視線を巡らせて――最後は精霊の実の大樹へと釘付けとなる。
言葉を失う私達に、初代さんは大きく頷いた。
「そう、ここだ。そうしてあの大樹が、僕の林檎の木。……当時の僕は、まだ頼りない若木に過ぎなかったが……」
声音に微苦笑が混じる。
ゆらゆらと立ち上がり、大樹へと歩み寄った。陶然として虚空を見つめ、幻の彼女に向かって手を伸ばす。
「彼女は国民の前では決して獣型を崩さなかった。けれど、彼女以外立ち入れないここでなら……彼女は王という責務から開放され、ひとりのうら若き乙女に戻れる。いつも人型に精一杯のお洒落をして、僕の林檎に小さな口でかぶりついていたよ」
美味しいわ、と彼女は幸せそうに林檎の木を見上げた。彼もまた幸せだった。
だから。
「僕は、こう答えたんだ。『君のためならば、いくらでも』と」
彼女はぽとりと林檎を落とし、目を丸くした。
彼自身だって驚いた。だって、ついさっきまで自分は単なる木だったはずなのに。
「僕は、茫然と己の手を見下ろした。頬を触った。唇をなぞった。そうしてやっと、理解したんだ」
――僕は、精霊に生まれ変わった!
青ざめていた初代さんの頬に、みるみる血の気か戻っていく。
「僕は、力強く彼女を抱き締めた。彼女は驚きながらも笑っていたよ。『ずっと助けてくれていたのは、あなただったのね』と」
当初この地を守っていた精霊の結界は、国が広がるうちにいつの間にか消滅したという。
飢えを乗り越えた獣人の中には、精霊の姿が見える者が何人もいた。無論、その内ひとりがフィオナ女王陛下だ。
獣人と交流するうち、精霊達は獣人に心を許した。彼らに加護を与えた。
作物がよく実ったのはそのお陰であって、初代さんはその頃まだ何もしてはいなかったそうだ。
「僕は正直に打ち明けたんだ。僕じゃない、僕はたった今精霊になったばかりだから、と。けれど良かったら、僕と契約して欲しい、とも」
――この先未来永劫、君とこの国を守ってみせるから。
「彼女は美しく微笑んだ。勿論よ、とすらりとした腕を差し伸べてくれた」
そうして、フィオナ女王陛下は彼に名を与えた。
二人は互いの名を呼び合って、しっかりと手を繋ぐ。はじまりの契約が成立した。
そこまで一息に説明して、初代さんは晴れ晴れと微笑んだ。
両手を大きく広げ、己の体にきつく巻き付ける。
「僕はすぐさま彼女を抱き締めた! 太陽のように輝く黄金色の瞳を覗き込み、思いの丈を告白した!『好きです、僕の伴侶になってください!』と……。そう、したら……」
だんだんと声が小さくなっていき、初代さんはがっくりと肩を落とす。猫背になって、私とガイウス陛下とコハクを順繰りに見回した。
しょんぼりして首をひねる。
「彼女が、何と答えたかというと……」
情けなそうに口をつぐんでしまったので、私とガイウス陛下はすばやく目配せを交わし合った。いっせーの、で同時に口を開く。
『他に好きな男がいるからゴメンネ?』
「…………そうだ」
そのまま、やさぐれたように地面に突っ伏してしまった。




