第77話 君がため。
大樹に宿った実は信じられない速度で成長し、今やりんごと同じぐらいの大きさになっていた。その表面はほんのりと黄色く色づき始めていて、きっとこれから黄金色に変わっていくのだろう。
きらきらと陽光を弾く実を見上げ、うっとりとため息をつく。
「きれい……。完全に熟したら、もっと美しくなるのでしょうね。楽しみだわ」
「そうだね。この分なら、あと二、三日ってとこだと思うよ」
隣で同じように実を見つめていたコハクも、嬉しげに私に微笑みかけた。どちらからともなく手が伸びて、二人でぎゅっと手を繋ぐ。
(……コハク……)
あの日。
お茶会が終わってすぐ、私とガイウス陛下はコハクに事の顛末を報告した。
はじまりの精霊と無事に会えたこと。
この精霊の実は、私のために彼が実らせたものであること。
……そして、ガイウス陛下のための実はもう二度と生らないことを。
コハクは怒るでも嘆くでもなく、じっと私達の話に耳を傾けていた。
長い話が終わった後、彼はしばらく目を閉じた。そうして再び目を開けた時には、彼の琥珀色の瞳はもう揺らいではいなかった。
彼は、全てを受け入れたのだ。
――隠さず話してくれて、ありがとう
――コハク。私はこの実を、ガイウス陛下に
――それは駄目だよ、リリアーナ。君のための実を他者に譲っちゃいけない。あの時の繰り返しになるだけだ
そう気丈に告げて、コハクは大人びた表情で微笑んだ。
強い決意を宿した瞳を前に、私は返す言葉が見つからなかった――……
あの日のことを思い出して、私は無理に笑顔を作る。コハクと繋いだ手を大きく振り回した。
「あのね、コハク。私、良いことを思い付いたんだけどね?」
底抜けに明るい声を出すと、コハクが不思議そうに首を傾げた。瞬きする彼にいたずらっぽくウインクする。
「私とガイウス陛下で、この実を半分こしたらどうかしら? そうすれば、もしかしたら私達二人とも――」
「何言ってるの。そんなの絶対に駄目だよ、リリアーナ」
途端に声を荒げたコハクが、厳しい眼差しで私を睨み据える。
「祝福っていうのは、そんな性質のものじゃないんだ。都合よく分け合おうだなんて不遜な考えで、二人とも何の加護も得られなかったらどうするの? それこそ貴重な精霊の実が無駄になってしまう」
理路整然とたしなめられ、私はがっくりと肩を落とした。そのまま黙りこくっていると、コハクが慌てたように私の顔を覗き込んだ。
「ごめん、きつく言いすぎちゃった?」
「……ううん。コハクが正しいわ」
しおしおと笑って、「実はね」と情けなく眉を下げる。
「ガイウス陛下からも、コハクと全く同じことを言われて叱られちゃったの……」
「そっか、よかった。さすがはガイウスだね」
安堵したように頬をゆるめ、コハクはまた精霊の実を見上げた。焦がれるような、切ないような美しい横顔に、思わず目が釘付けになる。
長いうさぎ耳をそよがせて、コハクは地上からは届かない精霊の実に向かって手を伸ばす。
「この実、ふんわり甘い香りがするね。きっと、早くリリアーナに食べてもらいたがってるんだ」
「……そうかしら」
力なく肩を落とすと、コハクはもう一度「そうだよ、そうに決まってる」と自信たっぷりに断言する。迷いのないその瞳を見ていられなくて、そっと彼から顔を背けた。
(……ガイウス陛下……)
はじまりの精霊と別れてから何度も彼と話し合ったものの、彼は決して自分の意志を曲げなかった。自分は実を食べない、と。君に食べて欲しいのだ、と。
泣きながらかぶりを振る私に、だが、と彼はためらいがちに続けた。
――リリアーナ。もし、もしそれが叶わぬならば……
苦渋に満ちた彼の言葉を思い出し、暗い気持ちで俯いた。
私はやっぱり、この実をガイウス陛下に食べて欲しい。そうすれば彼は確実にコハクに会えるのだ。
なのに現実は、私も彼も自分は食べないと固く心に誓っている。
ならばもう、ガイウス陛下の提案に賭けるしかないのだろうか――……?
「リリアーナ?」
はっと物思いから覚めて身じろぎする。コハクが案じるように私を見上げていた。
慌てて微笑もうとして――すぐに笑うことを諦めた。コハクから手を離し、ゆっくりと彼の前に回り込む。
緊張に強ばっているであろう顔を彼に向けた。
「……コハク。私がこれからすることは……あなたを、ひどく傷つけてしてしまうかもしれないわ。それでも……それでも、私とお友達でいてくれる?」
掠れ声で問い掛けると、コハクは目をまんまるに見開いた。それから、すぐにくすぐったそうに笑い出す。
「何言ってるの! 当たり前だよ、リリアーナ。君が実を食べたからって、君を嫌うはずがない。だって、僕は……」
まるで壊れ物を扱うように、優しく私の手を取った。指を絡めて、ふわりと穏やかに笑む。
「僕は、ガイウスに負けないぐらい君のことが大好きだから。君が毎日元気に笑って、一日でも長く一緒の時を過ごせたなら……こんなに幸せなことってないよ」
――僕の、大切なお姫様。
ふわふわのうさぎ耳が私の頬を撫でた。
コハクが精いっぱい背伸びして、力強く私を抱き締めたのだ。ぶわりと一気に視界が霞む。
私も華奢な彼の肩に腕を回した。しゃくり上げながら、馬鹿みたいに何度も何度も頷く。
「ありがとう、コハク……。わたし……わたし、やっと決めたわ……!」
***
三日後。
大樹の実がとうとう完全に熟した。
つやつやした果実は黄金色に眩しく輝き、箱庭中に満ちるほどの強い芳香を放っていた。思わず胸いっぱいに甘い空気を吸い込む私の横で、ガイウス陛下もぴすぴすと幸せそうにお鼻を鳴らした。
ぷっと噴き出して彼の腕に抱き着く。
「ふふっ。やっぱりご自分が食べたくなったんじゃありません?」
「そ、そんなことはない」
ぶぶぶと勢いよく鬣を振って、ガイウス陛下は用意していた梯子をおごそかに担ぎ上げた。粛々と大樹に向かって歩を進め――……すぐに困り果てた顔で私を振り返る。
「リリアーナ! 花が……俺達の花が咲いている……!」
「ええっ!?」
慌てて彼に追いつくと、確かに大樹の根本から可愛らしい花が顔を覗かせていた。コハクがあっと悲鳴を上げる。
「ごめん、ちょっと張り切りすぎちゃったみたい……。精霊の実を収穫してから咲かせればよかったね?」
しゅんとする彼に笑って首を振った。「コハクが咲かせてくれたんですって」とガイウス陛下に通訳して、三人でほのぼのとオレンジ色の花を観察する。微風にふんわりと花びらが揺れた。
いつまでだって眺めていたいが、そうそうのんびりしてもいられない。
名残惜しい思いに駆られながらも、強いて勢いをつけて立ち上がる。
さて、と腕組みして大樹を見上げた。
「どうしようかしら。ガイウス陛下が梯子を支えて、私が登れば……」
「駄目だ!」
「駄目だよ!」
左右から同時にたしなめられ、ぺろりと舌を出す。
地上の騒動など知らぬげに、果実は高みから澄まして輝き続けていた。ガイウス陛下に肩車してもらったところで、手が届くかどうか微妙な位置だ。
「もう。肩車だって危険だからね、リリアーナ」
私の考えを読んだように嘆息して、コハクがキッと大樹を見上げる。「あれは僕が取ってくるよ」と宣言した途端、コハクの輪郭がぼんやりと薄れてゆく。
「えっ、コハク!?」
「リリアーナ?」
驚愕の声を上げた時には、すでにコハクの姿は跡形もなく消えていた。かと思えば、大樹の実の側に白い靄が出現する。
「コハク!? 大丈夫なの!?」
「もちろん。――ガイウスに抱っこしてもらって、リリアーナ。ぎりぎりまで手を伸ばしてね?」
白い靄は瞬きする間にコハクへと姿を変えた。得意気に笑って、コハクは枝の上からゆうゆうと私に手を振る。
慌ててガイウス陛下に頼んで、彼に抱き上げてもらった。慎重に位置を調整し、精霊の実の真下で腕を構える。
「――いくよっ」
いっせーの、と呼吸を合わせてコハクが果実をもいだ。息を止めて見つめ、落ちてきた果実をしっかりと手の中に掴み取る。
「やっ……たわ! ととっ!?」
黄金色の見た目に反して、それは至極やわらかかった。指が沈み込みそうになり、大慌てで力を緩める。
地上に降ろしてもらって実を確認すると、表面は傷ひとつなくなめらかに輝いていた。ほっと安堵してガイウス陛下に実を渡す。
「見て。とっても綺麗だわ」
「本当に。そうか、これが『精霊の実』……!」
ガイウス陛下は感極まったように瞳を潤ませ、ためつすがめつ実を観察した。
気が済んだところで私に返してくれたので、今度は私がくんくんと匂いを嗅ぐ。
「ああ、もうっ! なんて良い香りなの……!」
「リ、リリアーナ。俺も俺も」
ガイウス陛下が大きなお顔を近付けた。おひげのくすぐったさに笑いながら、二人仲良く香りを堪能する。
きゃっきゃっとはしゃぐ私達を、コハクがげんなりとして見比べた。
「……ねぇ。いちゃついてないで、そろそろ食べない?」
「あっ! そ、そうよね」
澄ましてガイウス陛下から離れ、彼と強く頷き合う。笑顔でコハクを振り向いた。
「あのね、コハク。――この実を食べるのは、私じゃないの」
「えっ!?」
愕然としてガイウス陛下を窺うコハクに、今度はガイウス陛下がかぶりを振る。私の誘導に従って、二人でコハクの前に立った。
「そして、俺も食べない。リリアーナと話し合って、そう決めた」
穏やかに告げて、私の手の中の精霊の実を最後にひと撫でする。目顔でうながす彼に、笑顔で頷いた。
深く息を吸い、黄金色に輝く果実をコハクに差し出す。
「――コハク。これは、あなたが食べるのよ」




