第75話 願い事はひとつだけ。
ガイウス陛下から言われるまで、この不可解な状況にまるで気付いていなかった。
茫然と立ち尽くす私をちらりと見て、はじまりの精霊は再びそっぽを向いてしまう。誰ひとり言葉を発しない中、薄紅色の花びらだけがひらひらと舞い続ける。
「あ、の……?」
勇気を出して一歩踏み出すと、精霊はやっとこちらを見てくれた。やれやれと言わんばかりに肩をすくめる。
「僕は悠久の時を存在する精霊。そんじょそこらの低級精霊と一緒にしてもらっては困る。自らの意思で人間に姿を見せる程度、僕にとっては造作もないことだ」
「あっ……。そう、ですよね」
考えてみれば、彼は精霊にして幻のりんご飴屋さんでもあるのだ。
収穫祭ではエリオットやハロルドも買っていたという話だし、自由自在に人間と交流することができるのだろう。
ひとり納得していると、陛下が不思議そうにおひげをそよがせた。慌てて彼にもりんご飴のことを説明する。
「えっ!? そうか、彼が……。あの時の、りんご飴売り……」
鋭い爪で困ったように頬を掻き、陛下はやおら決意したように精霊に歩み寄った。深々と腰を折る。
「その節は、あなたが落としたコインを勝手に使ってしまって申し訳ない。よければ次の収穫祭でお返ししたいのだが……」
「必要無い。君にあげた方が面白そうだから、わざと与えただけのこと。お陰でなかなか楽しい追いかけっこが見物できた」
二人の会話にぱちくりと瞬きする。
ガイウス陛下の毛並みに寄り添い、こっそりと服の袖を引いた。
「もしかして、収穫祭のレースの……?」
「ああ。彼のコインのお陰で、君のところに行けたんだ」
昨年の収穫祭――精霊の実を見つけ出す競争で、ガイウス陛下から危ないところを助けられたことを思い出す。そういえばあの日、初めて陛下が私に人型を見せてくれたのだっけ。
(あの時の陛下ったら、とっても格好良かったわ)
照れ照れと身悶えして陛下に体をぶつけると、陛下も恥ずかしそうに視線を逸らした。ほんわかした空気が流れる。
途端に射るような視線を感じた。
「……繰り返しになるが。僕の領域で、い、ちゃ、つ、く、な」
「わわわ!? す、すみませんっ」
大慌てで体を離す。……あら、でも離れすぎたら寒いわね。
仕方なく、そう仕方なくまた少し陛下に近付いた。触れ合わない程度の絶妙な距離感で、はにかみながら笑い合う。
「そろそろこの領域を閉じるか。心底アホらしくなってきた」
「待って待って待って!?」
用件が!
大事な用件がまだなんです!!
「あの、そのっ! はじまりの精霊さん、今日のお茶会を開催したのは、実はあなたにお願いしたいことがあったからで……!」
勢い込んでしゃべり出した私を制止して、ガイウス陛下が力強い足取りで前に出る。鋭い眼差しを精霊に向けた。
「ランダールに豊穣をもたらす『はじまりの精霊』よ。ランダールの今代の王、ガイウス・グランドールの名において、あなたに問いたい」
「…………」
唇を引き結んで黙り込む精霊に、ガイウス陛下は怯む様子もなくまた一歩踏み出した。
「今、精霊廟の大樹に宿っている『精霊の実』――。あなたから我らへの贈り物と理解して構わないだろうか」
「…………」
真っ黒なガラスに覆われて見えないはずなのに、はじまりの精霊がガイウス陛下を冷たく睨んだ気がした。
途端に空気に亀裂が入ったかのように、二人の間に緊張が走る。
ひっと小さく悲鳴を上げた私を、ガイウス陛下がすぐさま振り返った。瞳をなごませて優しく頷きかけ、再び精霊に向き直る。
「もしそうだとするならば、心より感謝申し上げる。――だが、我らには実がふたつ必要なのだ」
きっぱりと言い切ったガイウス陛下に、精霊がやっと身じろぎした。聞こえよがしにため息をつくと、あきれたように天を仰いだ。
「随分と強欲なことだ。……そう。親子揃って、な」
「……っ!」
ガイウス陛下が息を呑む。
言葉を失う彼に変わって、今度は私が震えながら精霊に対峙した。
「親子揃って、って……。それじゃあもしかして、ガイウス陛下のお父様も……?」
「そうだ。己の息子のためにもう一度大樹に実を宿してほしいと、あの男は朝な夕なに精霊廟へ祈りを捧げた」
勝手な話だ、と吐き捨てて、精霊は桜の木にだらしなく寄りかかる。舞い落ちる花びらを、射抜くように睨みつけた。
「あれは僕から彼女への真心だ。彼女はもうこの世にいないけれど――それでも僕は、彼女の血が続く限り彼女の子孫に真心を送り続ける。……それを、君達親子は何だ。僕の心は簡単に代わりのきく代物なのか?」
「それは……っ! 確かに俺は、あなたがくれたあの実を他者に食べさせた。あなたの好意を無下にしたことについては、心から謝罪する。だがっ」
声を荒げる彼に、精霊は「そうじゃない」と平坦な声で告げる。宙を舞う花びらをひとひら掴み、強く握りつぶした。
「君のために与えた実を、君は君の大事な仔うさぎに食べさせた。それ自体はどうでもいい。だって、あれは君のものなのだから。君の好きにしたって構わない」
けれど、と精霊は低い声で続ける。
途端に跳ねるガイウス陛下の背中に、大急ぎで寄り添った。強ばった背中を撫でる。
「けれど、無尽蔵に追加を寄越せというのでは話が違ってくる。この世にひとつしかない実を、他者に与えると決めたのは君自身。君のための実など、もう二度と実らすつもりは無いよ」
「――じゃあ、どうしてっ!?」
ほとばしるように出た叫び声に、精霊とガイウス陛下が同時に私を見た。強い視線に怯みそうになりながらも、懸命に呼吸を整えて精霊を睨む。
「どうして今になって、大樹に実をつけたの? あれが、ガイウス陛下のものじゃないのなら――!」
「あれは君のものだ、異国の姫君」
投げ捨てるように告げられた言葉に息を呑んだ。
立ち尽くす私達を眺め、精霊は久方ぶりに歪んだ笑みを浮かべる。さっきまでとは違い、ガラス玉に隠れた表情が生き生きと輝き出す。
「そう、あれは君のために実らせたのだよ。――さあ、どうする異国の姫君? あれさえあれば、君は万人が羨むほどの健康と長寿を得られ」
「なぁんだ、私のものだったのね? つまり私の好きにしていいわけね!? やったわガイウス陛下、それじゃああの実はあなたにあげるっ」
大はしゃぎで宣言して、体当たりするようにガイウス陛下の胸に飛び込んだ。やわらかな毛並みに腕を回し、そっと目をつぶる。
「……あなたが、食べるの。そうすれば、あなたはコハクに会えるわ。二人で思い出話だってたくさんできるのよ」
「リリアーナ……」
泣き出しそうな声を上げる彼に、顔を埋めたままで小さく首を振る。大丈夫、大丈夫よ。
「ちょっと待てッ!? あの精霊の実は、はじまりの精霊たるこの僕が実らせた特別な」
「コハク、きっと大喜びするわ。私とあの子の魂は繋がっているんですって。だからコハクが元気なら、私だって元気になるの。実なんか食べなくたって、充分健康なれるわ」
「だが、俺は君に……!」
頑なに受け入れないガイウス陛下に、もう、とため息をついて顔を上げる。ふさふさの鬣に手を当てて、にっこりと微笑んだ。
「私、まだまだこれからなの。ランダールの国も、国民の皆も大好きよ。あなたやコハク、メイベルにイアンにエリオット。ディアドラやハロルド、それからデニスにヴィー君、サイラスも。皆みんなとたくさん思い出を作っていきたいんだから、寝込んでなんていられない。――絶対。絶対よ」
約束するわ。
小指を差し出せば、ガイウス陛下が泣き出しそうに顔を歪める。
震えながら腕を上げかけて――……それでも彼はやはり激しくかぶりを振った。きつく牙を食いしばる。
「駄目だ、やはりできない……! リリアーナ、俺は君にっ」
「……君達。いい加減にしてもらおうか……」
突然、地を這うような低い声が聞こえた。
はっと振り返ると、桜の木の下、はじまりの精霊がこぶしを震わせて立ち尽くしていた。スッとこぶしを天にかざした瞬間、大量の花びらが私達に降り注いでくる。
「わぷっ!?」
大慌てで花びらの山をかき分けて脱出すると、精霊が腕組みして私達を見下ろしていた。
「何度言ったらわかるんだ? この僕の作り出した領域で――僕を無視するなッ!」
「…………」
えっと。
いちゃつくな、じゃありませんでしたっけ……?




