第69話 その果実は誰が為に。
表面のざらりとした実は見るからに硬そうで、明らかにまだ熟してはいなかった。きっとこれから黄金色へと変わっていくのだろう。
「でも、一体どうして……? 初めてここに入った時には絶対になかったわ」
「そうだな。俺も前回は全く気付かなかった」
いまだ大混乱の私とは違い、ガイウス陛下は落ち着きを取り戻したようだった。真剣な眼差しを上空の『精霊の実』に向け、私へと鋭く視線を移す。
「あれが、無事に熟したら――……」
いつも優しい彼に似つかわしくない、厳しい声音に肩が跳ねる。怯えて後ずさりしそうになるのに、陛下はそれを許さず強く私の手を握った。
「リリアーナ。君があれを食べるんだ」
「……ぇ……?」
どくん、と心臓が激しく脈打つ。
咄嗟にコハクを見ると、地べたにへたり込んだコハクは潤んだ目を懸命にこすっていた。真っ赤になった瞳で、無理していることがありありとわかる笑みを浮かべる。
「そうだね。……ガイウスが正しいよ、リリアーナ。君が食べるべきだ」
「――そんなっ!」
ひび割れた声が漏れ、泣き出しそうになりながら二人を見比べた。必死でガイウス陛下にすがりつく。
「駄目よ、お願いだからあなたが食べて! コハクに会いたくないの!?」
「会いたい。――心から」
苦しげに息を吐き、陛下は視線を泳がせた。
コハクを探しているのだ、と気が付いて、そっとコハクの隣に寄り添う。
ガイウス陛下がゆっくりと私達の側に跪いた。
コハクもためらいがちに顔を上げ、見えないはずの二人の視線が交錯する。
「コハク。叶うなら俺とて、心から君に会いたい。言葉を交わしたい」
「…………」
コハクの頬を静かに涙がつたった。慌てて彼を抱き締める。
それでも、とガイウス陛下は声を絞り出した。
「それでも……、俺は、リリアーナに食べてほしい。彼女が二度と、病に苦しむことが無いように。天寿を全うできるように」
「……うん」
小さく頷いたコハクの瞳から、最後の涙がこぼれ落ちた。震える唇を噛み、笑顔で私を見上げる。
「ごめんね、リリアーナ。僕、卑怯なこと考えた」
「コハク……」
「ガイウスが実のことを知ったら、きっと君に譲ってしまうに違いないから。……だから、君にだけ伝えて……。ガイウスに、実を……こっそり食べさせてもらえたらって……」
僕、馬鹿だった。
しゃくり上げながらの告白に、とうとう私も泣き出した。力の限りコハクを抱き締める。
「いいの、いいのよ! 私がコハクでも、絶対に同じことを考えたわ!」
「リリアーナ……」
くぐもった声で泣くコハクを、ぽんぽんと叩いて慰めた。涙をぬぐい、キッとガイウス陛下を見上げる。
「ガイウス陛下。私、絶対に食べません。今までだって生きてこられたんだもの、まして今の私はコハクのお陰で人並み程度には健康で」
「人並み以下だよ、リリアーナ」
コハクがすかさず突っ込みを入れてくる。もう、どっちの味方なの。
「――とにかくっ。私は何があろうと食べませんから。精霊の実はガイウス陛下が食べてください!」
「いいや、君が食べるんだ」
頑なに主張を曲げないガイウス陛下に、だんだんと腹が立ってくる。地面を蹴りつける勢いで立ち上がり、腕組みして彼を睨みつけた。
「陛下のわからず屋っ!」
「君の方こそわからず屋だろう!」
むむむむと鼻息荒く睨み合う私達に、コハクが慌てて割って入った。
「ちょっと待って!? 僕のせいで喧嘩しないで、冷静に話し合おう!?」
「あら、私はこの上なく冷静よ!」
「そうか? 全くそうは見えないけどな」
ふんとそっぽを向くガイウス陛下に、眦が吊り上がる。なんですってー!?
「もう二人とも! いい加減に――……ふっ」
「コハク?」
突然膝を折った彼に慌てて近寄った。
コハクはふるふると背中を震わせると、爆発したように笑い出す。
「ああ、おかしいっ。いつも当てられるぐらい仲がいいくせに、君達でも喧嘩するんだねぇ!」
「え? あ……」
なんとなく赤くなって、ぺたんと座り込む。
おろおろと陛下を見上げ、せわしなく髪に指を絡めた。
「そりゃあ、ね。時には喧嘩ぐらいするわよ。ねえ陛下?」
「あ、ああそうだな。そういえば、君と喧嘩するのは二回目か……」
呟きながら、陛下も地面にあぐらをかいた。なんだか気恥ずかしい気持ちになって、二人くすぐったく笑い合う。
……うん。
そうよね、言い争いしている場合じゃないわ。
深呼吸して、今の状況を整理することにした。
「考えてみたら、実が熟すまでにはまだ時間がありそうだものね。……そうだっ」
ぽんと手を打って大樹を見上げる。
「そもそも実はひとつしか生ってないの? ふたつあれば問題も解決――……」
「残念、ひとつだけだよリリアーナ。僕も必死で確認したんだ」
コハクの言葉にがっかりしつつ、抜かりなくガイウス陛下に通訳する。
ガイウス陛下も難しい顔で考え込んだ。虚空を睨みながら、ゆっくりと口を開く。
「そもそも、と言うのなら。――なぜ、大樹は突然実をつけたんだ? 父は城を出ていくまで、毎日のように大樹を気にかけていたと思う。その度に、やはり実は生っていないと失望していたようだが……」
「前回私達が来た時も、ですものね。この短期間で何かあったのかしら……」
答えのない話し合いに途方に暮れてしまう。
それまで黙りこくっていたコハクが、慎重に私達を見比べた。
「大樹が今になって実をつけた意図はわからないけど。……誰がその現象を起こしたか、っていうのならわかるよ」
「え?」
大急ぎでガイウス陛下に通訳して、二人そろって身を乗り出す。ごくりと唾を飲み込んだ。
たっぷりと間を置いてから、コハクは重々しく口を開く。
「大樹の主にして、はじまりの精霊。――そう、これはまず間違いなく初代の仕業だよ」




