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第64話 絆のかたち。

「それでね、花の種は無事に植えられたんだけど。陛下がまた木登りに挑戦するんじゃないかって、私気が気じゃなくって」


 しかも、あの場所には王族しか出入りできないから始末が悪い。

 陛下が一人でこっそり木登りした挙げ句、真っ逆さまに落っこちて腰でも強打したらどうすればいい?

 助けを呼ぶことすらできないじゃない。


 小さくため息をついて天を仰いだ。


 ――ステンドグラスを通して、色とりどりの光が降り注ぐ精霊廟。

 視線を下げると真っ白なフィオナの花も、光を弾いてほんのりと色づいている。ここもすっかり春なのだ。


 こんなにも美しい景色の中にいるというのに、私は鼻息荒く怒っていた。怒涛のように文句をまくし立てながら、メイベルお手製の枕を力の限り抱き締める。


「だからね、一応予防措置は講じておいたんだけど。それでも不安だから、私きっぱり言ってやったの。『もし木登りなんかしたら、一生陛下と口をきいてあげないんだから!』って」


 自分でも子どもの喧嘩みたいな言い草だとは思ったが、陛下相手には効果てきめんだった。

 今にも泣き出しそうに獅子のお顔を歪ませて、こくこくと必死で何度も頷いていた。その時の彼の表情を思い出すだけで、怒っていたのも忘れて頬が緩んでしまう。


「もう、ガイウス陛下ったら本当に可愛らしいんだから。ね、コハクもそう思――……」


 朗らかに話しかけた途端、笑顔が凍りついた。


 なぜなら彼の顔から、すっかり感情が抜け落ちていたから。虚ろな瞳は瞬きすらしておらず、口は呆けたように半開きになっていた。


「コハク!?」


 動揺して彼の細い肩を掴む。軽く揺さぶると、ふわふわしたうさぎ耳が小刻みに震えた。


 ……違う。

 震えているのは、うさぎ耳だけじゃない。


「コハク……?」


 静かに呼びかけて、カタカタと震える彼の体に腕を回した。いつもガイウス陛下が私にしてくれるみたいに、包み込むように――守るように抱き締める。


 ゆっくりと何度も背中をさするうちに、強ばっていたコハクの体が少しずつ弛緩してきた。ほっとして、今度は銀糸みたいな細い髪に指を絡ませる。


 毛づくろいするように手櫛で整えていると、コハクが長い吐息をついた。私の手を掴んで制して、ぎこちない笑みを向ける。


「……ごめん、ありがと。もう、大丈夫」


「そう? 残念だわ。せっかくあなたの素敵なうさぎ耳を、じっくり堪能するチャンスだったのに」


 わざと軽口を叩くと、コハクも私に合わせて笑ってくれた。今度の笑顔はさっきほどは無理していない。


 彼の頭を最後にひと撫でして、やっと体を離した。……うん、大丈夫。確かにもう震えてないわ。


「ね、コハク。どうしたのか、聞いてもいい?」


 慎重に彼の顔を覗き込むと、また少し顔を強ばらせる。それでもコハクは深呼吸を繰り返し、私に凛とした視線を向けた。


「……ん、大丈夫」


 きっぱり告げて、ぎゅっとこぶしを握り締める。


「――精霊の実にはね、確かにその力があるよ。あの実には、初代が込めた強い加護が宿っているから」


「……加護?」


 首をひねる私に、コハクはひどく真剣な眼差しを向けた。思わず私も背筋を伸ばす。


 唇を震わせながら、コハクがゆっくりと口を開いた。


「そう、そして祝福もね。あの実を食べれば……精霊との間に確かな絆ができる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「……ぇ……?」


 と、いうことは。

 ガイウス陛下に精霊が見えなかったのは……精霊の実が、精霊廟の大樹に生らなかったせい?


 目を丸くする私に、コハクが沈痛な表情でかぶりを振る。「そうじゃない」と掠れ声で続けた。


「大樹は……ガイウスのためにちゃんと実を付けたんだよ、リリアーナ。けれど、ガイウスはまだほんの子どもで、その意味を理解できていなくて。命の火が燃え尽きる寸前の……何の価値も無いちっちゃなうさぎを助けるために、それを食べさせてしまったんだ」


 ――世界にたったひとつだけ、ガイウスのためだけに実った貴重な果実だったのに。


 消え入りそうな声で付け足して、コハクは深く俯いてしまった。私と目を合わせないまま、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。


「精霊の実は……まだ、全然熟していなかった。親指ぐらいの大きさしかなかったし……色だって青々してた。――だから加護が充分じゃなくて、僕は結局死んでしまった」


「そんな……!」


 悲鳴を上げる私をちらりと見て、コハクはまた大急ぎで目を伏せた。小さな手で、膝頭をきつく握り締める。


「死ぬ瞬間……僕の魂は、全身全霊で叫んだんだ。このまま死にたくないって。まだまだガイウスと一緒にいたいんだって。そうしたら……」


「コハク……」


 膝に爪を立てている彼の手をゆっくりとほどき、冷えきった指先を包み込んだ。なだめるように何度も撫でると、コハクはやっと泣き出しそうな顔を上げてくれる。


「そうしたら、気が付いた時にはこの姿になっていた。仔うさぎの亡骸を抱き締めて、泣きじゃくるガイウスを茫然と見下ろして……」


 僕は、精霊になっていた。


 長いまつ毛に縁取られた琥珀色の瞳から、大粒の涙がぽろりとこぼれる。後から後から、膝の上にぽろぽろ落ちてシミを作った。

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