第61話 春の光の下で。
膝に置いた枕を抱き締めて、仕事中のガイウス陛下をじいっと見つめる。
落ち着かなげに鬣を掻いたガイウス陛下は、ごほんと空咳して私に向き直った。
「……リリアーナ。ここ数日ずっと様子がおかしいが、何か言いたい事でもあるのではないか?」
「いいえ陛下」
即答で否定して、ゆっくりと大きくかぶりを振る。
色素の薄い榛色の髪が、私の動きに合わせてふんわり揺れた。
ここ最近は毎晩香油を塗り込んで、櫛で百回は梳かしつけている。その甲斐あってか、細い髪の一本一本が窓からの陽射しを反射して、きらきらとこぼれ落ちるように光を放った。
「別に、なんでもありません」
ふるふる、ふるふる。
「私のことはお気になさらず、どうぞお仕事に集中なさって」
ふぁさっ、ふぁさっ。
「そう。全然全く問題なく――」
「いやいやいや! 誰が見ても気になるだろうその動きっ!?」
とうとう立ち上がった陛下が、飛ぶようにソファに向かって駆けてくる。ふかふかな両手で私の華奢な手を包み込んだ。
「悩みがあるなら打ち明けてくれっ」
「いいえ。本当に悩みはないのだけれど……」
小首を傾げて、やわらかな髪に指を絡ませる。
潤んだ瞳で陛下を見上げた。
「色は変えようがないから、もう仕方がないんです。おばあちゃんになったらちゃんと白くなるはずなんだけど。だからせめて今できる事として、一生懸命手入れしたつもりなの……」
「う、うん?」
目を白黒させる彼に構わず、ずずいっと距離を詰める。
「どうかしら、世界一美しいかしら? 私の毛っ!」
「髪じゃなく!?」
大絶叫で突っ込まれた。くっ、やっぱりまだ世界一には程遠いんだわ……!
唇を噛んで悔しがったところで、突然頭の上に何かが降ってきた。視界が閉ざされて大慌てで払いのける。
「はいはい、そこまで。喧嘩はやめてくださいね、お二人とも」
エリオットがあきれたように私達を見下ろしていた。彼が私達にかぶせたのは、やわらかな手触りの――……膝掛け?
エリオットは膝掛けを拾い上げると、きちんと折り畳んでガイウス陛下に押し付ける。
「仕事も一段落ついたところですし、休憩でもしてきたらいかがです?」
「そ、そうだな。行こうかリリアーナ」
ほっとしたように頷いて、私の肩を抱いて促した。しぶしぶ私も彼に従う。
(……ああ、今日も……)
君の毛は世界一美しい。
俺が一生君を守ってあげるよ!……って、言ってもらえなかったわ……。
***
大きくてやわらかな彼の手を握り、二人無言で廊下を進む。沈黙は決して嫌じゃなく、こうして彼の体温を感じているだけで幸せな気持ちになる。
毛が褒められなかったことも忘れ、上機嫌に顔をほころばせると、陛下もほっとしたように息を吐いた。
「どうする、精霊廟に向かおうか?」
「うぅん……。せっかくお天気もいいし、王城の中庭に行ってみませんか?」
コハクのおじいさん(嘘)の手入れしたという、花の咲き誇る見事な中庭。以前王城庭師のサイラスが褒めるのを聞いてから、ずっと春が来るのを心待ちにしていたのだ。
私の言葉に、陛下も「ああ」と嬉しそうに目を細めた。
「確かに、そろそろ見頃だろうな。昼寝するにはまだ風が冷たいだろうが、庭をぐるりと一回りしてみようか」
「はい、ぜひっ」
和やかに笑い合って中庭へと向かう。繋いだ手を大きく振って歩くと、なんだかこれから冒険に出発するみたいにわくわくしてきた。
「わっ、見てガイウス陛下! 一面黄色の花が咲いてるわっ」
「あれは畑だリリアーナ。油を取るために育てているんだ」
「…………」
なんと。
食用でございましたか。
「でも、綺麗だわ」
ムキになって彼の巨体を揺さぶると、ガイウス陛下がくくっと笑った。もう一度私の手を取り、「あちらはもっと凄いぞ」と私を誘導してくれる。
エスコートされるまま、緑の美しい中庭をゆっくりと進む。春の甘い匂いがする風に木々が揺れ、木漏れ日がきらきらと舞い踊った。
「わっ……!」
緑のアーチをくぐった瞬間、色とりどりの花々が私達を出迎える。
花壇の側には丸型のテーブルと椅子が置かれていて、無骨なランダール城にしては珍しい、真っ白で優美な見た目に手を叩いて歓声を上げた。
「素敵っ。もう少し暖かくなったら、あそこでお茶会をしましょうよ!」
「そうだな。その時はまたクッキーを焼いてくれるか?」
穏やかに目を細める彼に、心の奥底がくすぐったい気持ちになる。毛むくじゃらの温かな腕に顔を埋め、無言で何度も頷いた。
さらに庭を進むと、薄紅色の花が満開の木々が幾本も連なって、ひらひらと花びらが舞う幻想的な光景が広がっていた。
陛下の鬣にも花びらが落ちる。まるで花飾りを付けておめかししているみたいだと、お腹を抱えて大笑いした。
「綺麗ね。なんだか、夢みたい……」
うっとりと呟くと、陛下がなぜだか硬直する。おひげの一本一本まで、ピンと張って動かない。
「ガイウス陛下?」
「……ああ、いや」
ぶるぶるっと鬣を震わせて、陛下は一度だけきつく目をつぶった。そうして強い決意を宿した瞳を私に向ける。
「リリアーナ。年末に庭師から貰ったという花の種を、そろそろ植えてみないか?」
「――ああ! そうでしたねっ」
春になったら植えるよう庭師のサイラスから言われていたのに、コハクのことやら体調を崩したりやら色々あって、すっかり失念してしまっていた。
胸を弾ませ、「場所はどこにしましょうか?」と彼の腕を引っ張る。
陛下はきゅっと大きなお口を引き結ぶと、力強く私の手を取った。穏やかな声で、一言一句噛み締めるようにして告げる。
「この美しい中庭よりも、さらにもっと輝かしい場所に。精霊廟の、最奥。――常春の箱庭に、君を案内したいんだ」




